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缶ジュースを返す

ときどき、どうでもいいようなことを思い出して困惑する。うっとりするような思い出というのでもない。記憶の澱と呼べるほど小説的でもなく、夕陽に映える鉄塔のシルエットほどエモくもない、ただの記憶だ。

たぶん中学1年か2年ぐらいだと思う。その頃、僕は放送部に所属していて、お昼の校内ラジオ放送とか校内ラジオドラマだとかをつくっていた。べつに、すごく熱心にというのでもなく、学校でクラスの教室以外に放送室という別の空間に籠れるのが好きだったのだ。

だから全国中学校放送コンテストとかには無縁(そもそも顧問がエントリーしてたかどうかも怪しい)で、ただただ適当に自分の担当の日に好きな曲をかけまくり、適当な話をするだけの部活だ。

それでも、夏休み明けに放送するラジオドラマの効果音録りにレコーダーを持って出かけたり、部活の一環として東映太秦映画村で撮影現場見学とかしていた記憶があるので、おちゃらけてたわけでもなく一応ちゃんとやっていたんだろう。

その頃の写真とかもどこかにあったけれど、大人になるまでにいろいろエモーショナルな家の出来事があったりなかったりしたときに散逸したり処分したので手元には何も残ってない。

放送部の子や先輩の顔や名前もほとんど覚えてない。なんとなく数人覚えているだけだ。

        *     

身長が180cm近くあったニキビ顔のI先輩は、どうやら「放送部はモテる」という謎の勘違いをして入部したらしく、その説を実証できないまま僕ら後輩男子には慕われていた。

書道部や俳句部、競技カルタ部なんかは地味でも映画でヒット作にもなってるのに放送部が舞台になった映画はほぼないから、たぶんモテ要素は限りなく薄いんだろう。

あるとき、I先輩と電車に乗っていると、突然、I先輩が僕に「席、替わったるわ」と言った。ちらほら立っている人もいるけれど、それほど混んでいるわけでもない。僕は立っていてべつに窮屈な思いをしてもいないのに、I先輩やさしいなと思いながら譲られた席に替わって座った。

すると、I先輩が僕に顔を近づけささやいた。

「前のおねえちゃんのパンツ、よう見えるやろ」

はい? あのそれって言ったらダメなやつでは……。I先輩は僕を共犯にしてくれるぐらいやさしい人だった。おかげで僕は眠くもないのに、ずっと眠ったふりをしなければいけなかった。

もう一人、なんとなく覚えているのは女子のM先輩だ。誰似というのでもない、どちらかと言えば少し勉強ができる人ぐらいの印象しかない。

その日はM先輩とのお昼の放送を担当する日だった。どういう振り分けでそうだったんだろう。必ず男女ペアということでもなく、たまたまそうだったのかもしれない。僕としては、同級生の男子との放送のほうが気楽だったのだけど。

だからといって、特別な事故もなくM先輩とのその日の放送も終わった。給食の片づけ(放送担当の日は放送室で給食を食べるので自分で食器を戻さないといけない)をして教室に戻ろうとしたとき、M先輩が僕を呼んだ。

「今日、一緒に帰ろ」

え?

そういう展開は当時の僕にはインストールされてなかったので、何を言ってるんだろうと思った。いいですよという返事も断る理由も出てこなかったので、「あ、はぁ」みたいな感じになっていたんだろうと思う。

M先輩は「じゃあね」と手を振って教室に戻り、僕もよくわからないまま教室に戻り、放課後、M先輩に言われたとおり誰もいない放送室で待っていた。

        *

一段低くなった放送室の窓の向こうはグラウンドになっていて、部活の準備をする運動部の子たちのやる気のあるのかないのかわからない声と道具を引きずる音が薄く引き伸ばされて聞こえてくる。

ぼんやり外を眺めていると、ふと、人の気配がした。振り向くとM先輩がいつの間にかいる。あ、そうか。一緒に帰るんだ。僕が立ち上がろうとすると、M先輩は「ごめん。今日やっぱり一人で帰って」と小さく頭を下げた。

え?

こういう展開も僕にはインストールされていない。べつに告白したわけでもないのにふられたみたいな感じは何なのだろうとポカンとしていると、M先輩が僕に何かを差し出した。

100円玉……。

「ごめんね」
M先輩はそう言って僕に100円玉を渡し、放送室を出て行った。僕はしばらく100円玉を見つめ、何かを読み取ろうとしたけれど100円玉は無機質に顔色一つ変えないままだった。

一緒に帰る約束を破ってしまったことのおわびの気持ちだったのか、それとも僕がどこかでM先輩に貸した100円を返してくれたのか(そんな事実はたぶんない)、まったく意味がわからない。

僕はその日、100円玉を握りしめたまま誰とも顔を合わさずに下校した。途中で自動販売機があったので、100円を入れ何でもいいやと思いながら適当なボタンを押して缶入りのジュースを買った。

べつに飲みたくもなかったジュースを飲みながら、なんとなくもうM先輩とは一緒に帰ることはないんだろうなという気がした。