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存在の耐えられない軽さ―「アズミハルコは行方不明」

□2020年6月26日加筆修正

「存在の耐えられない軽さ」
という言葉と初めて出会った時、私はまだとても若かった。映画を題材としたコラムで、それをたまたま見かけた。
コラム当時よりもさらに時間を遡りその数年前に公開されたらしい映画のタイトルが「存在の耐えられない軽さ」だったのだ。
チェコスロバキアの作家ミラン・クンデラの書いた小説を原作とするアメリカ映画である。

「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとっては軽い。私はその軽さに耐えられない。」
女性主人公が書いた手紙の一文と共に
「存在の耐えられない軽さ」
という言葉そのものが当時の私に突き刺さった。
映画も見ていない、原作小説も読んでいない、内容もまるでわかっていない状態だったというのに。

明日の命。今日の食事。そういうものに憂うことなき恵まれた立場で暮らしているにもかかわらず、当時の私は、何とも形容しがたい薄ぼんやりとした未来への不安を抱えていた。
これから死ぬまでの長い時間を思って、途方にくれ、そしてぞっとしていた。

「存在の耐えられない軽さ」のことを思い出したのは、「アズミハルコは行方不明」という映画を今年になって観たからだった。
あらすじを読んでみたところで「存在の耐えられない軽さ」とは一見繋がりようのない映画である。

映画の評価はあまり高くないらしい。
アズミハルコを演じる蒼井優も、キャバ嬢上がりの愛菜を演じる高畑充希も、愛菜の相手であるユキオ演じる仲野太賀も、葉山奨之も石崎ひゅーいも、出演している俳優は全て素晴らしい演技をみせてくれているのに、その低評価に異論も反論も、確かに私の中からは出てこない。
時系列の編集ボタンを押し間違ってしまったかのように、わかりにくい映画だった。
それでも観終わった私は、長い時間をかけて、この映画のことを考えていた。

レビューを読んでみた。
原作小説の紹介ページも読んでみた。
「地方で暮らす若者の閉塞感」
「日本で暮らす女性の生きづらさ」
たしかにそうなのだろう。
そのように作り手は描いたのだろう。
それでも私は、これは、
「存在の耐えられない軽さ」
なのだと思った。

アズミハルコはある日忽然と姿を消す。
自分を消滅させてしまいたいほどの羞恥。
その羞恥心の原因とは何か。

それは、

自分の存在が耐えられないからだ。
耐えられないほど軽いからだ。

そう私は思った。

アズミハルコも愛菜も、自分が特別になれることの証明に異性との恋愛を用いようとして見事に失敗した。
肉体関係を結んだ相手も家族も同僚も冒険仲間も、彼女たちをことごとく軽く扱った。
いなくなったとしても誰かの重い傷となることもなく、かすり傷にすらならずに、次第に忘れられていくだろう。
何より彼女たち自身が、それを一番よくわかってしまっていた。

愛菜と関係するユキオと三橋も実は同じだ。
バンクシーのごとく覆面グラフィティアートで世間を騒がせ特別な存在になれたかのようにも思えたが、それも最大瞬間風速的なもので、すぐに失速した。
ハルコを切り捨てて既婚者と不倫している曽我も、いつかは自分が不倫相手の特別ではないと知るだろう。
登場人物の誰もが、現状の自分に不満で、特別になりたがっていた。
そしてなれなかった。

展覧会場に人が集まらなかった後で、ユキオと三橋が並んで会話をするシーン。それは、自分の現状がいつか様変わりするという願望と、二人が決別した姿に見えた。そうして彼らはどこかスッキリとした面持ちをしていた。
ひとつの時間からの卒業を感じさせた。

一方、アズミハルコと愛菜は、軽んじられるままに先細りの長い人生を生きるのなら、そこから脱け出し、ひとつの時にとどまり続け、その繰り返しの中で重さを得ようとしたのかもしれない。
二人はずっとこれからも若いままだ。
劇中に出てくる女子高生ギャング団がずっとそのまま女子高生であるように。
永遠が得られるという状況であるなら、彼女たちが女子高生でいることを望むのは、女性が若いほど周りから求められる存在であることを示しているようでもあり、ちょっと胸が痛む。彼女たちの考える無敵であることとは、永遠に女子校生でいることなのだ。まるで究極の永劫回帰のように。

「存在の耐えられない軽さ」は、ある種哲学的な小説である。
英題は「The unbearable Lightness of Being」という。
コラムでの一文に出会った後、私はそれを読んでみた。
人生の重荷とそれに対比される軽さを、ニーチェの永劫回帰という思想と絡めて、恋愛小説に昇華させた傑作だ。
時代背景は、社会主義国チェコスロバキアの民主化の動きが弾圧されて終わってしまった、いわゆる「プラハの春」の頃のこと。
政治のうねりに呑みこまれながら、「今を生きるとは」「一度きりの人生の軽重とは何であるのか」ある男と女を通して、哲学的に問いかける小説である。

若かった私にあの言葉が刺さったのはどうしてだったのだろう。
原作が問いかける哲学的なことも知らず、ただ、「存在」と「軽さ」に敏感に反応した。
あの時私は、耐えられないのは膠着したように感じた当時の状況ではなく、自分の存在の軽さだと言い当てられたような気がした。
そして言い当てられてしまえば、妙にスッキリとしたのを思い出す。
少しの苦さを伴って、当時の気持ちが甦る。

他人に自分の評価を預け、それで自分の存在の軽重を量った。他人からスポイルされない若さのあるうちに、価値あるパスポートを得られなければ、その後は不幸せな存在として生きていかなければならないと思い込んでいた。
その思い込み以外の未来を描けなかった。

周りへの依存が高いほどそれは重たく、自分の存在は軽くなっていく。
「存在の耐えられない軽さ」
という言葉と出会った時が、そのことを悟った瞬間だったのかもしれない。

そして時がたち私は今、あの頃の未来を生きている。
それから様々なことがあった。
幸せだと思う朝も、深く沈む夜もあった。
新しい人と出会い、親しい人を見送った。
人生は思ったよりも短いと得心する年齢になった。
それは想い描いていたよりもあっという間にたどり着いた。

重かろうが軽かろうが、人生は、平等に、あっという間に過ぎ去る。
握りしめていたはずのものが指の隙間からこぼれ落ちていくのを誰ひとり止められず、だだ、ひたすらに、流れていく。

かつてのように人生の長さに絶望することは、幸か不幸か、もうないだろう。

アズミハルコと愛菜は、未来永劫若いままで、ずっと繰り返しの時の中に今もいるのだろうか。
アズミハルコと愛菜はある願望の体現者なのだろうか。
自らが選んだ時空の中で、自分の評価を他人に預けることなく、生きているであろうか。


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