「心変わり」 ミシェル・ビュトール
清水徹訳 河出海外小説選
この翻訳は、訳者清水徹氏にとって初めての翻訳だった(1959)という。自分の持っているこの「河出海外小説選」版(1976)では限られたところだけ訂正したとのこと。現時点では岩波文庫に収められていて、他の箇所も含む今回は全面改訂したのでは、と推測している。
「きみは」の二人称小説としてあまりに有名な小説。でも、もちろんそれだけではない。
これがパリの駅を列車が発車した時の描写。視覚的には正しくとも、読者の意識に「発車」という事態は伝わりにくい。その差異が人間の知覚、判断の再考を促す。
物語は、この「きみ」が妻子のいる会社の重役(か何か)なのにローマの不倫相手と会う(同棲を計画しているみたい)、そのローマまでの列車行を描いている。その筋自体も客観的な一見瑣末な描写の重ね書きの隙間に散見させるように入れてくる・・・のかと思えば、冒頭近くで「きみ」の狙いはすぐ明らかにされる。
あとは、この上の文章の中にもあるけれど、他にも「きみ」が見ることのできない窓枠の文字への言及など、「語り手」(というべきか何というか)は、相当に「神の視点」に立っている。物語創造の神というより、「きみ」がある日一部だけ身体から分離して「神」になった、あるいは「神」も「きみ」と同じような経験をしていて同情している、そんな「神の視点」。
(2021 08/29)
次はディジョンに停まります
まず、たぶんこの小説読むために必要な停車駅(「主要」とあるから、他にも停まるのか)
信号場みたいなところらしい(機関車付け替え?)。具体的に何の理由でかは書いてないけど。
で、これ挙げたのは、小説作品においても、こんな駅というか信号場かのような、そういう機能の箇所がある、というのをビュトールがここで暗示しているのではと思ったから。そういう機能を使わず、敢えて批判的にここに滑り込ませる、そういう策略があるのでは。
「きみ」は、席の向かい側の、本に書き込みしている「かれ」(教授…実際に教授かはわからない)を見ている。
語り手?と視点人物のずれというか何かが気になって非常に面白い。教授の実際の立場や心情などわからないはずなのだが(というわけで語り手も古典的「神の視点」ではない)、この辺考えているの誰? 「教授」のことを勝手にいいように想像しているのは、「きみ」(視点人物)ではなかろうか?
小説自身とは関係ない個人的ポイント
検札係に切符を見せる時に見える「きみ」の小物。多数家族証明書…これはそれ以前にも出てきた、子供が4人だっけ、これ見せると何か割引でもあるのかな、とにかくセシル(ローマの愛人)とは反対のアンリエットとの世界の象徴ではあるのだろう…
期限切れのルーブル友の会会員証とダンテ・アリギエリ協会会員証…これは? 自分が想像してたより「きみ」は教養(とりあえずこの言葉)があるみたい? でもない?
