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「ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの」 ジークムント・フロイト

中山元 訳  光文社古典新訳文庫  光文社

箱選びと反動形成

フロイトのシェークスピアの批評を一つ。「小箱選びのモティーフ」。「ヴェニスの商人」での金・銀・鉛の箱選び…正解?の箱を選んだ男に娘をあげよう、という話。箱は女性を示すとして、三人姉妹の末娘が(沈黙してるけれど)一番父親を愛していた、とは「リア王」の話。シェークスピアには必ず?ある原型の物語始め、類似の話は山ほどある。なんで末娘がいっつも正解なんだろう?そして正解はなんで地味だったり沈黙してたりするんだろう… 

という謎をフロイトは、もともとは季節循環の神(春・夏・冬)であり、それが人間史の象徴に転嫁された(母・妻・そして大地(死))女神のだった、という。だから沈黙…だけど、なんで正解? これは(自分の思ったところでは、死は避けられないものなのだ、という寓意かと思ったけど)フロイト説によれば、死なんて選びたくない!という思いで、神話を反転させてできた「反動形成」なのだ、という。こんなところで「反動形成」を持ち出して片付けてしまう?フロイトも強引だけど、そこがまた醍醐味(笑)。ハッピーエンドは死の裏返し、というわけか… 

でも「リア王」は、死を選ばずに、母・妻を選んだ為に、逆に死に選ばれてしまう悲劇。選択という自由も、所詮は死という強制の中での自由なわけね…と、シェークスピアは物語→神話の反転させた意味を少し元に戻したのだ…と。 なかなか面白い。いろいろ想像湧きそう。でもシェークスピア自身はそんなこと考えていたのだろうか? まあ、実在しない説、共同著者説などさまざまあるシェークスピアのことだから、この辺は考えないことに… 
(2011 11/06) 

例外者の思想?


今日はフロイトの「ドストエフスキーと父親殺し」(光文社文庫)から「精神分析の作業で確認された二、三の性格類型」、のうち、前半を。

「望ましい人間に生んでくれなかったからこれまで苦労した。だから、これからは自分だけはどんなことをしても許される」というのが、「例外者」の方。えと、この論文では実際の症例を挙げるのは少しだけにとどめといて、後は文学作品を例に挙げる、という手法をとっている(だから、フロイトのやりたいのが症例研究なのか文学批評なのか不明瞭に(笑))。ここで取り上げられているのは「リチャード三世」。でも、それより?さっきの「例外者」を民族にまで拡大適用しているのが気になる。ユダヤ民族のことを多分念頭に置いているのだろうから。 

次の症例は「成功しそうになる時に壊れてしまう」場合。フロイトは「マクベス」を挙げながら、自身のリビドー理論で説明してるけど、自分はこういう事象聞かされると、デュルケームのアノミーを思い出してしまう。まあ、どっちもあるのだろうけれど… とにかく、自分は「リチャード三世」も「マクベス」も読んでないことだけは事実(笑)&(汗)。(「マクベス」はオペラ映画のビデオを借りて見たことだけはある)
(2011 11/08) 

罪が先か、罪の意識が先か… 


昨日のフロイトの「性格類型」の続きは、作者も変わってイプセンの「ロスメルホルム」。

養女として育てられた(と、思っていた)、そしてその養父と肉体関係を持った女性が、後にお手伝いかなにかで入ったロスメル家で、その家の夫人を自殺させるよう仕向け、ロスメル氏と結婚できるよう策略。でも、それがうまくいってロスメル氏から結婚を申し込まれると…それを断る(この点が昨日の部分の論点と同じ)。ここはフロイトお得意?のエディプスコンプレックスで、養女時代の再現が今のロスメル家で起こっていると解釈。

その後のまとめの部分で、どうやらフロイトは罪の意識とそれから良心の源泉もエディプスコンプレックスにある、と考えているみたい。その罪の意識から解放される為に、別の罪を犯す…なんでもかんでもエディプスコンプレックスってのは…どうだろうか? そうだろうか? でも、ところでマクベス夫人はどうなったんだ?ひょっとして、マクベス夫人も過去に同じようなことを…ってフロイトは考えているのか? 
(2011 11/09) 

