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春の墓地

 春を間近に感じる青空の穏やかな3月の日曜日、ローマ市内のカタコンベを見に行った。カタコンベは、主にローマ時代に使われていた地下墓地のこと。掘りやすく、かつ崩れにくいという凝灰岩の地下層を利用し、蟻の巣のごとく張り巡らされた細長い通路の両側の壁にはびっしりと、遺体がギリギリ入る直方体の穴が並ぶ。その通路の距離は、延べ数キロメートルにわたるところも少なくない。さらに、地下数メートルから数十メートルと、数層に分けて同じように通路が作られている場合も多い。
 廊下の壁ぞいに掘られた穴のように、飾りもそっけもない墓もあれば、裕福な家族など、一族郎党が一緒に葬られるような、ちょっとしたスペースもあったりする。「クビクルム(cubiclum)」と呼ばれるそうした部屋は、壁に漆喰が塗られ、故人の名前や職業が示されていたり、「あの世」で楽しく暮らせるよう願いをこめて、絵や模様で装飾される。
 カタコンベは、かつてのキリスト教徒の墓地と定義する例も見かけるが、それは正しくない。少なくともローマではもともと、キリスト教徒に限らず、さまざまな宗教を信ずるものたちが埋葬されていた。ただし、ローマ帝国の中で、まだキリスト教が認められず迫害されていた時代に、死後の復活を信じる彼らにとって、土葬ができ、かつ目の届きにくい地下の墓地は、信仰を守るのに好都合だったのだろう。実際、ローマ市内各地のカタコンベにはたくさん、死者らがキリスト教の信者であったことを示す印が残っている。それは、キリスト教美術の原点という意味でたいへん貴重な考古学資料になっている。
 カタコンベはローマ市内でわかっているだけでも何カ所もあるのだが、特に、いくつか装飾の残っているところがあったりして一般観光客にも開放している有名どころは、旧アッピア街道沿いに集中している。

 この日訪れた「サンタニェーゼのカタコンベ(Catacombe di Sant’Agnese)」は、ローマの北東部にある。この墓地に聖女アニェーゼ(英語でアグネス)が埋葬されていたことから、そう呼ばれている。まだキリスト教が異端だった頃、アニェーゼは信仰を守り通したため火あぶりの刑に遭うが衣服のみが燃えて奇跡的に助かる。その時、乙女の体を隠すため、髪がその場でグングン伸びるという奇跡が起きたという。結局、喉を刺され殉教したのは、わずか12歳の時だった。
 「派手な」装飾のあるお墓はあまりないのだが、案内されて見学する最後のところに、アニェーゼのお墓がある。亡くなった4世紀当初のものではなく、1615年に教皇シスト5世が整えたもので、ここで殉教した姉妹とされる女性とともに葬られている。

 その場所に、彼女に捧げられた教会が建っている。サンタニェーゼ・フオーリ・レ・ムーラ教会(Chiesa di Sant’Agnese fuori le mura)の現在の建物は、7世紀に建立されたあと改装を重ねているが、後陣のアブシスには、当時のモザイクが残っている。中央にはビザンチン風の貴婦人として描かれた聖女アニェーゼ。それ以外は天井も壁もずっと後の時代のものだし、モザイクの部分もずいぶんと修復の跡も見られるけれど、ローマのモザイク美術と言ったら見逃せない、一度見たら心に残る、シンプルながら貴重で美しいモザイクだ。

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 同じ敷地内に、もう一つ興味深い建物がある。サンタ・コスタンツァ廟(Mausoleo di Santa Costanza)と呼ばれるそちらは、紀元後4世紀に、皇帝の娘コスタンツァが自らの霊廟として作らせたもので、真ん中に大きなクーポラを擁し、その周囲はぐるりと柱廊で囲まれている。柱廊部分の天井には、当時のモザイクが残されている。幾何学模様のほか、鳥や植物、ぶどうの蔓やワイン作りに勤しむプッティたちなど、同じ時代、ローマの邸宅や公共建築の床モザイクではお馴染みのモチーフだが、なぜここでは、天井を埋めることを思いついたのだろう?似たような例は現存していない。テッセラと呼ばれる数ミリ〜数センチ角にカットした石やガラスで絵や模様を描いていくモザイクが天井装飾に進出した初期の例とされている。
 中央の丸天井も、一千年以上あとのフレスコ画で埋められているがの当初はモザイクで埋められていたらしい。キリスト教教会が大きなクーポラを備え、フレスコやモザイクで装飾されるようになるより前のことで、果たしてどんな模様が、絵が描かれていたのか、想像するだけでワクワクする。

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 最初に見た、地下の狭いところにぎっしりと並べられたお墓と、そこに葬られ、一千年上を経た後にもう一度整えられた墓標と、皇帝の娘の、クーポラを抱え込んだ大きな大きな霊廟と。ほぼ同じ時代に作られた、死者を弔う空間のあまりの違いに頭がくらくらする。

 いいお天気続きだったローマも、数日前から雨がちになった。この週末は桜でも探しに行こうと思ったけれど、残念ながらしばらくはそんな日が続くらしい。

#ローマ #エッセイ #カタコンベ #モザイク   #モザイクの旅 #イタリア


04.02.2022


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