行ったことのない多くの都市…ことあるごとに「きみ」が行ったことのない都市、とかいう表現が出てくる。これも文字通りの意味もあるだろうけれど、小説表現に関することでもありそうだ。前に挙げた窓枠の文字と同じような。
(2021 08/30)
同一平面の眩暈
ルーブルにあるパンニーニ(らしい)という画家の絵。この絵は、絵の中に絵が陳列されている。パンニーニの絵の事物と、絵の中の絵の事物が画家からは同一に扱われ、それにより平面的に見える。
前のp35-36の文と同じく、ここもこの小説の構図の一部に言及していないか。主要進行のパリ-ローマ間の列車中の描写と、過去あるいは未来(「きみ」がローマについてからの語り)が同一平面上の絵画である、というような。
p54のセシルと「きみ」の最初の出会いの場面、ここで「きみ」が「きみたち」と呼びかけが変わる。進むと同じページ内で、本の昔の持ち主が書いたと思われる赤枠(マルジナリア)がある。この赤枠なければ、呼称の変化に気づけなかった。そしてここもローマへと向かう列車内の描写なので読んでいる人に同一平面の眩暈を起こさせる。
(2021 08/31)
パリの中のローマ
主筋のローマへの旅の前、その前のローマ行き(出張)から帰ってきた「きみ」は、家に帰るのにできるだけゆっくり、ルーブルや喫茶店で濃い紅茶など飲んで、そして遠回りして家に帰る。その道順はパリにいながらローマを思い出させるような建築物を巡って。パリの中のローマ、パリとローマを重ね書きするようなこの小説を俯瞰する部分、そしてそれはセシルの面影を辿る道(「チェチーリア」をフランス語読みすると「セシル」)…家に帰って、末娘との会話でわかるのは、セシルが以前この家に来たことがあったということ。内緒だと思っていたから少し意外。
(2021 09/01)
ウィルソン霧函って…
第二部開始。
最初に列車内の新婚夫婦の妻→セシル→アンリエットと、髪の毛を梳かす動作の連鎖がある。連続性と断片性、この小説を規定しているもの。
連続性と断片性。この「心変わり」という動画絵本(パラパラ漫画って西洋にもあるんだ…というか、そっちの方が先だよね、たぶん)、読者は何を「期待」するだろうか。
これは未来の(このローマ旅の最終月曜日)情景から。第二部冒頭の髪の毛梳かす連続性のような、スーラの点描画の一つの点になったような、この作品で度々言及される窓ガラスの雨粒の模様のような、情景の拡散。
第一部、パリを出る時に発車の描写の即物的細密描写をみた。今度はシャロン駅に停車の場合。
(最初読んだ時さっと流してしまって、しばらくして引き返して、この描写を見つける)
この先は、セシルと前回ローマで別れたあと、悲しそうなセシルの顔を見てどうにかしなければと思っていた夜汽車、それからセシルと初めて会った時のローマ行きの夜汽車、が向き逆のフーガの感じで次々と、その合間に短く今のローマ行きの描写。この辺来て、「きみは」と並ぶこの小説のもう一つの特徴「…だろう」止め文がわかり始めてくる。各断片、描写が断片化し過ぎて、「神」である作者は断片化されたパーツを実際にどのように結びつけるかを、実はまだ決めかねている、だからどうなるのかわからない。量子物理学のように(p82に「ウィルソン霧函」とかあるのはその証左だろう)。心変わりするのは「きみ」ではなく「神」(作者)なのかもしれない。
(でも、よく読むとこの列車の旅以降の未来の断片のとき(あるいは空想時)だけしか「…だろう」は使ってないようだ)
事実構成するのは、その人の頭の中にいる「作者」。
(2021 09/04)
最後に切符に鋏入れられたのいつのことだろう…
虚構を想像する遊び、創作中創作。聖職者が見ていた本(教えている子供たちのノート?)から、その子供たちに『パリのスカベルリ商会パリ支店長だと仮定して、彼が四日間の休暇を取る手紙を書いてみなさい』などという問題を出してみることを空想してみたり。車室内の他の客に勝手に名前をつけて人生を空想したり。ローマのセシルの隣の部屋が空いたことを知ってセシルが提案した(今までのようにホテルに戻るのではなく)そこに部屋を借りることをまだこの時はうっすらとだけ想像したり(この想像を今の旅で実現しようとしているのだが)。
だが、空想の霧はやがては晴れる時がくる。上の遊びの二つ目、老い始めている母親と男の子の連れが駅に降り立つところ。
あるいは、アンリエットだったりセシルだったりする名前も可能性の問題?
