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「聖アントワヌの誘惑」 ギュスターヴ・フロベール

渡辺一夫 訳  岩波文庫  岩波書店

聖アントワーヌへの旅


(「フロベールのエジプト」斉藤昌三 訳  法政大学出版局 より)

ナイル川へ出たところでは、聖アントワーヌについていろいろ聞いているのだけは押さえたい。このエジプトの聖人であるアントワーヌといえば、フロベールがこの旅行の直前に書いた「聖アントワーヌの誘惑」につながる。
この原稿を同行者でもあるマクシム他に読んでもらったところ、即廃棄を勧められたらしい。これに打撃を受けたフロベールは、アントワーヌが生きたエジプトを旅し、旅行後この旅行記をまとめ、続いてある長編を書き上げる。それが「ボヴァリー夫人」。

で、「聖アントワーヌの誘惑」の方は、それから第二稿を経て決定稿を仕上げる。恐るべし執念。文学青年(死語?)だったフロベールがすっかり肥えてしまうまで? 
そして、この「聖アントワーヌの誘惑」をフーコーが論じている。

ナイル紀行全般は臨場感ある筆致で惹かれる。 自分がこの時代に生きていたら、旅する文学青年か、追い払われる群衆の一人か。
(2011 06/04) 

フロベールとファウスト

(ここから「聖アントワヌの誘惑」)

今回はフロベールの「聖アントワヌの誘惑」を。6月に読んだ「フロベールのエジプト」のエジプト旅行直前に書き上げられたこの作品のもとは、エジプト旅行にも同行したマキシムらによって酷評され、以来30年。フロベールが生涯かけて造り上げた幻想劇。これに比べれば「ボヴァリー夫人」は副産物?

そんなこの作品、訳者解説の渡辺一夫氏によると、フロベールのファウストという位置づけらしい。現にフロベールはファウストの愛読者だったらしく、元々の原稿はかなりファウスト要素が強かったそう。
そして、完成稿、これも渡辺氏によれば、ファウストは外へ知識へ…の明るい感じ、アントワヌは内へ神へ…の暗い感じ。でも、幻覚症状に入るところなど現代心理学的にも興味深いところがあるそう。 

という、概観を経て、本文に入ると…誘惑に負け過ぎじゃないか、アントワヌって感じ(笑)…
というより、フロベールは禁欲の聖者より、人間の欲望の凄まじさを描こうとしているのだろう。向かう方向を閉ざされたエネルギーを… でも、欲望を煽れ、浪費ウェルカムという精神な現代から見ると、どうだろう。また逆から見れば… 
(2011 11/18) 

シバの女王から裸形行者まで


聖アントワヌの誘惑、今日は標題通りのところまで読めた。 
シバの女王のシーンでは、シバが豊かな東洋側、アントワヌが一神教の西洋側、かなとオリエンタリズム含めて思ったり、続くイラリヨンとの対話では、イラリヨンの方が正しそうで、アントワヌは信仰に意固地になり過ぎなのではないか、と思ったり、とかとか。 
でも、この作品、戯曲形式なのだが、ト書きが多い。これならいっそ小説にしてもよいのでは、とも思う…どうなんでしょう? 
(2011 11/20) 

多様な世界


「聖アントワヌの誘惑」も中盤から終盤へ。
昨日夜から今朝にかけて、仏陀襲来?から捨てられた神々の行進。そして悪魔と宇宙の涯へヒッチハイク?? 目まぐるしい限り…中には宇宙の創成について、ちょっと違ったビッグバン仮説みたいなのもあった。
(たぶん)フロベールは、「この説が合ってて、この説は違う。アントワヌが正しくて、悪魔は誤り」とかいうことは正直どーでもいいことで、それよりこういった全ての目まぐるしい世界を絵巻みたいに見せたかったのではないのか、と思う。 
そもそも、この作品の原体験は、青年フロベールがブリューゲルか何かの絵を見て霊感を得たというところ。どうして世の中はこんなに多様なのか?またブリューゲルの時代は、フロベールの頃よりもっと多様であったのではないか? 

「聖アントワヌの誘惑」結末談義


解説にもある通り、なんか結末の取って付けた感がなんなのだが、とりとめなくなった幻想を紙の上でだけでも終わらせるには、この方法しかない、かも。さまざまな幻想が読み終わった後も尾をひいてしまうのは、この劇にぴったりかも。 
一方で、本来はキリストの十字架道行きの幻想で再度不信の底に落とされる、という結末がついていたのだ、という説も。なんか、現代人にしっくりくるようなこういう整った?終わり方はこの劇の場合、どうなの?
(2011 11/22)

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