写真_2013-12-08_14_18_52

生きる旅、道連れの音楽

自分がこの世界からいなくなるとき。どんな音楽を聴きながら旅立ちたいだろう。そんなことをふと考えるときがある。

あ、べつにそういう願望とか前提があるわけじゃなく。ほんとに純粋に考えるのだ。そういうのってあまり推奨されることじゃないかもしれないけど。

僕の場合、くるりかもしれない。ここのところ、くるりの音楽がすごく自分に入ってくる。いや、昔からずっと聴き続けてる数少ないアーティストなんだけど。

聴くは聴くけどSpotifyで流し聴きだったのが、なんか「ちゃんと正座して聴きたい」感じ。そういうのって、ないですか?

『ワンダーフォーゲル』と一緒にシャワー浴びて『BIRTHDAY』聴きながら濃いコーヒー飲んで、『ハイウェイ』聴きながら近所の猫にちょっかい出してコンビニまで歩いて、『青い空』聴きながら原稿修正しまくり、『尼崎の魚』と一緒に日付が変わる時間にパスタでも食べて『惑星づくり』と一緒に粉々に夜に溶けたい。

まあつまり、一日中くるりと一緒にいられるのだ。実際はそんな生活してない。イメージ。

こういうところで自分の推しを熱く語るものほどうざいものもないのもわかってる。でも、全然熱くはないので安心してください。25℃ぐらいの感じでずっといるので。

なんだろう。くるりに限らずだけど自分が好きなものって、言葉で説明しようとすると結構面倒くさくなってしまうものが多い。

         ***

音楽ファンの間では定説だけど、くるりの音楽性を語るというか定義するのは難しい。旅の楽団とかいろいろ形容できるけど逆に言えば定まらないのがくるり。その土地、その空気に触れたときに湧き出てくるくるりの音楽。

一応、ジャンル的にはロックに入れられてるけど、それは便宜的なものでくるりはくるりでしかない。

音楽にしても言葉にしても、とりあえず空っぽな笑顔で全力肯定してこられるのはキツイし、すべてを否定してそこにポジションを取るようなのもしんどい。

本来、いろんなものを解き放つはずの音楽や言葉が、逆に自分を規定して狭めてしまうのもおかしな話だ。

くるりの音楽世界に関しては、そういうのと無縁にいられる。ふしぎなぐらい、聴いていてキツさやしんどさを感じないのだ。自分がどこにいても、どんな状態のときでも。

旅だからだろうか。くるりの音楽を支えているものが。

旅といっても物理的なことだけじゃない。ある土地にとどまっていても、そこで時空を超えて旅をしてるときだってあるし、移動しながら自分の中に普遍的にある何かと向き合うことだってある。

結局、生きてることは1秒も同じ時間にとどまってるわけではないので、すべては旅だということもできる。

そういえば、くるりのツアータイトルやアルバムタイトルもちょいちょいそんな感じだ。

以前、プライベートライブで行った『ゲミュートリッヒカイトな一夜』も、日本語ではうまく訳せない「人生の居心地」みたいなタイトルだし、アルバム『ソングライン』もオーストラリアの先住民に伝わる、未来が過去に向かって伸びていくみたいなふしぎな時空につながってる。

どこにだって行けるし、どこにも行けないこともある。何かの始まりもあれば、終わりもある。いい悪いじゃなく、生きるってそういうことだし、どんなときも付き合ってくれる音楽があるっていいなと思う。それだけの話。