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「事件の核心」 グレアム・グリーン

伊藤整 訳  新潮文庫  新潮社

とあるスーパーの古本コーナーで100円で購入。たぶんコスパという点ではこれが断トツかと…


「権力と栄光」改め「事件の核心」


「事件の核心」を読み始めた。かなり前にグリーンのこの作品読んで、それも単に字面を追いかけて終わって何も覚えていない…という情けない状況だとずっと思っていたのだが…それでもう一度読み直そうと思っていた、ところが…

前に読んだのは「権力と栄光」だったもよう。作品名すら覚えていないのか… (ちなみに「権力と栄光」の方は、メキシコで逃げ回っているカトリック聖職者の話…だったような)。

で、こっち「事件の核心」は…アフリカか何かの国のヨーロッパ人社会の話。植民地時代の官庁街を病院と見立てるところなど印象的…やっと少しだけでもグリーンの小説を味わえるようになった…のかな? 
(2011 05/11) 

乾いた種子が歩く

「事件の核心」序盤、いろいろな文章からいろいろ考えてみる。

  長い露台のついた官房はいつも彼に病院を思わせた。十五年の間彼は病人が次々とそこに到着するのを見て来た。週期的に十八カ月目になると、ある病人は、黄色い神経過敏の病人になって故国へ送り返され、他のものが代りにやってくる。ー植民地長官、農務長官、財務長官、公共事業の主務官等々。
(p15)

 ・・・裁判所と警察の建物が建っていた。それは弱い人間の大言壮語を思わせるような大きな石の建物であった。そのどっしりとした構造のなかで、人間は乾いた種子のように廊下をかたかたと歩きまわっていた。
(p15)

  ・・・なぜおれはここがこんなに好きなんだろうと彼は考えた。それは、ここでは人間性を変装するひまがないからなんだろうか?
(p48)


最初の文の「週期的」の漢字は訳文まま。訳者は伊藤整氏なので、意図的なんだろうか?ここら辺はセリーヌと比べたくもなる。コンラッドとも?「黄色い」というところは、西洋人の価値判断に深く浸透している色の感じ方、或いは「人種」的見方にも通じるのだろうか。ここでグリーンがこのような書き方をしているのはそれを読者に喚起させたいからなのだろうが。

二番目のは「種子」という表現が気に入って引用してみた。これもいろんな思想なんかに移し替えられそう。例えば構造主義とかいろいろ。人間(特に侵出してきた西洋人)のつまんなさを皮肉っているように感じられるが、そういう「病人」に奇妙な愛着も感じられる。もちろんグリーン自体の体験でもあるのだが。

最後はグリーンの最大の読みどころである「人間の愛」対「神の愛」のテーマの序奏といったところか。「人間性を変装するひま」とは宗教(キリスト教)のこと、それを指している、少なくとも西洋で表面的理解されているキリスト教を。 人間は自分の愛や憐れみを貫けば、道徳や宗教規律に反してしまう。そこまで至った時には全てを包み込む「神の愛」があるはずだし、あるべきだ、というのがグリーンの思想であると巻末で伊藤氏が述べていた。

キリスト教のことは他人の信仰に関わるし、それについて全く自分は知らないけど、グリーンやウォーはイギリス国教会からカトリックに改宗した(この当時はイギリス知識人?の間で一種の「ブーム」であったらしい)。でも、グリーンは死ぬまで「共産党」支持者でもある、という面もある(これ(死ぬまでというところ)は珍しい。知識人?はソ連の共産党の実情を見て、共産党から離脱するなどする人が多かった)。それは何故か? (情報はウィキペデイアから) とにかく、グリーン、なかなかいけますね(謎)。 
(2011 05/12) 

