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「丸い地球のどこかの曲がり角で」 ローレン・グロフ

光野多惠子 訳  河出書房新社

「丸い地球のどこかの曲がり角で」は原題「フロリダ」。アメリカでは出版社が「フロリダ」では検索されにくいから他のタイトルを希望していたが、著者が譲らなかったという(訳書は短編の一つを取ってきてはいるが、表紙や扉には「FLORIDA」と記載されている。また著者ローレン・グロフ自身はニューヨーク州生まれで、夫がフロリダ出身なのだという。


「亡霊たちと抜け殻たち」と


冒頭の「亡霊たちと抜け殻たち」(ポール・サイモンの歌詞かららしい)は、全体のプロローグ的な編。作者のような人物がフロリダの町のあまり治安が良くない地域に住んで、夜歩きながらホームレスなど住民を観察していく。

次の表題作はさわりだけ。蛇や鰐など爬虫類の標本だらけの父の沼の家と、母の地域的本屋(黒人にも営業終了後店を開く…父にとっては考えられないことであるらしい)の海岸沿いの町の家、子供の視点でこれからどうなっていき、そして語られていくのか…
(2021 08/15)

「丸い地球のどこかの曲がり角で」続き

子供…ジュードは、ボストンで結婚し、フロリダの沼沢(今は大学に囲まれ残された沼は流入を止められ池となっている)の家に戻ってくる。やがて聴覚を失い、妻と娘がまたもボストンに行っている中、一人で池へボートで出かける…がオールが外れてしまい戻れなくなる。

 彼は何かとつながりたいと思った。彼がなくしてしまった何かと。だが、その何かはここにはなかった。
(p46)
 これまでの人生、彼には疑ったり悩んだりする時間がなかった。いまの彼には時間しかなかった。
(p47)

彼はボートの中で、彼の父親の亡霊と対話し、やがて風が出てボートは家の岸に着き、妻が予定より早く帰ってきて元の生活に戻ることになる。

この短編のタイトル「丸い地球のどこかの曲がり角で」は、ジョン・ダンの宗教的ソネット「丸い地球の想像上の四隅に立って、お前たちのラッパを吹いてくれ、天使たちよ」から取られている。ジョン・ダンの時代には既に地球が丸いことが証明されていたので、「想像上の」となった。作者は「人間は無意識に助けを求める存在だ」ということから、神への愛、救いを求めるこの詩を引いたという。
(2021 08/16)

フロリダの島

「犬はウルフッと鳴く」を今朝読んだ。母親に捨てられ、無人島化した島に置いてけぼりにされた7歳と4歳の姉妹のサバイバル。犬(どこの?)が、戻ってきたり森に走ったり。あとは空気のようなふわふわ感が描き出される。もちろん食べ物が無くて痩せていたからなのだけど、そのふわふわ感が少しだけ肯定的に書かれていたのが興味深い。

最後に現れた男女は親だったのかな?
(2021 08/22)

語り手と時

 姉は自分が空気になった気がした。風船になって地面の上をふらふら漂っているようだった。入り江の波が陽光を反射して光っているのを見ると涙が出たが、悲しいわけではなかった。その美しさに涙が出たのだ。波が彼女と話したがっていた。
(p69)

昨日指摘した「ふわふわ感」の箇所。

そしてそれに続くように、今日読んだ「ミッドナイトゾーン」(海の光が届かない領域(漸深層)の意味)から。

 食べることが大好きなわたしだが、このところめっきり体重が落ちてしまい、透明人間になったみたいに自分の体が頼りなく感じられる。最近身のこなしがふわふわしているのもそのせいかもしれない。
(p76)

こっちはそれほど「恍惚感」はない。けれど、何か痩せた自分の身体を楽しんでいる感覚がある…ちらっと見たバスタブと「わたし」の共通点の文章を見て感じた、トカルチュクに似た感触、というのをこうしたところにも感じる。

自分はこの短編集の語り手については、今まで全くノーマークのままだったから、ちょっと考えてみた。「亡霊と抜け殻たち」やこの「ミッドナイトゾーン」は明らかに「わたし」(女性)が語り手だけれど、その間にある二つの短編は一見語り手は自らを語らず「神の視点」に立っているかのように見える(というか、そう読んでいた)。でもこの内側の2編も、外側の2編と同じ語り手が、ちょうど子供にお話を聞かせているように語っていると想像すると、読み手の世界が一挙に広がってくる。そうした視点で先の「ふわふわ感」のつながりを見直すとこれまた楽しい。

 時は人間よりむしろ動物に近く、何が起ころうと平然としている。時はその流れから脱落する者がいたとしても、気にかけることはない。その者を置き去りにして流れ続けるだけだ。
(p89)

