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「ギュンター・グラス 「渦中」の文学者」 依岡隆児

集英社新書  集英社

依岡氏には「ギュンター・グラスの世界」(鳥影社)もある。

第三章まで読んだ。グラスはデーブーリンを師と仰ぎ、カミュや小田実の思想とも親しい。一方、グラスに影響を受けた作家としてアーヴィング(「猫と鼠」を自作に取り入れた)やサルマン・ラシュディらがいる。この間読んだヒュレもその一人だろう。
ナチス親衛隊に17、8歳で召集、ソ連軍に敗れてマリエンバードで捕虜となり、強制収容所のことを知り愕然とする。
それ以降は、具体性に重きを置き、白黒つけるのを避け「灰色」に留まる努力をし、政治・社会活動や批判も積極的に行う。社会民主党を支持。芸術的には、詩と彫刻(石工)から始まり、ジャズ(サッチモと共演した?)や絵、映画さまざまな活動を行ったり、コラボしたりする。

 どんな思想も純粋ではない。そして芸術もまた、純粋に開花することはないのである。
(p41 「犬の年」)

 失われたものは言葉で取り戻すことはかなわないが、喪失したということが感じとれるなにかを「破片」として形にすることはできる。そしてこのような断片が、表現できぬものを引き寄せる磁場になっていく。
(p89-90)


(2022 03/20)

 大上段に構えたテーマは、目の前のノイズに足をすくわれている。これがこの作品のスタンスを決める。「雑音」が物語の中心的枠組みを逆転させる働きをして、物語を散漫な構成にすることで、読者の意識を物語形式の向こうにあるもうひとつの現実に開かせようとするのである。
(p132)


「女ねずみ」から、「私」とクリスマス祝いにもらった雌のねずみとの対話。「私」はねずみのたてる雑音で気が散ってしまう。それが多様な読みを産むきっかけとなる。

 ドイツ語に「ひき蛙をのみこむ」という言い回しがある。これは折り合いをつけるという意味で、蛙をのみこむようにいやなことをやるというニュアンスだ。そうドイツ語で表現される「折り合い」は、この語り手にもあてはまる。語り手は主人公の美術史教授レシュケの要請通り、余計なことは書かないという約束を守りつつ、一方でそういう風には書きたくはないと、行間でふとつぶやいている。
(p161)


「鈴蛙の呼び声」から。ちなみにグラスがドイツ統一に反対(というか留保)したのは、統一ではなく西側からの東側吸収という形に対してであって、統一の際の新しい憲法を作らずなし崩し的な統一に反対した。グラス自身も蛙を飲み込む思いもしたのだろうか。

 想起はすぐ隠れ家を求める。嘘をつくし、また美化しがちであるとして、物語ることを自戒しつつ、玉ねぎを記憶と見立てて、慎重にその皮をむいていくように物語る。
(p190)


「玉ねぎの皮をむきながら」。これまたちなみに、グラスは料理も得意で、苦い内臓料理などを客に出す、という。ライヒ=ラニツキはこの料理が苦手だったからグラスを批判した?
また、イスラエルのイラン先制攻撃(2012)に対して、グラスはイスラエルを非難した。ただ、1960年代には、ドイツの作家としてイスラエルに招待された、という実績もある。
「女ねずみ」以来、グラス読んでないなあ…この本は読み終わり。
(2022 03/21)



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