書くことで迷子になったひとへ
なぜ文章を書くのだろう、とたまに思う。
ずっと文章を書いている。純粋な仕事でも、その枠を超えて生き方としての仕事でも。
一応、プロとして名刺を持って文章を書くようになってまあまあ長い。いや、べつにいまの時代だから物理的な名刺はあってもなくてもいいし、それより「自分の見せ方とか見え方」のほうが大事って話もあるのだけど。
で、ライターの場合、書き続けてポジション的に「偉く」なることはごく一部の書き手を除いてほぼない。
そういう点では職人っぽくもある。この道何年みたいなくくりはできるけど、だからってそれで仕事がうまく進むわけでもない。常に、そのときつくり出すものがすべて。職人っぽいというのはそういう意味もある。
ただ、そのときつくり出すものがすべてだからこそ、ときどき自分が本当は何をつくり出したいのか、つくるものがこれでいいのだろうかと思うことがある。書くことで迷子になるのだ。
僕が書いても書かなくても、世界は45回転で回るし夢は夜開くし朝に閉じる。
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で、思うのだけど書くことで、文章で迷子になってるときはだいたい「自分の文章」を書けてないときが多い。
いや、だからその自分の文章がわからないから迷子になってんじゃんという声が聞こえるのだけど、それもわかる。
じゃ、どうすればいいか。これも答えはひとつじゃないと思う。
あくまで僕はこう思う、僕の場合はこうやってるという参考にしかならない前提だけど、やっぱり文章が迷子になったときは「何を書きたいのか」の前に「どう生きたいのか」を自分に聞いてみることじゃないかと思うんだ。
極端に言えば、べつに文章を書かなくたって生きてくことはできる。それでも文章が自分にとって必要なものだとしたら、文章を書くことだけがポツンとどこかに浮かんでるわけではないってことになる。
自分の生き方があって、はじめて自分の文章が存在する。
言ってること伝わってるといいんだけどな。
書くことで迷子になっていても、自分が生きていくため、自分の人生をちゃんと生きるために、自分には文章が必要なんだと自分Aから自分Bに強くリクエストがある。それなら、今度は自分Bから自分Aに聞き返す。
わかった。自分には文章を書くことが必要なんだ。じゃあ自分Aは「どう生きたい」のか、どう生きるのが「自分の人生を生きる」なのか自分Bに教えてほしいんだけど。
それで、自分はこう生きたい、自分にとって自分の人生を生きるのはこれがないと駄目なんだって話が出てきたら、それを書けばいい。それこそが「自分の文章」だと思うから。
抽象的でわかりづらいって思うかもしれないのだけど、あえてそういう書き方をしてる。なぜなら、僕は自分以外の誰かに具体的になれないからだ。
抽象の世界の「問い」は、具体的な「こうすればすぐできますよ」に比べて、自分の自問自答を一度通さないといけないからめんどくさいのだけど、そこを通ってきたものは本当に自分のものになる。
だから、もしいま文章で自分が書くことで迷子になってる人がいたら、この「問い」の前に立ってみてほしい。
「どう生きたい」のか、どう生きるのが「自分の人生を生きる」なのか。その答えの先に書くべきことが絶対にあるのだから。