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「ホフマン短篇集」 E.T.Aホフマン

池内紀 訳  岩波文庫  岩波書店

ジュンク堂池袋店で購入。岩波文庫2011年一括重版。

人造ヴァイオリン?


昨日読んだ「ホフマン短篇集」の解説と冒頭の短篇。まずは解説から。

 彼にとって人間は「健全な」人々が信じているほど尊厳ある生きものでも万物の霊長でもなかったようだ。もっとあやうい、もっともろい、もっととりとめのない、もっと曖昧なものだった。手をつくせば本物そっくりを人工的に造り出せかねないからくりから成り立っていた。
(p317)


池内氏の解説より。他には、イタリアなど南方の自然科学及び猥雑さ?への、憧憬と恐れもあったのでは?と。

最初の短篇「クレスペル顧問官」。これなども、フロイトが取り上げてもよさそうな作品(窓から人を放り投げてるし)。
ストーリーは、クレスペル顧問官(ヴァイオリン制作を趣味とする)と、歌手の母娘、それから青年作曲家ピアニストが繰り広げる愛憎劇、といったところ。上記ヒトとモノとの境界に関しては、人間とヴァイオリンの関係。ヴァイオリンを分解して秘密を調べる顧問官と、ヴァイオリンを自分の分身だとする娘。その娘の死後分身であるヴァイオリンも壊れた・・・
また、自分的には「薄膜」というモティーフが二度出てきたのが気になった。一度は、顧問官の奇抜な行動に対しての第三者の言葉、もう一度は地の文で娘の病気からの回復の場面。ホフマン好みのモティーフであることは間違いない。特に後者での比喩は明らかになんか変。
あと、クライマックスまで二、三度波があるのも特徴かな? この作品でも、一度顧問官と作曲家の間の対立の場面があって、これがクライマックスか、と思いきや、もう一場面用意。「砂男」でもそうらしいけど、これは物語の劇的な流れ重視(例えばクライスト?)より、自らのオブセッション重視??
(2011 11/29)

今日は「G町のジェズイット教会」を読んだ。ホフマンの芸術感や自然観などがわかって面白い。語り手の前に立つ教授は「物質至上主義」で「解説」のスパランツァーニと同じ立場、とホフマンは考えていたのか。話は教授が紹介した画家のドラマスティックな生涯で、映画にしてもいけそうな感じ・・・
だけど、物語の一番の大枠である「ひどい郵便馬車」が脳そのものだと仮定してみれば、なんだか全てが誰かの幻想?という気もしてくる。下の文はこの作品のイチオシの文ではないけれど?とりあえずのせておく、これも考えてみればホフマン的深層に立ち入ることができる断片なのかも(画家の郷里の師の手紙から)。

 才能を疑い出すのがまさしく才能のあかしなんだよ。
(p73)


(2011 12/11)

フロイト以外でも…


「ホフマン短篇集」の続きに取りかかった。
「ファールンの鉱山」…これも現世の仕事&恋愛か大地に没入するかのドッペルゲンガー的側面、それから小箱選びのモティーフの選択など、この間読んだフロイト文芸批評が役立ちそうな題材。
しかし、別にフロイトにこだわらなくとももちろんいろいろ楽しめる。主人公青年が眼前に見る大地から出た鉱物の花や茎が絡み合っているというシーンからアールヌーボーを思い出してもいいし、なんで今回の舞台がスウェーデンなのかというところを考えてもみたい。
とにかく今回の短編は前二編とはちょっと印象異なる。運命の力強い矢印を実感させる短編。
次は「砂男」。フロイト「不気味なもの」での題材。そしてこの短編集の一番長い物語。いまんとこ子供ナタナエルが父親の部屋に忍びこんで砂男を待ち受ける…ところまで。
(2011 12/21)

「砂男」における人間と都市


さて、「砂男」を読み終えた。ま、一つのメモ。
またしても、というか、なんというか、冒頭に3通の手紙置いたり、クライマックスに向かうのかと思いきや違う話で引き延ばされたり、ホフマンの話術はなかなか余裕たっぷりなのだが、今回は最終部近くに置かれたこんな2つの文から。

 ともあれ自動人形に深い衝撃を受け、それからというもの人間の形をしたものに対して疑いの目を向けないではいられないのだった。
(p206)


これはナタナエルのことではなく、世間一般の人々の話。前に挙げた解説の池内氏の文章も参考にして考えると、人間は人工っぽく、人形(非人間)は人間っぽくみえる。そこに本当に境界線はあるのか? 人々は不安がったに違いない。現代の私達も境界線はあると普通に思っているけれど、自分で本当に言い切れるほどの自信がある、わけではない? フロイトはこういったものを「不気味なもの」としたわけだが、そうしたホフマン的曖昧な境界線は何も人間と非人間のものだけではなさそうだ。というのも・・・

