梅雨の思い出
何のひねりもないタイトルをつけてしまったことを、ちょっとだけ後悔している。
いやいや、そんなの変えればいいんじゃないか。誰にOKをもらわないといけないものでもないんだし。それはわかってる。でも変えないのは、そもそも「梅雨の思い出」なんてないからだ。
いま、前提が音を立てて崩壊した。その音を聞いた南米ペルーのアンデスを望むウニオン峠を行く荷運びのロバが足を滑らせそうになった。申し訳ない。
梅雨の思い出なんてとくにないのに、そんなタイトルを付けてきょうのnoteを書こうとしてるのは、気分が梅雨だからだ。
いま、読者が3人減った。何をあたりまえのこと言ってるんだろう。
言っておくけど僕はべつに梅雨が嫌いではない。夏が始まる前の儀式というか前奏曲として、なくてはならないものだと思ってる。
それに信州に移り住んで、たいした規模ではないけれど畑で野菜を育てるようになってからは、空梅雨、旱魃は切実な問題にも感じるようになった。
まあ、そりゃあ毎日毎日すっきりしない天気が続いて、いろんなものがじっとりとしてくると気分にまでカビが生えそうな気はするけれど、それで梅雨なくなればいいのにとは思わない。
なのに、気分が梅雨になるのはなぜなのか。いまわかった。寒いからだ。
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外の気温が12℃とかになってるとやっぱり寒い。だけどもう6月だからと脳内ではTシャツで過ごしてる自分がいるので、イメージと実際のギャップが大きい。
思い返せば去年の梅雨なんて爆速で過ぎ去ったから、ほとんど梅雨と思うこともなかったし、その前の年もたしかそんなに雨が降らなかった。つまりこっちに移ってはじめて「ちゃんとした信州の梅雨」を体感してるのだ。
端的に言えば東京にいたときは「蒸し暑い」梅雨イメージだったのが、こっちでは「肌寒い」梅雨だ。なんなら薪ストーブを炊いてもいい。いつでも火を点けられるようにまだ家の中に薪も残してある。
そういえば以前、同じように雨模様の6月に軽井沢のある食堂にイベントで行ったときには薪ストーブに火が点いていた。
冬でもない季節にストーブを囲む。沸いているお湯で煮出したチャイを飲む。雨で滲んだガラス越しにあじさいを眺めながら。
きっとそんな時間を過ごしたら、梅雨の思い出と呼べるものができるんだろう。雨とストーブとチャイ。問題があるとすれば僕がチャイをそれほど好まないことだな。