(2021 09/05)
今までは作者が神か量子物理学かのような、遊戯的性格だけだったこのイメージの連鎖が、人間を虜にする負の自動装置のような性格を持ち始めてきている。どこへ逃げようとも、それは人間の頭に住み着き増殖していく。
(2021 09/06)
バチカン嫌い、ミケランジェロ好き
セシルは、なぜだかわからないけれど、バチカン市国に入ることを嫌う。そのくせ?ミケランジェロが好きらしいから、システィーナ礼拝堂をどうするか、何か重要な欠落感を感じたまま…
(2021 09/07)
セシルを自分の家に呼んでアンリエットに合わせた場面で、「きみ」がまるで列車の中にいるように、急ブレーキやカーブで揺れたりするのを恐れているかのように、半ば震えて飲み物などを注いでいたというところがあった。この情景だけ取り出しても秀逸な喩えだけれど、この小説全体がパリ発ローマ行きの列車に乗っていることを考えると、地が図に出てきたというようにも読める。
(2021 09/08)
「心変わり」を読む「きみ」
トリーノ駅に着き、「きみ」が夕食のために食堂車へ歩いていくところで、第二部は終わる。もう日は暮れた。
第三部、そして室内灯が消される。
読者はここまで読み進めてきた間に、この小説タイトルが暗示しているように、「きみ」の当初の計画通りに…セシルをパリに連れてきて旅行会社の仕事につかせて自分はアンリエットと別れる…という計画をそのままでは実行しないであろう、となんとなく感じている。
第三部入って、ここに挙げたような、「、」止めで段落末、その次の文頭は直接前の文章と内容を引き継がない、という形式の記述が目につく。
そして、その本-パリリヨン駅で買ったその本-のタイトルは「心変わり」著者はミシェル・ビュトールかもしれない。
ここで「かれ」はその本の登場人物を指している。かれの迷いを「きみ」が追体験することで、小説作品が書かれる原動力が生まれてくる…小説の起源?
(2021 09/09)
いよいよ心変わり?
「…」には何が入るのだろうか。地名だろうか。1番目と2番目の「…」は違う内容なのだろうか。繰り返しながらも微妙にずれていく書き方が面白い。
というわけで、第7章終了。ここでは「きみ」が見た夢が一字下げで出てくる。この夢の部分は「アエネーイス」(またか…)を想起するようになっている(地上と地下の二つの顔を持つヤヌスも出てくる)のだが、その中で列車の音とがが入り込んでくる。
今日は八重洲ブックセンターへ行き、この河出書房新社版で200ページの箇所が、新しい岩波文庫版では365ページになっているのを確認。岩波文庫版(訳者は同じ)では、上で書いた「アエネーイス」の夢の部分も下げずに書かれて、なおかつ見たところほとんどが空白行なしで詰めて書かれている。
(2021 09/11)
無限に続く本、散乱する車室
トリーノからジェノヴァまでの列車、その朝、長いけど美しい箇所なので引いてみる。
この小説冒頭のパリリヨン駅で買った何かの小説本。まだ一文字も読んでいない、しかし言及されることの多い(座席確保の目印として使っていたということもあるが)本、座席と背凭れの間に入り込んでしまったその本を指でつまみながら「きみ」は考える。
突然の「おれ」呼ばわりにも驚くが、なんだ、失われた時を求めてか?とも思う。だが、解説で訳者清水氏は、ここをプルーストのような作家誕生の物語として読むことに疑義を挟む。では何なのか。清水氏はここでの「本」は「完璧な、充実したコミニケーションの可能態としての比喩」なのだという。うーむ、そうなのか? 自分としては、この「きみ」が持っていた「本」がじつはビュトール作「心変わり」だったら終わりなき円環を示せて楽しい…というくらいだと思うのだがなあ…ただ、それがどうであれ、「この小説の真の主題はコミニケーションなのでは」という清水氏の言葉はもう一度じっくりと考えてみたい、少なくとも、この小説中コミニケーションが双方向とも正しく成立していることはほとんどないのではないか。
(「おれ」に関しては、この後p236-237でも出てくる…今までに「おれ」があったかどうか…とにかくかなり意外な登場だったことは確か。「おれ」が目醒めたというべきか…)
解説からもう一箇所。
やはりスーラの点描技法だなあ。例えば後半頻出した、読点(あるいはそれもなしで)で段落が唐突に終わるが、内容的には次の段階でその続きを語るという箇所、それも段落分けで空いたスペースに読者が何を挟み込むか、という「形成」を見込んだものだったともいえよう。
(2021 09/12)
以下はアマゾンのリンク(岩波文庫版)
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