電話ボックスを売る
京浜東北線の駅から程近いルノアール特有の大きな窓側のテーブルで、僕は次の仕事のことをぼんやり考えていた。
突然、大きな音が鳴り響く。びくっとして周りをみると、店内の端にある電話ボックスからピジリリリリと半分壊れかけた目覚まし時計のアラームみたいなコール音が盛大に漏れていた。
電話ボックスなんてあったっけ? ここにはたまに来るけれど、いままで存在に気づいたこともなかった。まあでもルノアールだから、なくはない。
それはいいとして、誰も電話ボックスから漏れ響くコール音を止めにいく気配がない。店のスタッフも客も何事もないかのように、オーダーを聞いたり、商談したりスマホ画面を眺めている。
仕方なく僕が電話ボックスに入って、受話器を取る。
「3日前に、メルカリに出されたんです」
受話器の奥から少しかすれた男の声が聴こえてくる。周りの客の何人かが、気の毒にという顔で電話ボックスの中の僕を、ちらっと見る。
「メルカリって、電話ボックスが出品されたってこと?」
とりたてて怪しい感じでもなかったので、僕は話し相手になることにしてみた。職業柄、ある種の会話をして声を聞けば怪しいかどうかはなんとなくわかる。
「みたいです。場合によってはわりとすぐ売れることもあるらしくて。でも、それはいいんです」
他の客たちは自分が関わり合いにならなそうなことに安心したのか、相変わらずそれぞれのテーブルで、談笑したり、書類を広げて深刻そうに話し込んだりしていた。
「でも、なんでメルカリなの?」
「私を飾りたいって人が、いるんでしょうね、きっと。コレクターみたいな人が」
電話ボックスは、独り言のようにつぶやいた。よく見ると、電話ボックスはまあまあの年代もので何かを貼っては剥がしを繰り返した痕が、彼の表情を遮るように残っている。
たしかに、昔と比べたら街の電話ボックスも減ったかもしれない。だけど、必要とする人がまったくいないわけじゃない。僕は、そのことを伝えてみた。
「だから、ほら、こういうことなんですよ」電話ボックスは、辺りを見渡しながら言う。「誰も私のことなんて気にもしてないから」
「それだけ、溶け込んだ存在ってことじゃないの」そう僕が言ったときに、ポケットの中の僕の携帯が震えた音を出した。なんとなく間が悪い感じがして、出るのをためらううちに電話が切れた。
「私らは、そんなふうに持ち運べないし、存在を消すこともできない。でも、その、なんていうかそういう同時性が私ら電話ボックスを支えていたんです。それが、存在意義でもあったし」
電話ボックスは、それだけ言うと黙って宙を見つめていた。
ポケットの中の携帯が、また震えた。彼女からだった。出なければ、出るまでかけ続けるだろう。
「ねえ、なにしてんのよ。新しい仕事でも始めたの? なわけないよね。ていうか、さっきメルカリ見てたら、電話ボックスが出品されてたんだけど。すごくない? 意味わかんないよね」
僕は、電話の向こうの彼女と駅前を流れていく人たちを、頭の中でぼんやり重ね合わせながら、やっぱり、まだしばらく新しい仕事なんてしたくないなと思う。