それは繰り返される…


今日は「不気味なもの」を。自分の読みが浅いせいか、フロイトの筆が錯綜しているせいなのかよくわからないが、論旨がいろいろ飛んでいる気がする…
今までのところを要約すると、ホフマンの「砂男」などの作品分析を元に、不気味なものは乳幼児期に「自分と他者」、「生きているものと生きていないもの」が区別されていない頃の他者(人間とそうでないもの含む)との付き合い方が、大人になってふとしたことで表面化したもの…らしい。

そもそも乳幼児期の他者との付き合い方とは、ナルシズム(自己の概念)が拡大したもので、死を隠す為に他者を自己のドッペルゲンガー化する。 フロイトがこの時期と共通なものと見なす(ここ、自分としてはどうかなあ、と思う)アニミズムの世界では、この死を隠す欲望?を繰り返しという操作で実現しようとする。先祖と同じ名前にしたりして…というところで、まっさきに思い出すのは「百年の孤独」の循環する名前… 

大人になって(発達した社会も?)そうしたドッペルゲンガー的なものが出てくる、あるいは執拗に繰り返されること…同じ場所に何度も出てきてしまうとか、偶然に同じ名前の人から手紙が来たりとか…があると、それを不気味なものと認識する。
フロイトの言ってることの断片しかメモれてないですが、それでも読み間違いあるかも。うむ。ニーチェの永劫回帰とか、変動比率スケジュール(確率的に繰り返すもの)とかとの関連も考えてみたいところ。

「ユーモア」メモ 
機知・・・無意識が作り出すもの 
ユーモア・・・超自我が作り出すもの
(フロイト説) 
(2011 11/14) 

ドストエフスキーの仮死願望?

今日から「ドストエフスキーと父親殺し」。この文庫のメインディシュ… さすがにメインだけあって難しいが(笑)。

その中核にあるのは少年にある父親に成り代わって(殺して)母親に愛されたい、という例のエディプスコンプレックス。それと父親への愛情、両親の投影である超自我、またドストエフスキーの場合は自身に女性的要素(ま、言ってみればホモセクシュアル傾向)もあり、入り乱れて大変なことになるわけ(笑)。 大変なことになってしまった表面化したものがドストエフスキーの場合癲癇になるわけだが、フロイトはそちらはあまり中心に持ってこなくて、あくまでエディプス。何せこれは原罪のということは宗教のもとみたいなものだから… 

仮死願望はドストエフスキーが子供の頃、寝る前に、「もしずっとこのまま動かなくても死んでいるわけではないので、5日間は埋葬しないで下さい」と置き手紙を書いたことがある…という話題。このことは自分は初めて知った。フロイトによるとこれは父親を殺した死体に、自らが(自らを罰して)なりたい、という願望だとか…
今書いてて思い出したが、大江健三郎の「万延元年のフットボール」で、主人公がやたらに穴掘って中に入る、という行為を繰り返していたのは、それも同じ理由だろうか。 後半はいよいよカラマーゾフ…か? 
(2011 11/15) 

団子を作るフロイトの母


 フロイトの文庫から、「ドストエフスキーと父親殺し」と、それからこれも論文としてもボリュームたっぷりの中山元氏の解説。

ドストエフスキーでは、カラマーゾフでの殺人者に対する好意または同一化。それから、賭博と自慰行為のメカニズムが同じこと。
解説では、この時期のフロイトの理論が、快感原則から死への欲望へ、エディプスコンプレックスから前エディプス期(対父親から対母親へ)と移り変わる時期であることを指摘。
その母親像として印象的に描かれているのが、標題に挙げたフロイト自身の母親。団子は土から産まれて土に帰る人間を示唆。食事時間まで待てという母親から、快感をすぐ得られるわけではないこと、そしてそれは死の準備につながる…とのこと。
犯罪者への好意のところでは引用しときたい文章もあったけれど…
(2011 11/16) 

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