 青葉の森がひろがっていた。その向こうにはまるで巨大な市街のように青々とした山並みが浮かんでいた。
(p209)


ナタナエルとクララが塔に登る最後のシーンで、見える景色。の普通の描写に見えて、なんとなく妙な比喩。前に、ヨーロッパでは(昔住んでいた森を思い出すために?)ゴシック建築を残した、という話をどこかで聞いたのだが、それを思い出させる。ホフマンにとっては都市も森も曖昧な境界線? それを改めて発見できるための距離感が塔の高さであるわけだ。

上記の文の光景に何かを感じたクララがそれを指差す。それを見ようとしてナタナエルは以前コッポラ(砂男系?)から買った望遠鏡を手に取る。と、そこに見たのはすぐ近くのクララの姿。遠距離から至近距離への急激な変換。遠くのものを見るための望遠鏡で、すぐそばのものを見るという転換。そこにナタナエルは人間と非人間の境界線を越える何かを見たのか?
あんまりうまく言えないけど、ホフマンにとってはアナロジーが全てだったのかな? 言葉に代表される概念世界ではなく、表面的な相似による視覚世界。病気がちで歩き回ることのなかったホフマンは(別にそれだけが原因というつもりはないけど)視覚に関する感度が敏感だったのに違いない。と、今は思う。
次の「廃屋」も途中まで。ん、あれ、これ前に青空文庫で読んだものかな?

ちなみに、ドリーブのバレエ音楽「コッペリア」はこの「砂男」を土台にして書かれたものだが、台本は全く別のハッピーエンド。舞台もフランス?
(2011 12/23)

ホフマンから題材を得た音楽(補足)


上記について補足
補足1 青空文庫の方は「廃宅」になっていた。世界怪談名作集という中の一作で細かいところは(前置きとか)大胆にカット。
補足2 ホフマンを素材にした音楽作品その他。ホフマンは作曲家・舞台芸術家・画家(ここは「G町のジェズイット教会」によく投影されている)であったこともあり、他の作曲家の作品の素材にもよく用いられている(ちなみにホフマンのE.T.Aホフマンというのは筆名でそのうちのAは「アマデウス」。モーツァルトに敬意を表したものらしい)。「コッペリア」の他、オッフェンバックの「ホフマン物語」はモロだし、意外なところではシューマンの「クライスレリアーナ」もそう。

「廃屋」

今日は「ホフマン短篇集」より「廃屋」(の続き)。

 そのうち怖しいことに気がついた。例の姿は自分自身ではないのか…(後略)…
(p242)


例の姿とは、廃屋に佇む姿を見た(と思っている)、そして小説の小道具となっている手鏡に映っている(と思っている)若い女性の姿。これまたフロイト的世界だなあ。と、周囲のいろいろな話題から思っていたら、あらま、本物?の精神科医が登場…
一方、真の主人公?たる廃屋に捕らえられている(もう既に老女となっている)狂女アンゲリカ(だったかな?)も、妹の子である女の子を自分の子と思い込む。
他の存在を自分のことだと強く感じることがフロイトによる「不気味なもの」だとすれば、この小説などまさにその典型。フロイトはクライストの文芸批評などしたことあるのか? 一方では理性に、もう一方では幻想に惹かれていたアンビバレンツなドイツロマン派文学(及び思想・哲学ETC)も、かなり突っ込む(研究する)価値が有ると思う。

「隅の窓」


「ホフマン短篇集」読み終わった。最後の短編は「隅の窓」(直訳すると「従兄の窓」となり、作家で病気の為歩けない従兄と語り手が、従兄の家(屋根裏部屋)の窓からベルリンの街の青空市場を見下ろしながらいろいろ想像力を羽ばたかせる会話をする…という内容)に表れた従兄の姿はホフマンそのものであり、出で立ちもモットーもホフマンのもの…だという。

ホフマン=従兄が市場に民衆に(フランス軍占領以来)何らかの秩序が芽生えてきた、と語る時、自分の考えではホフマンという人は(今度は)個人と社会の境界線が曖昧に見えている人なのかな、とも思えた。今の歴史学・思想では、民衆の力が権力に外側から或いは内側から抑えられてき始めた頃とされるこの時期だが、同時代人ホフマンは肯定的に捉えていたのかな…そう考えてみた。
(2011 12/25)

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