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「脱皮」 カルロス・フェンテス

内田吉彦 訳  ラテンアメリカの文学  集英社

「聖域」と「脱皮」、合わせて購入。フェンテスセット…

元は「夢」

10日の火曜日からフェンテスの「脱皮」を読んでいる。男女4人がメキシコシティからチョルーラへドライブ旅行へ出掛け、語り手は主要登場人物4人を追跡する男…ってことになっているわけであるが、実はこの4人の中の誰か(あるいは全員?)がこの語り手の空想で語り手自身が4人の中の誰かかもしれない…という、書いていてもとてつもなくややこしい話になっている。
まあ、もともとは「夢」と題される予定だったというので、夢の中での曖昧模糊とした感覚で楽しめばいいのかなあ…とも思う。

 メキシコであらゆるものが廃墟のように見えるのは、すべてが約束されているからだ。メキシコとはあらゆるものが約束されていながら、なにひとつ成就されていない国なんだ。アメリカ合衆国では、あらゆるものが成就されているのに、同時に廃墟と化してしまっている
(P81)


4人の中の1人ハビエルの言葉であるが、ワシントンD.Cで暮らしていたフェンテスならではの言葉である。P130に出てくる通りがかりのインディオの「風変わりな衣服」の描写は、単にこのインディオの服に対する文ではなくて、この「脱皮」という小説全体を言い表している文ではないかと思う。
(2009 02/12)

夢は互いに溶け合う

 われわれは老境に耐えられるような力を蓄えるために生きているにすぎない。
(P201)


全くである(笑)。この小説、原題は「夢」だったらしい。登場人物皆が夢を見ている。でも夢自身が他の人の夢を引き寄せ、寄り添い、混ざり合っていく。そうして、できる「夢」の力。P201の文を言い換えると、老境に夢を見ることが出来るように、若い頃というものがある、ということになるのか。
そして、「死」とは?
夢は円環的時間である。夢は両性具有である。夢は個が消滅する瞬間である。
夢は大小さまざまな円でできているが、その重なり具合、接近の度合が、直線的時間(小説の進み具合・加齢)に従い溶け合い始めてきている気がするのだが。第3部では完全に溶け合うのだろうか?
やっと、半分くらい読み進めた。

 小説とは、世界がその内に所有しながら、いまだに発見できず、おそらくは永遠に発見できないことを明らかにするものである 
(P255)


(2009 02/16、17)

夢は互いに引き寄せ合う


だいたい毎日フェンテスの「脱皮」を少しずつ読んでいる。前も言ったが、この作品はもともとは「夢」という題名がついていた。いろんな人が見るいろんな夢は、小説が進むにつれ寄り集まってきているような気が。第3部では解け合っていくのだろうか?
今朝、読んだところでは、フェンテスの前作からアルテミオ・クルスが話の噂として出てきた。フェンテスはバルザックの影響もあるので、その為かもしれない。
(2009 02/17)

今日読んだところは4人のうちのフランツが、第2次世界大戦終了時にドイツ兵として逃げていた時の話(夢?)。日本ではなんだかんだ言って、沖縄とか以外は本土決戦はなかった。だから、あんまり敗残兵狩りのようなことはなかったのかなあ、と読んでいて思った。
(って、ここには書いてあるけど、満州など海外ではいろいろあったと思う)
(2009 02/19)

性交の円環と知識の過剰

 男は女の上にのっかり、女は動物の上にのっかり、動物はほかの男の上にのっかって、際限なくやりまくり、その尻の鎖からお互いに逃れられない、通りのまん中でやっている犬とおんなじなんだ・・・
(P322)


「脱皮」というタイトルとも、4人の夢の重なり合いとも関連づけられるこの文章。下品な文章でもあるけど、神話的でもある。「夢」とはこの小説の原題でもあるが、ハビエルが書いていて結局書かれなかった小説のタイトルでもある。
ハビエルはその昔に書いていた小説のストーリーをエリザベス(ハビエルの妻でもちろん4人の中の1人)に思い出させようとするが、実はそのネタはエリザベスが別の詩人と寝てもらってきたネタなのであった。傑作な話である。

 狂気とは過剰な知識の仮面なのかも知れない。(p332)


メキシコの教会建築は、特にその内部装飾は過剰な装飾で知られる。外部の者が見ると狂気にさえ見えるその装飾は、余りに伝えるべきものが多すぎる為の反応なのかもしれない。歴史の過剰は教会に、知識の過剰は狂気に・・・か。
(2009 02/20)

かのように、の変容

 人間は進歩しない。生まれてくる人間は誰もが最初の創造物なのだ。彼は自分自身のために、そして世界のために古い行為を繰り返さねばならない、まるで自分が生まれる前には何事もなかったかのように。
(P427)


この文は蛇の比喩を筆頭にした「脱皮」「円環」と正反対のようだが、そうでもないのか? 「かのように」ということは、「そうではない」ということでもある。自分が始めのようでいて、そうやってきた人間は前にも後にもたくさんいる・・・

ということで、「脱皮」を読み終えた。2段組で430ページという大作。
ここ1、2年で自分が読んだラテンアメリカ文学の大作である、ドノソの「夜のみだらな鳥」とカルペンティェールの「春の祭典」の関係を勝手に少し考察してみると、明らかに幻想の支配する「脱皮」は「夜のみだらな鳥」に近い。ただ、次から次へと手に負えない幻想が飛び交う「夜の…」に対して、「脱皮」はクレッシェンドに幻想の幅が広がっていき他の幻想をお互いに浸蝕していく。

一方、「春の祭典」とは歴史的視点(ナチスとか)もあるのだが、それより作者の分身の要素が濃い主人公(「脱皮」の場合は主人公達)が、作家であると同時に建築家であるところに共通点が見出だせる。作品の構造の骨組が見える(見えそう)ところ、いや、もう少し深く考えて建築家思考ともいうべき何か(何だろう)がありそうだ。何か… 
(2009 02/23)

「脱皮」と「ユリシーズ」キルケ挿話

前の日記では「脱皮」の第3部については書いてなかったので、今回はそれを。
第3部はビート族?達がハビエル一行4人を断罪する…話なのだが、特に前半部分は行ごとといってもいいくらいに場面が入れ替わり立ち代わりで、ジョイスの「ユリシーズ」のキルケを(娼館だし)思い出させる内容。自分は全然ついていけなかった。後半はそれでもキーがフランツの旧友?の故小人老人形師と、ハビエルのギリシャ旅行に持っていったバックに絞られた為分かりやすくはなった。
結局、このビート族一行は語り手自身も入っている、チョルーラのピラミッドの近くにある精神病院の人々らしい…ほんとかなあ。 
(2009 02/24)

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