語り手は、子供にお話をする母親であるとともに、無慈悲な「時」そのものなのかもしれない。

さて、この「ミッドナイトゾーン」の話は、古い狩猟小屋で2日過ごす母親と兄弟、その中で語り手の母親が高い場所の電球変えている時、落ちて怪我をする(だんだん重症化する)。最後に夫が戻って来た時に彼が見た「恐怖」とは何?(各短編、結末は劇的な何か必然と思いたくなるようなものであるけれど、そこをぼかして読者に放り出して幕を引くのがこの作者の得意のやり方なのだろう。

ここでの「物語の根底を基底しているフロリダの薄気味悪いもの」は、フロリダパンサーと陥没穴。
(2021 08/23)

ワインとバスタブと私


 ここにあるワインは年金生活者の一年分の収入と同じくらい高価だが、わたしが飲もうと決断するまでにかかった時間は一時間だった。猛烈なハリケーンの接近を横目で睨みつづけていたら、そうでもしなければやっていられなくなったのだ。
(p93)
 わたしはバスタブの中にすわりこみ、体がそれにひんやりと包みこまれる感覚を楽しんだ。バスタブとわたしは似た者同士だと、いつも思っていた。どちらも中に誰も入っていないときは、真っ白ですべすべした手触りの空っぽの容れ物だ。
(p104)

「ハリケーンの目」…ハリケーン通過中に、語り手女性(またしても一人で取り残される)が、p93のワインを空けながら、夫、元恋人、父親という人々の幻覚(幽霊とはちょっと違うような)とあって、いろいろ話す、という作品。p104のは、先述したバスタブとわたしの共通点を見つけていく文章。
(2021 08/24)

お願いだから…

「愛の神のために、神の愛のために」…タイトル後半「神の愛のために」は「お願いだから」という意味の成句だという。

 もともと小柄なジュヌヴィエーヴだったが、いまでは骨がチョークでできているかのように痩せほそっている。ちょっとストレスが溜まってただけよ。アマンダはジュヌヴィエーヴのつむじに向かってそう言った。あたしたちだって、だいたいは満足してるのよ。あなたがここにあるシャンペンをいくら飲んでもいいって言ってくれてからはとくにね。
(p117)

昨年「ラ・カテドラルでの対話」で存分に楽しんだ自由間接話法がここでもいい味出してる。「アマンダはジュヌヴィエーヴのつむじに向かってそう言った」の前後が埋め込まれた会話。「つむじに」というのが特に引き立つ。

このアマンダの夫婦とジュヌヴィエーヴの夫婦が、交互の異性に多少惹かれるながらフランスのパリ近郊らしい家で過ごす一日。ジュヌヴィエーヴの4歳の息子のレオと、アマンダの姉の娘のミナを含めた、行き違いの人間模様。

若いミナは、この男女4人を背後で見ながら、一人何かを企んでいる模様。

 ヘリウムを注入された風船の気分だった。彼女は決めたのだ。
(p142)
 桃が真っ二つに割れるように、世界はいま開いたところだ。
(p143)

いちいち、比喩が巧み…

そう、この短編から、物語の舞台がフロリダを離れる。アマンダとジュヌヴィエーヴ、それにミナはフロリダ出身なので、引きずってはいるのだけれど…次の「サルバドル」はブラジルだし、最後の「イポール」はまたフランスらしいし。この本の後半は外側からフロリダを描く構想なのかな。
(2021 08/25)

ハリケーンは幻影を呼ぶ(南半球には来ない?けど)

「サルバドル」

 ヘレナは手を伸ばして、レジの上に置かれた海の女神の像を持ち上げた。女神は彼女が勝手に想像していたより、ずっと軽くほっそりとしていた。彼女の中である思いが大きくなっていった。それは彼女の手の中に納まった小さな真実と言ってもよかった。
(p164)

マイアミで病気の母親の看護をずっとしているヘレナは、一か月ほど、母親の看護は二人の姉に任せて、違う街(「ロマンスの香りの高い静かな町-ベローナ、ヤルタ、ダボス、アラカタカ…この町の名前は有名文学作品の並びでもある…アラカタカって「百年の孤独」でいいのかな?)へ行くことにしている。今年はサルバドル、ある日、嵐が来てヘレナは彼女のアパートの向かいの食料品店で、店主の男と嵐が過ぎるのを待つことになる。

嵐がおさまって、カンパーニャス(鐘の音)が鳴る中、外の陽光が射してきた時の文章が先程のもの。彼女は祈った。母親が熱心な信者で、それに対してヘレナは「無神論者」だった…大きく突然変わることはないとは思うが、小さく、何かは彼女の中で変わった。
(2021 08/26)