何かに近づく… 


とりあえず、「事件の核心」90ページ辺りまで読み進んだけど…何から書けばいいかな… 

とりあえずスコウビィは妻ルイズの為に何かをしようとしているのだが、それが何か、ほんとに南アフリカへ彼女を旅出させたい、というだけなのか。本人だけでなく読者もつかみとれない。でも一歩ずつ「何か」に近づいているような感じはひしひしとある。それが本人の意志かどうかはまたわからないが。それが「核心」というところだろうか? あとは76ページの文章に気になる表現があったり、夫妻の会話のところで嵐の真ん中・台風の眼にいるという表現が使われている辺りとか。 平安は? 
(2011 05/13) 

 俺は熱病にでもかかったかな? 自分がなんだか新しい生命の戸口に立っているかのように思われたのは、多分熱が高まったためだったろうか。結婚の申し込みをするとか最初の罪悪を犯す前にはひとはこんな風に感ずるのだ
(p76)


先述したp76の文章がこれ。人が原罪をしょいこむのはある意味必然、というかそういう存在である、という認識がここにあるような気がする。「神の愛」とは、それに対するものではなく、包み込むものだ、という認識も。 
で、「事件の核心」という標題は、原題では「ザ・ハート・オブ・マター」で、「ものの核心」、「ものの中心」くらいの意味か。それを意訳したのは伊藤氏(?)
なんだかこれから新聞なんかで載るような「事件」が展開して、それを意識したような意訳タイトルかもしれないけど、今のところ自分の中では「ものの核心」とかの方がよいような気もする、なあ。 

グリーンとトカルチュクの部屋


今日は第1巻第2部の終わりまで(結構、章立て細かい、この小説) 気になったのは、ハリスとの「油虫取りゲーム」で熱くなったあと、自室に戻ったウィルソンが受けた印象。

  だが彼が自分の寝台の傍らに立って、自分の周りに、ハリスの部屋とそっくりそのままのものー水盤、テーブル、灰色の蚊帳、壁に吸いついている油虫までもーを見たとき、怒りが身体から抜け落ち、孤独感がその代りにやって来た。
(p107)


「自分の周りに」という部屋の表現が、部屋は自分の頭の投影と表現した「昼の家、夜の家」のトカルチュクを思い出させた。人間は自分の脳内部を部屋という内的環境に反映させ、造りあげて行く・・・と、なるのかな。
でも、トカルチュクの幻想より、こちらのグリーンの殺風景な部屋のコピーの方が、日常的に自分が感じているような気がする。部屋がコピーなら、人間もコピーなのではないかと。この辺り、男性と女性の差などもあるのか、ないのか。 

この後で、もうウィルソンとスコウビィ夫人ルイズが「唇を重ねた」(事後報告)などとあり・・・展開、早いですね。この小説。 ちなみにそこでの表現。

 ただ湿った紙に重要な手紙を書こうとして、文字がぼやけるのを見出した人の侘しさだけを感じた。
(p114)


わかりますか? 自分にはわかりません(笑)。
さて、この副主人公的、狂言回し的登場人物ウィルソンはどうやら何らかのスパイらしい(グリーン自身の投影?)。それにちょっと前に出て来たランク神父というカトリック神父も加わり、グリーンの世界がいっちょあがり的な感じ、か。
(2011 05/14) 

自殺考


今日は第3部。いよいよ物語の筋が動き始める。
前回読んだところの最後は別の地域で何らかの問題が発生し、その対処にスコウビィが出かけたシーンでした。で今回はその対処。警察分署長であった若者の自殺。原因は(いちおう)現地商人への借金が溜まった、ということ。なんだかほんとは原因別なんじゃない?って思うけど、やはり主要な要因であることは確かであろう。

そして、スコウビィは熱病に悩まされながら、夢の中で自分が自殺するようなイメージを得る。しかし、彼は作者グリーン同様カトリックなので、自殺はできない…ここいら辺の感情はやはり掴めないのですが、グリーンの文章と相まって、カトリックの人達の差し迫った心を体感できるような気がします。例えば134ページの辺りなど。

