ローマのヴェネツィア宮殿
ローマの中心部にヴェネツィア広場という広場がある。広場と言っても、多くの人が集まる場所というよりはバスや車がひっきりなしに通るロータリーといった状態になっているが、古代彫刻風の円柱が並ぶ白亜の巨大な建物で、てっぺんに馬の銅像がある、あの前といえば、ああ、あそこか、と思われるかもしれない。
イタリアの通りや広場には、人の名前や、他の土地の名前がついていている。それが地下鉄の駅の名前にもなっていたりしてちょっとややこしいのだが、ローマでいえば、おそらく最も知られているのはスペイン広場(Piazza di Spagna)だろう。最寄りの地下鉄の駅名も、スパーニャ(Spagna、イタリア語でスペインのこと)。1647年にこの広場に、スペイン大使館が建てられたことから、スペイン広場と呼ばれるようになった。当時の在ローマ教皇庁スペイン大使館は、現在もそのまま、在バチカン・スペイン大使館として存続している。
ヴェネツィア広場もまた、同じ理由からそう呼ばれている。
「ヴィットリアーノ」と呼ばれるあの巨大な建造物を正面に見て右手に、それに比べるとかなり地味な建物は、ヴェネツィア宮殿(Palazzo Venezia)と呼ばれ、現在は美術館になっているが、かつては在ローマ教皇庁ヴェネツィア大使館だった。
元々は、1455年から、ヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・バルボが自らの住居として建て始めた。ローマではよくあることだが、当時は土に埋もれ廃墟となっていたコロッセオやマルチェッロ劇場のトラバーチン石材がせっせと使われたらしい。そもそもこの場所に枢機卿が居を構えたのは、ヴェネツィア共和国の守護聖人である聖マルコを祀った、隣接するサン・マルコ大聖堂の名義責任者に任命されたため。さらに、バチカンへと向かうメインストリートに面しているのも、好都合だった。
1464年、バルボ枢機卿は教皇に選出されパオロ2世として聖座につく。そのままここに住み続けるにあたり、教皇の住居として相応しいものとするために、改築を加えた。なお、教皇が現在のバチカン内に暮らすようになったのは近年になってからのことで、当時はこのようにローマ市内にそれぞれこうして宮殿を構えていた。
およそ1世紀後の1564年、建物は当時の教皇ピオ4世から、ヴェネツィア共和国へ下賜、そのままヴェネツィア大使館として使用されるようになった。ヴェネツィア宮殿、そしてヴェネツィア広場の名称はそこに由来する。
1797年に、ヴェネツィア共和国がナポレオンに敗れ消滅するとオーストリア大使館に、さらに1867年からはオーストリア・ハンガリー帝国大使館として使用されたのち、1916年にイタリア王国の所有となる。
持ち主は次々と交代したものの、外観に大きな変化があったのは、例の、白亜の建物が作られたときのこと。あれを、ばーん!と正面から効果的に見せるにあたり、1910年から13年の間に、それまでは建物から広場側に突き出していた柱廊つきロの字型の部分が数百メートル移設された。柱の1本1本を丁寧に解体し、そのまま組み立てたものの、スペースが若干狭かったため、柱何本分ががはしょられたらしい。
そして、1922年にムッソリーニ首相がファシズム政府を樹立すると、首相執務室として使用される。1940年10月6日、ムッソリーニは広場に向かったバルコニーから参戦を宣言した。歴史を重ねてきた建物は突如、歴史の舞台に華々しく登場し、やがてイタリアに苦い記憶として残されることになった。
建物の内部は、ルネサンス時代風の洋式や装飾が施されている部分もあるが、よく見るといずれももっと新しい。何度も改装が重ねられ、特に20世紀前半に大きく手を入れられた際のものがほとんど。
おもしろいのは「世界地図の間」と名付けられた大広間。ムッソリーニが国民の前に姿を表した、あのテラスのある部屋だが、床がローマ時代風のモザイクで飾られている。ルネサンス時代以降のこうした邸宅にも、ローマ時代の遺跡から発掘されたモザイクを切り取って、装飾として再利用している例もしばしば見られるが、こちらのは20世紀に、それ風に作ったものだという。中央には堂々と、ファシズムのシンボル「束(ファッショ)」もモザイクになっている。
これまで、企画展でしか行ったことがなく、壁や床を観察できる機会がなかったのだが、年末に室内ガイドツアーがあって参加した。意外なところに意外な発見があるのがまたおもしろい。
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23 gen 2022
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