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ギュンター・グラスと書くこと

「ギュンター・グラス 「渦中」の文学者」 依岡隆児 集英社新書 集英社
「集英社版 世界の文学 第37巻 現代詩集」 集英社

「ブリキの太鼓」他の長編小説で知られるギュンター・グラス。彼も元々は詩人(と造形作家)と出発した。パリに出た時にはパウル・ツェランに世話になったし、ドイツの文学サークルである四七年グループでも詩を朗読し評判になった。そして詩集「風見鶏の長所」が出版された。


書くこと


 消しゴムが頼りだ
 落し物係で傘が出てくる
 ローラーで瞬間を延ばす
 そして関係を再び分ける
 なぜなら… それゆえ… したとき… そうして… するために…
 こんな詩はやめなければいけない
 ダブルコロンで終えること
 また来るよ、また来るよ、と
 真空の中で朗らかでいて
 自分自身をかすめ取ること
 カオスを
  修正版で
   からめとること
    それぞまさしく、書くということ
 
(「ギュンター・グラス 「渦中」の文学者」 依岡隆児訳 p105-106)

ダブルコロンすなわち中断と、消しゴムすなわち削除が、彼の武器。
敵は、自分自身の思い込み、既成概念。それがどういう結果をもたらすかは、彼自身が自身の経験でよくわかっていることだろう。
よって、彼の創作(小説においても)では、多視点で複数の流れを同時に扱い、語り手は信用ならず、訂正も平気でする、ということになる。そうでないもの、答えが一つのみに導かれるものは文学ではない、という認識が彼にはあると思われる。



卵の中


 ぼくらは卵の中で暮らしている。
 殻の内側に
 ぼくらは 不作法なスケッチと
 ぼくらの敵の名前を落書きした。
 ぼくらは孵化される。

 ぼくらを孵えすのがだれであろうと、
 かれは ぼくらの鉛筆もろとも孵化する。 
 ある日 卵からはい出て、
 ぼくらは ただちに
 卵を孵えしたものの像をつくるだろう。

 ぼくらは自分たちが孵化されるのを想像する。
 ぼくらは心やさしい鶏を思い浮かべ
 そして ぼくらを抱く雌鶏の
 色彩と種類について
 学校の宿題をする。

 いつぼくらは卵からはい出るのか?
 卵の中のぼくらの預言者たちは
 抱かれているあいだじゅう
 いくら払ったらいいか言い争う。
 彼らは一日いくらだと仮定する。

 退屈のあまり またまことの必要から
 ぼくらは孵化箱を作り出した。
 ぼくらは卵の中の後進たちを心から心配しているのだ。
 ぼくらを寝ずに番してくれるあの雌鶏に
 ぼくらの特許をおすすめしたい。

 だが ぼくらの頭上には屋根がある。
 年老いたひよこたち
 言葉を知っている胎児たちは
 ひねもす語り
 論じて飽きない 彼らの夢を。

 そして もしぼくらが孵化されないなら?
 この殻がけっして虚ろにならないなら?
 ぼくらの地平線が ぼくらの悪戯書きの
 地平線にすぎず いつまでもそうあり続けるなら?
 ぼくらは孵化されるのを望んでいる。

 たとえどんなにぼくらが孵化について語ろうと、
 ぼくらの殻の外で、だれかが飢えを覚えていて、
 ぼくらをフライパンにぶちあけ 塩をふりかける
 という恐れのなくなることはないだろう。ー
 そしたら どうしたらいい、卵の中の兄弟たちよ?

(「集英社版 世界の文学 第37巻 現代詩集」 高本研一訳 p264-265)

最後の2連での、震えが止まらない。
とぼけたユーモアでくるんだ、雌鶏と卵、孵化箱と卵、親と子、社会と個人、神と人間…など、読み方によって代入されるものが入れ替わるのを楽しみながら進むと、「ぼくら」はまだ孵化していないこと可能性を告げられる。
果たして、孵化しているのか。
飢えているだれかとはいったい何者なのか。
やはり書くことしかできないのだろう、それがたとえ「悪戯書きの地平線」にすぎなくても。
(2022 03/21)


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