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「制作(上)」 エミール・ゾラ

清水正和 訳  岩波文庫  岩波書店

大岡山 タヒラ堂書店で購入。
(2016 05/22)

「制作」解説先読み


このゾラの作品は、同郷のセザンヌ始めとした画家達との交流から生まれた自伝的内容も含む作品。バルザックの「知られざる傑作」も参考にしたらしい。ルーゴン=マッカール叢書の第14巻なのだが、他の巻とは異なり、第二帝政期から後も小説は続いていく…それは何故か。

さて、前半部分はだいたいゾラやセザンヌらの歩みと合わせているのだが、後半部分はセザンヌから外れてくる。最後の画家の主人公の絵を前にした自殺は、実は画家の死体も合わせてモローのサロメの首の絵(下巻の表紙になっている)の構図になっている。また、この主人公の葬式で、友人(すなわちゾラ本人と被さる)と老人との対話があるが、そこで当時(1880年代)の印象派への批判をしている。新しい象徴派的なモローの絵と、印象派批判。それが、第二帝政期越えてまで作品を引き延ばした理由。
出版当初はモネやセザンヌから反発の手紙を受けた。が、後にモネはルーアン大聖堂や睡蓮の連作を、セザンヌはゾラの死後あの山の連作や沐浴の絵を生み出す。それはゾラの批判に対する真摯な応答だったのかもしれない。

あと2つ。ゾラの父親はイタリア人土木技師。母親はフランス人。ゾラはパリで生まれ、すぐ父親の仕事の関係で南仏へ移る。その仕事としてゾラ運河なるものが今もあるという。
ゾラは写真家でもあった。解説にはゾラの撮影したパリの写真が掲載されている。
(2016 06/05)

深夜のパリ、雷雨から始まる

  こんどは、血を浴びたような凄惨な街の光景を目にした。それは、真っ赤に燃えさかる大火のなか、川の両端が視界から完全に消えている巨大な一つの裂け目だった。
  マリー橋のそばのうっそうと繁っているプラタナスの大木の葉を、一枚一枚数えることさえできそうだった。
(p12)


ルゴーン・マッカール?叢書第14巻。夏のパリ、いきなり深夜の雷雨、主人公のクロードの下宿前に突然現れた若い女…という、いきなりな展開。後の文は、クロードが画家であるということに関連させているようだ。

結局、クロードはこの女、クリスティーヌを一晩下宿に泊めてあげるのだが、こんな展開の話、ちょっと前に読まなかったかな。あ、「アメリカの鳥」のラスト付近で浮浪者の女泊めてたっけ。同じパリで。19世紀においては奇妙な友情が芽生えかけたというところだが、20世紀では隔絶感と人間不信が深まっただけ…ドアの取手も盗まれたし。

主人公は画家と言ったけど、この作品はもっと具体的でセザンヌがモデル。若い頃のセザンヌ、そしてプロヴァンスで子供の頃からの友達であるゾラ自身がサンドースとして出てくる。
この作品もルゴーン・マッカール叢書シリーズ?なので、他の作品群と繋がりあって、
画家クロードは「居酒屋」のクーポー夫妻の息子…ってことはナナのお兄さん?…という設定。
(えっとクロードはクーポーじゃなくてランティエの方…後夫の方だっけ?  ということは弟?)
(2018 11/13)

「制作」の狂気と切断感覚

 彼はますます気も狂わんばかりとなり、自らの内にひそむ何か未知の遺伝的なものをつよく感じてはいらだつのだった。その未知なるものは、時には彼をすばらしい創造にかき立てるし、また時には、デッサンの基本さえも忘れるほどの無能な痴呆状態に追いこむのだった。身も心も胸苦しい眩暈のなかで、ぐるぐる回転している感覚だった。それでも創造の狂気だけが残っているのだ。そのとき、もはや仕事にたいする傲慢な誇りも、栄光への夢も、彼の存在すべてが消え去り、なにもかも彼とは無縁に流れ去って行くのだった。
(p90〜91)


最初の「未知の遺伝的なもの」辺りは、ルゴーン・マッカール叢書全体設定構想から来ているのだろう。「居酒屋」夫婦の息子だから、クロードは。
「狂気」というのを見て、なんかここをフーコーが批判的に読んだらどうなるのかな、とも(これは今)思った。中世には境もなく隣り合っていた(とされる)こうした狂気が、ある種の切り離しにより(「遺伝」「病気」など)差別化されていく時代的眼差しでも読み取るのかな。

でも(?)、最後の「なにもかも彼とは無縁に流れ去って行く」経験は、芸術家でもなく、狂気をあまり持ち備えていない(?)自分にもたまにある。忘我でもなく、むしろその忘我状態が抜け去ったあとの、自己存在と周囲との切断、周りだけが流れていくのが感じ取れる感覚...
(2018 11/17)

「制作」におけるパリ描写文、ほか


第3章

  すでに夕暮れだった。路行く人の波がゆるやかに流れていた。闇の訪れるのをただ待っている疲れた町、その姿は、だれでもいい、最初に現れるたくましい男に身を委せようとしている疲れ切った女の姿さながらだ。
(p140)


第4章

  ところが、彼女自身にもどういうわけなのか分からないのだが、静かな日々を過ごしているうちに、ふたたび男の面影が彼女の心によみがえり、しだいに鮮明になり、より強力になり、ついには、たえずつきまとうようにまでなったのである。
(p162)


第5章

  だが、四列に続く緑濃いマロニエの並木のかなた、夕陽に赫々と照り映えている大通りを見渡すことができた。星のような火花を散らす馬車の車輪、祭の花車よりも金色燦然と輝いている大型の乗合馬車、御者の操り疾走する馬の金具のきらめき、光を浴びてさまざまに変容する歩行者の群れの動き、まさしく栄光に輝くパリの生動する姿そのものだった。
(p248)


小説冒頭での真夜中の雷雨の姿から、この小説はパリそのものが表情を変えて描写される。もちろんこの描写は、それを見ている側のクロードの精神を反映したものになっているのだが。p248のは、自動車が登場する直前の馬車社会の極まった姿としても貴重なものだろう。
p162のは、クリスティーヌが再びクロードの前に現れたいきさつのところ。恋愛に限らずこういう本人の知らないうちに繰り返し現れ成長するイメージというのが、誰にでも存在する。

ここまで、クロードの大作「外光」(プレネール)の制作とサロン出展、そして「落選展」での展示という大まかな展開。この「外光」は、セザンヌではなくて、マネの「草上の昼食」がモデルとなっている。これマネの作品の方も大スキャンダルになったのだが、これも「落選展」とかいう場でしたっけ。
(2018  11/23)

作中での構想漏洩


「制作」第6章読み終わり。あと上巻はあと第7章のみ。 
クロードとクリスティーヌがノルマンディーの田舎村に移り住み、息子までもうけて4年間くらい生活する。 
この中で、ゾラ自身がモデルのサンドーズが、自己の構想を漏らすところがあって、それがルゴーン・マッカール叢書そのもの。遺伝の要素とか、人間の情動や官能の重視とか、15~20巻だけどそれぞれ独立しているとか、まんま(笑) 
最後の「恋仇がパリだった」というのも笑えた。
(2018 11/24)

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