結局、その自殺した青年の借金は、現地商人(といってもシリア人)ユーゼフが燃やしてしまう。結果、青年の死は無駄だった…ということになるのですが、恩寵とか関係あるのだろうか、彼はカトリックではないのですね。 

この後、スコウビィの妻ルイズは南アフリカに旅立つ(旅費は?)…という筋の展開があり、いよいよといった感じ。 余談だが、地方に行く場面で渡し船が出てくるが、冥土の河にも例えられているこの場面で、渡し船を曳く男たちのことを「第三の男」と表現してたりする。あの世でもこの世でもない第三の、ということでしょうが、ひょっとしてあのグリーン原作の映画にもそういう意味合いあったのかな。残念ながら自分はチターしか(以下、略)… 

 自殺は永久に彼のしてならぬものだったー彼は自らを永久に地獄に落すことは出来ないのだったーどんな原因もそれを正当化することはできないのであった。
(p134)


(2011 05/17) 

ものの核心と行き違いの電報


第二巻に入ってようやく?「ものの核心」という言葉(元々これが原題)が出てきた。で、どういう場面なのかというと、「死」の場面。

スコウビィ夫妻には子供があって、その子供が病死した際には、彼はアフリカに既にいて死に際に間に合わなかった。その、何て言うかこの言葉でいいのか、「償い」を今アフリカの一少年の死に直に接することで受けている…と、そんな場面。
でも、彼は少年の死に他の人に言われるまで気づかなかった(もしくは気づくまい、としていた)。ものの核心とは死に直面するということか… 

ちなみに、今「ものの核心」という言葉から、プラトンのイデア論思い出した。あれもやっぱり「死=あの世」と関係深い。時間をかけて読むことと、その本を深く読むことは違う…

 ロルト夫人との対話を通して 彼は見知らぬひとの生活に感ずる熱烈な興味、青年が恋愛と間違えるあの興味をもって、耳を傾けた。
(p203)


なるほどね。みんな勘違いから入るわけだ…
「事件の核心」中盤でもう一人の主要登場人物、ロルト夫人が出てくる。新婚旅行で客船に乗ったところ、難破したみたいで夫を亡くし自身も死ぬ寸前までいった。前回書いた一少年の病室に同居してもいた。
今はこの植民地にいて仮住まい…さぞかし悲嘆にくれているのかといえばそうではない。 夫を亡くしてある意味安心している、という夫人に対し、スコウビィはそれはもっともなことだ、と応じる。そしてこれも前の日記に書いた彼自身の子供の死の話をする。

子供が死んだ時、この植民地にいて母子と離れていたスコウビィの元に2通の電報が届く。何らかの通信上の手違いにより、先に送ったものが後に届く。先に「ナクナッタ」と届き、後で「マダキボウアリ」と届く。2通目が届いた時、彼は何故か不安になったという。
生きている知己への愛情と、死んだ知己…死んだ人には義務が生じないから安心してよいのだ、と彼スコウビィは語る。 しかし、彼の妻ルイズは南アフリカに行っただけであり、死んだわけではない・・・というところからこの小説の次の展開が始まるわけだが。 
(2011 05/19) 

自殺考(キリスト編)


第2巻の真ん中辺り。合理的な読者が見ると何で?という進行も、だから人間的なのだ、という気も。今日のところは派手な展開はないものの、事態は着実に進行中といったところだろうか?

  彼は百人隊長ではなくって、百人もの百人隊長の命令を果たさねばならぬ一兵卒に過ぎなかった。 
(p278)


百人隊長(自分の様々な欲望に優先順位をつけ命令する)ではなくて、一兵卒(自分の欲望、強迫観念などにその場しのぎで応答する)か。となると、「主体」概念の解体をここでは語ろうとしているのか。

  キリストは虐殺されたのではない。神を虐殺することは出来ないのだから。キリストは自殺したのだ。キリストはあのペンバートンが絵の掛け釘で首を吊ったのと同様に、確実に十字架上で自ら首をくくったのである。 
(p284)


