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「侍女の物語」 マーガレット・アトウッド

斎藤英治 訳  ハヤカワepi文庫  早川書房


知覚の代替と先鋭化


出だししか読めてなかった「侍女の物語」だが、やっと本格的スタート。

徹底的管理社会の為「子孫を残すための道具」化となってしまっている女たち。という近未来小説。主人公(なの)は侍女という、まさに「道具化」された人物。周りを不必要に観察できないように制服に顔の回りに白い翼をつけた格好をしている。そのように視覚を制限されているので、この作品ではその制限された範囲内での視覚とそれからその他の知覚が重要な役割を演じている。揺れるカーテン、聞き耳、接触を禁止されているが上の想像する触覚…
こういう感覚の鋭さは、トカルチュク「昼の家、夜の家」にも通じるものがある。

宗教が管理社会に通じるというのはアメリカらしい観点だ。日本ではそれほどには感じない。実態は違っても、アメリカの自称は「清教徒が作った国」だから…
アトウッドはカナダの作家だが、アメリカに留学?していたことがあり、この作品の舞台はその住んでいた町らしい。
(2011 03/09)

侍女の「物語」

 人は物語を自分に向かってだけ語ることはない。いつでも他に誰かがいるものだ。
(p80)


前にどこかで、人間の言葉の能力というものは、常に「相手」がいることが前提となっている、ということを聞いたことがある。独白でも文章でも、聞き手がいるからその人は話したり書いたりすることができる。
この文章のあとアトウッドは「名前のないあなたに」この物語を語ろうと続けている。実際の誰かに向けて語るのでは危険だから、と。この文章の辺りは、物語上の「侍女」というよりもアトウッド本人が語っているようにも思えてくる。
推測だが、この場面の前に出てきたポルノ雑誌を燃やすシーンは実際にアトウッドが目撃したのではないか?そういう現実を見てアトウッドは何かを「複数のあなた、匿名のあなた」そう、世界に語らずにはいられなかった、のではないかと。
(2011 03/13)

待つことについての文


主人公が置かれている現在の社会の仕組み、それから主人公が遭遇した過去の回想、そういうものがわかってきてそこから立体的に物語世界が立ち上がってくる。

 当時の画家はハーレムに取り憑かれていた。・・・(中略)・・・それらの絵はエロチックだと考えられていて、わたしも当時はそう思っていた。だが、今のわたしにはそれらが本当は何の絵なのかがわかる。それらは仮死状態についての絵、待つことについての絵、使われていない人間についての絵なのだ。倦怠を描いた絵なのだ。
(p131−132)


19世紀の絵画についての新論? アングルの「トルコ風呂」とかからマネの「オランピア」辺りの絵を指しているのか?

こういう指摘は初めて。同じ絵でも女性が見ると違うものになるのだ、と認識。ハーレムの女性達は常に支配者である男性を待っている。それはこの小説の設定とも合うのだが、「使われていない人間」ともなると、そういう視点を越えてもっと一般的、現代社会全体にも当てはまりそうだ。
主人公(上記の設定を強調するように「オブフレッド」(フレッドのもの)という名前がつけられている)は、自分で何かをすることに意義を求め始めている。

小説の文体というか語り口(最近この言葉多用し過ぎている気がするのだが)は現在の物語の流れと、過去の回想(子供をさらわれる)と、内省とが入り交じって進む。今日この後読んだベンヤミンの歴史論・・・均質的な時間の流れから切り離された「現在」から「過去」の声を聞く・・・というものの具体例かのように響く。
(2011 03/16)

空を見すぎて…


物語内の現在の隔絶管理社会と、それから過去の(ということはこれを書いたアトウッドの現実を反映した)回想が平行して進行している。回想のところから…

主人公の母親は女性解放運動の闘士という設定で、その娘(つまり主人公)夫妻といろいろ揉めたこともあった。そんな中の母親の言葉に、標題のようなのがある。母親(アトウッド自身と想像してみる?)曰く、男なんて地から浮いているオマケみたいなもの。なぜなら、空を見すぎているから…空というのは未来ということだろうか…昨日のベンヤミンの歴史論も思い出させる…
男全てがそうではないのだろうけど、自分には当たっている気がする…

ところで(この言葉でいいのだろうか…)、物語内現実では、侍女の一人(主人公ではない)の出産シーン。今まで説明してなかったけど、侍女とは要するに代理母ー子供を産むだけで、産んだら依頼人に子供を引き渡すーというもの。それがこの架空管理社会ではカーストとして存在している。
(2011 03/17)

動きが出てきた「侍女の物語」

 人を人間らしいと思い込むのはすごく簡単なものだ。わたしたちはその誘惑にのりやすいものだ。
(p268)


これはナチ幹部の妻の話から。自分は全くすぐ信頼してしまうタチですが、ふむふむ「誘惑」とはね。

というわけで、「侍女の物語」はいろいろ動きの種が出てきた。ストーリー的には、主人公オブフレッドの「主人」である司令官が、主人公に非公式な触れ合いを求めてくる(そこで出てくるのがスクラブルという言葉ゲームなのが可笑しい)とか、主人公の買い物パートナーである同じ侍女のオブグレンから地下組織の話を持ちかけられたり…

