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聞こえる音、聞こえない音。「ドライブ・マイ・カー」、濱口竜介監督

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 イタリアで日本の映画はしばしば「静」の美と捉えられる。
 日本の映画が実際に全てそうというわけではないけれど、特に映画祭に出品されるような映画は確かに、特に、音の少ない、(そしてしばしば全体のテンポがゆったりした)作品が多いように思う。そしてそれは、それを「美」と認識できる人にとっては圧倒的な「美」であり、不慣れな人にとっては不安と戸惑いを招く。
 …Baby, you can drive my car♪ 
 村上春樹原作で「Drive My Car」というと、ビートルズのあの名曲が自然と頭に浮かんでくる。だが、ハンドルを握ったまま運転席にいるドライバーと、その赤いサーブに寄りかかって立つ男性と、視線の合わないまま構図のポスターからは、あのビートルズが聞こえるどころか、ただ静寂しか感じられない。(イタリア版のポスターはちょっと違うけど)
 美しい妻の裏切りと突然の喪失。無口な、だが腕のいい運転手との必要に迫られたドライブ。数少ない会話に、無音の時間が続く。妻の名は「音(おと)」。
 ・・・ここまでは、ポスターのイメージそのままだ。
 ところがこの映画にはもう1つ、話の核となる物語があった。西島秀俊氏演じる舞台俳優兼演出家が演出する舞台は、多言語演劇というもので「ワーニャおじさん」を、まさに異なる言語同士のまま会話し、組み立ていく。チェーホフの名作と言われるこの戯曲を、お恥ずかしながら見たことも読んだこともないが、日本語、韓国語、タガログ語、北京語、そして韓国語手話というお互いに通じないはずの言語で、台本を読み、稽古をつけ、そして舞台へと作り上げていく場面は、劇中劇ながらその難しさと、だからゆえの高揚感にドキドキする。
 ビジュアルと静寂が支配する「ドライブ」の場面と、(わからない)言葉が交錯するーそしてわからない言葉(音)は時に静寂よりもさらに不安を覚えると気づかされるー舞台制作の場面と。耳と目とアタマがぐいぐいとスクリーンに引き込まれていくのだった。

 劇中劇の場面でふと、他の映画を思い出した。
 「CUT」、イラン出身のナデリ監督の中で、西島秀俊さんは「殴られ屋」を務める青年を演じていた。1回殴られる度に「名作」が走馬灯のごとく浮かび上がる。監督の映画への愛がダダ漏れと言った感じの作品なのだが、劇中劇の場面で、取り憑かれたように役に入っていく俳優役の西島さんが、あの時の青年にダブって見えたのだった。2011年、この作品はヴェネツィア映画祭のコンペ作品として上映された。

 今年のカンヌ映画祭で脚本賞を受賞、さらに上の賞が期待されたのもわかる。国際批評家連盟賞、そしてカトリックのメディア協会による独自のエキュメニカル審査員賞も受賞した。

 やむを得ず、イタリア語吹き替えで見たので、日本語オリジナルでもう一度見てみたい。

https://www.youtube.com/watch?v=XnGmHmyi_NI

ドライブ・マイ・カー Drive My Car
監督 濱口竜介、2021年
出演 西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生ほか
脚本 濱口竜介、大江崇允

#映画 #カンヌ映画祭 #エッセイ #ドライブマイカー #濱口竜介

 
Fumie M. 10.09.2021

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