結局、ルイズは戻ってくる、と言う。どちらも幸福にさせねば、という挟まれたスコウビィの後の運命を先取りしたような、この文章。なんか言っていることのイメージだけ取り出すと、グノーシス派の描く十字架上の笑うイエスを思い出す。 
(2011 05/23) 

「事件」の核心


「事件の核心」、いよいよ「事件」進行中。この辺の進み具合はさすが元スパイの作家だけある。

 何かが「事件」になると、それはもはや人間とは関係がないように思われた 
(p289)


前に「核心」の話をしたが、今回は「事件」。ただ、考えてみれば、原題は「ものの核心」なので、このp289の文が元々はどうなのか?ひょっとしたら伊藤整氏の意訳かな、とも考えられなくもない。
まあ、それはとりあえず抜きにして、「事件」とはいわゆる「新聞に載る事件」みたいなことだけでなく、個人的感情と切り離された出来事一般を指す。ほんとは、人間社会の中にはそんな「事件」など存在しないはずなのに、世間ではそんな「事件」について話す。もし、そういう考えがグリーンの中にあったのなら、「ものの核心」というタイトルも納得? 
この話題にこだわりし過ぎましたが、p305のポルトガル船長の言葉には要チェック。この作品の中心的な言葉かしらん。
(2011 05/24) 

脇登場人物ロビンソン


「事件の核心」結末への道…といったような箇所。p351の文にあったような自分の立場が相手(この場合はボーイのアリ)をどう見るかにつながるとか、カトリック的クライマックスであるスコウビィがミサに出るところとか、読みどころはたくさんあるけれど、今回は標題にあるように、脇登場人物といえるロビンソンに意表を突かれたことが一番かな?

この人物、かなり前の方で銀行支配人?として登場してましたが、その時はやたらに健康に気を使う不安げな(まあ、よくいると言えばよくいる)人物として描かれていました。ここを読んでいた時はこの人物にそれほど注意を払っていなかった、というのが実情。
だが、しかし、この結末近く、スコウビィがかなり追い詰められてきた段階でまたチラリと現した(場所は両方ともロビンソンの銀行支配人?室)ロビンソンは、なんだか以前の彼とは違い平穏・落ち着きそのもの。その場はそれで終わったが、後でスコウビィが上司に聞いたところによると、ロビンソンは「あと2年は生きられない」と宣告されたらしい。キュブラー・ロスの「死ぬ瞬間」での過程の最終段階に既に到達しているようなロビンソン。

スコウビィがいろいろやっている小説筋の裏?では、ロビンソンの死の受容の物語があった。それは当然、スコウビィと表裏を為すもの… どうだろう?この小説を別の人物で語り直すとしたら、前に挙げたボーイのアリ(この名前からしてムスリム?)でも面白そうだけど、ロビンソンから見るというのもよさげ。かなり技量がいると思われるが…
(2011 05/26) 

「事件の核心」

 愛は理解したいという欲望であったが、やがてその理解ということに何度も失敗する結果、その欲望はなくなり、愛も死滅するものらしい。でなければ、この痛ましいいつくしみや、忠実さや、憐愍というものに変わるのだ
(p391)


なんとか5月中に「事件の核心」読み終わった。
ボーイのアリすら自分の為に殺された、と(少なくとも彼自身は)思ったスコウビィは病死に見せかけた自殺を図る。上の文は恐らくカトリックでもない人でも実感できるものであると思う。 果たして、スコウビィは死後救われたのか?それはわからないが、前挙げたポルトガル船長の言葉(p305)や、妻ルイズが彼の自殺直前に読んだリルケの詩(P408)を見ると、作者グリーンはスコウビィを救われるべきだと考えているようだ。死後の救いというのが、自分にはよくわからない… 

グリーンとウォーってよく並列で論じられるけど、なんか違う感じがする…自分にとっては。モーリャックとの近接性はわかるけど。 
(2011 05/30)
(p305とp408、引用してなかった…余裕あれば…)

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