そんな中、メモすべきは、司令官の妻の庭の記述(これまたベンヤミン的)、昔のファッション雑誌から連想される鏡に無限に映る像の記述、「救済の儀」(っていうけど要は公開処刑)に関しての可能性の記述(そこにさらされていないだけで不安に感じる)などなど。
こういう世界が現実化しないことを祈る…というか、現実化していたところもあったとは思うが。
(2011 03/19)

言葉の逆流と夜の闇

 もう長いあいだ誰ともちゃんとした会話をしていないので、言葉がわたしのなかで逆流するのが感じられる。(p339)


これはこういう特殊状況でなくても、日常生活で感じられるところ。普通には「言葉を飲み込む」とか表現しそうだけど、「逆流」だと流れていったサキが気になる。

それから、夜の闇について。第11章「夜」(ちなみに、この小説の奇数章は全て「夜」という名前がつけられていて、比較的短く、主人公が夜に回想したり考えたりする内容になっている)の始めに…

 どうして夜の闇は、日の出のように昇ると言わないで舞い降りるというのだろう? 日没のときに東を見れば、夜の闇が舞い降りるのではなく、昇るのが見えるというのに。
(p349)


と書いている。今度見てみるか…それはともかく、人々が「闇」と名付ける様々なものは、実は人間生活に端を発して訪れる…とこの文章から自分は考えた。

その他…
その1、この架空管理社会はクーデターによって成立したのだけど、それを容易にしたのがお金のカード化らしい。今の世の中でも進行中の…
その2、これはこの小説では避けられないテーマだと思うが、クーデターが起こって女性の資産が全て近親男性に移行するということになった時、主人公の夫は早くも女性保護者的発言が出てしまったという場面。これ読んでいる時には、全く男ってのは…と笑ってしまうが、実際にこんな考え→こんな社会になるのは容易に起こりうる…ということなのだろう。だからアトウッドが物語を書き続ける理由もあるわけで…
(2011 03/21)

ジョブとタバコ


さて、「侍女の物語」も残り1/3くらい。ここらへんまで来ると一気読みの衝動にかられるが、こういうところこそ落ち着いて読み進めることにする。何か穴ボコ見落とすかもしれないから…

で、標題だが、まずジョブの方。この架空管理社会ではもちろん女性は仕事を取り上げられてしまったのだが、そこから「ジョブ」という言葉の連想が続く。それによれば、仕事という意味の他にしつけの悪いネコかなにかがトイレじゃないところにしちゃった「粗相」という場面でも使われるみたい。一方では聖書のヨブ記。ヨブはJOB。

さて、タバコの方。主人公オブフレッドは司令官の妻セリーナ・ジョイからある取引の報酬?にタバコを1本(もちろんこれも取り上げられている)もらう。自分の部屋に向かいながら主人公はタバコを吸う感触を想像しする。感覚の鋭い表現の一つ。結局、主人公はタバコを吸わずにマッチをとっておいたのか…書いてない…伏線に違いない。って、前にもそんなふうに考えて全然違ったこともあったっけ。
ちなみに「ある取引」が何なのかは小説を読んでのお楽しみ。
(2011 03/23)

女性地下鉄道


いよいよ読了間近か?今400ページ台。今日のところは、やっぱりこういうところにはある「特別なクラブ」。司令官などの権力者が主人公オブフレッドを連れてきたのは、そういうクラブ。そこでかっての悪友モイラに再会し、その脱出失敗記を聞く。そこで出てくるのが標題にある「女性地下鉄道」。これはかって黒人奴隷の逃亡を助けた組織の存在をふまえているという。結局モイラは国境で捕まってしまうのだが、それは現在のメーン州辺りに設定されているらしい。この間買ったアトウッドのガイド本によると…
(2011 03/25)

「侍女の物語」ディストピア小説でない小説との比較論

 待つのもこれが最後なのかもしれない。でも、わたしは自分が何を待っているかわからない。
(p527)


「侍女の物語」読み終わり。最後の章の「夜」(200年後の「注釈」除く)の冒頭部分から。
架空管理社会・ディストピア物語という外観に惑わされるけれど、ひょっとしたら、この作品「女性主人公のタタール人の砂漠」ではないか?という気もする。それはラストシーンがそう感じさせるのか? 

「タタール人の砂漠」の主人公や、「現代イタリア幻想短篇集」のサヴィニオの短編「「人生」という名の家」の主人公みたいに、男性主人公は家を出て何か何処か駆け抜けていく。一方、女性主人公は「待つ」?? この小説内のモイラなどは駆け抜けていくけど、より一般的(というべきかどうか)にはこの主人公みたいに「待つ」。そして闇の中か光の中へ。要するに死へ。ということか?

最後は、この物語の語りが入ったカセットテープ(この小説は1980年代に発表された)が発見され学会で発表される、という「注釈」。
ここは「語り手の言葉が届かない皮肉な結末」ということを前もって知っていたけど・・・うーん、なんだか、こういう学会の論調にアトウッド自身は批判を込めている、のはわかるが、これはこれで仕方がないんじゃないか、とも思う。でも語り手の声が伝わらないので読み手としてはもやもやしたものが残る。「過去の声を聞け」というのはベンヤミンだが、それは相当の想像力(創造力も)ないと聞こえてこない・・・
(2011 03/28)

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