亡霊と蛇(「丸い地球のどこかの曲がり角で」読了報告)

昨夜(というか日付変わってから)「フラワー・ハンターズ」を読み、今日「天国と地獄」、「スネーク・ストーリーズ」、「イポール」を読んで、なんとか返却期限前に読み終え完了。この4編では「イポール」のみがフロリダ以外(フランス・ノルマンディー)…だから、「後半はフロリダを離れたフロリダの話なのでは?と思った予想はハズレ。それより?「スネーク・ストーリーズ」の語り手は「亡霊と抜け殻たち」の語り手と直結しているっぽい。ジョギングの話してるし。そう思って振り返ってみれば、「ミッドナイトゾーン」や「フラワー・ハンターズ」などもその系列に近いかも。後の短編も、その語り手から離れる部分が増えたり、不在になりながら(「犬はウルフっと鳴く」)、実は繋がっていそう。

あと、この語り手は(グロフ自身とどれくらい重なりあっているのかはわからないけれど)精神過敏かつ環境問題に敏感な(自分などから見ると)病的な人。そっちが正しいのかもしれない(たぶん、そう)けれど。

 彼女はどこへ行こうと、彼女のまま、欠点だらけで神経過敏な彼女のままなのだ。
(p291)

「フラワー・ハンターズ」、「天国と地獄」、「スネーク・ストーリーズ」

総括はこのくらいにして、各編を少しずつ紹介。

「フラワー・ハンターズ」は、ハロウィンの夜、孤独な語り手がウィリアム・バートラムという博物学者の本を読んでいろいろ考える話。

 あのころ、このあたりは新世界と呼ばれていた。にもかかわらず、彼はこの土地が新しく出現したものではないのを知っていたのだ。
(p182)

「天国と地獄」は、研究者になろうとしてなれずに浮浪生活を送る若い女性の話…「地獄…しかないじゃないか、と読んでて思う。

 窓には近寄らないようにした。窓から外をのぞいたりしたら、ユージンが言っていた浮かばれない霊が湿原から押しよせてくるのが見えそうな気がした。たとえばムチを持った貧乏白人や、マラリアに罹り小型の馬に乗ったスペイン人探検家の霊が。ジェーンの子どもたちがガラスに顔を押しつけていそうな気もした。
(p215-216)

上のウィリアム・バートラムの話とも通じそうなテーマ。ジェーンは、語り手が不法占拠テント村?で生活してた時に世話になった女性。子どもを語り手に残して売春で捕まる。

「スネーク・ストーリーズ」はある意味間奏曲的短編。息子が二人いるのも「ミッドナイトゾーン」「フラワー・ハンターズ」そして、次の「イポール」と共通。

 蛇はまたあなたの無防備な足首を見つめて思っている。あそこにぐさりと牙を立てたらどんな感じだろうと。
(p220)

そして「イポール」

これはモーパッサンの研究調査をしようとした語り手が、息子二人を連れモーパッサンの故郷であるイポールに滞在する話。作者ローレン・グロフもモーパッサンに影響を受けているらしい…

語り手に言わせると「大嫌いで、作品にしても好きなのはほんの僅か」らしい…ということを裏付けるようなモーパッサンのエピソードが時折織り込まれる。ただし、モーパッサンも二人兄弟の上の方で、精神病で亡くなった彼、それに劣らぬ悲劇的な最後を迎えた(らしい)弟、そして息子二人を失くして生きている母親、という構図が、語り手とその息子二人の物語、描き方にどう影響していくのか。

 ここから見ると、先ほどのぼった崖がいかに危険だったかがわかり、教会も強風に吹かれていまにも谷にころげ落ちそうに見えた。あそこで子どもたちを自由に走りまわらせたのだと思うと、吐き気が喉にせりあがってきた。自分は彼らをこんな遠く離れたところまで連れてきて、命の危険にさらしている。だが、いったい何のために? とうのむかしに死んでしまった作家を研究するためだ。彼女が道徳的に許せないと思い、その作品の五パーセントほどしか好きではない作家を。
(p257)

彼女達の滞在する家を世話したジャン=ポール(体臭がすごいらしい)が、最後の晩に彼女についての詩を書いた紙を渡すシーンも印象的。

 ここにもひとり、物書きがいたのだ。まるで世界がもっと物書きを求めているかのように。
(p293)

話を感動的にしたいならば、後ろの文は不要だろう。しかし、作者はそれを付け足さずにはいられない性分なのだろう。
(2021 08/28)

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