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「権力と栄光」 グレアム・グリーン

斎藤数衛 訳  ハヤカワepi文庫  早川書房


前に新潮文庫版(本多顕彰訳の復刻版)で読んだはずなのだが、内容覚えてない(なんかぐるぐる逃げ回っていたという印象しかない)し、第一「事件の核心」と混同していたし。
(2022 11/01)

本来は「神の力と光」

遠藤周作「沈黙」とよく比較されるらしいけれど、今まで気づかなかった…けれど、少なくとも遠藤周作はかなり意識していたらしい…
(補足:グリーンも「沈黙」発表後に、遠藤周作に手紙を出したそうな。あと「権力と栄光」というタイトルだけど、「神の力と光」という意味なのだと訳者のメモには書いてある。「権力」は一般的な意味ではない…これもタイトル再考の時期かも)
というわけで?読んで(再読)みよう。
第1部、第1章「港」

 人はこんなふうに、何でも一日のばしにして生きていくものだ。
(p20)

 大体今のテンチ氏にとって、この世の中とは何だったか? それは、いうまでもなく、暑さのこと、忘れること、明日までのばすこと、できたら即金ということ-それがすべてだった。
(p20)


テンチ氏という人物自体は、冒頭には出てくるが、いわゆる主人公ではないらしい…まだ現れていないその人物と対比されうるテンチ氏は…要するに、普通の人々(われわれ)の代表、なのか。
(2023 06/27)

蟻の作家、グリーン

ここで、大雑把な本筋紹介。第二次世界大戦直前のメキシコでは、石油産業国有化のため英米と対立していた。社会主義寄りの政府は、宗教関連全てを根絶やしにしようとする。その政策が一番徹底していたのがこのタバスコ州。

 蟻の細長い縦隊が、あの男が床の上に少したらしたブランデーのところまで、部屋を横切って行進してきた。蟻はその中をぐるぐるまわると、やがて整然と列をくんで、反対側の壁へと行進していって、姿をけした。
(p39)


「事件の核心」でも冒頭に蟻か何かの表現があったような…
というわけで、昨夜の寝がけに第1章読み終わる。テンチ氏のところに現れた「よそ者」というのが主人公たるウィスキー坊主らしい…
ここでこっそり謎解き、解説見てみると、第1章と最終章でテンチ氏が主人公であるウィスキー坊主と会う…という構成らしい。第1章では、このよそ者は船でこの地(タバスコ州)を去ろうとしていたが、病人の手当のためそれを断念する、という始終をテンチ氏が見ている。なーるほど…

第2章「州都」


この章は、もう一人の視点人物の警部が出てくる。この人物がウィスキー坊主を追い詰めていく役割。

 この国に、愛と慈悲をたれ給う神を信ずる者がいると思うと、彼はすごく腹がたった。神を直接経験したといわれる神秘主義者たちもいた。彼もまた神秘主義者といってよかった。そして、今まで彼が経験してきたことは虚無だった-冷却していく世界の存在と、何の目的もなく動物から進化してきた人間の存在を、彼は完全に確信していた。
(p51)

 この世界は、宇宙で霧につつまれながら、まるで燃えている見捨てられた船のように、重々しく回転しているのだろう。地球全体が自らの罪で一面におおわれていたのだ。
(p59-60)


この2箇所では、フォークナー「サンクチュアリ」の牧師の部屋の場面を思い出させる。登場人物の視点にいながら、相当視点を引いて、宇宙全体を見渡す視野を見せる。
前のp51の文が警部の視点、後のp59-60の文がホセという高齢で太って妻帯している司祭の視点。警部は(実際にメキシコでグリーンが会った権力者とは全く異なる)自分のいる場所が世界から見離されたものと感じていて、この地から聖職者を根絶しようと働いている。今のところ、自分の感触では、ウィスキー坊主よりも警部の方に関心が向くような気がしている。
一方、ホセという司祭。妻帯し堕落したものとされある意味見せしめのように生かされている。警部を中心に置くと、一方の極にウィスキー坊主がいるとすれば、その反対の極にホセがいる、という位置関係にあるようだ。あとは、二人の主要視点人物はもちろん他の人物もほとんど名前が表に出てこないのだけど、第1章のテンチ氏やこの章のホセは名前が明らかになっている。この違いは何か。
(2023 06/28)

第3章「河」、第4章「傍観者たち」


フェローズ大尉という人物が新たに出てきて家に帰る。そこには病気の妻と大人びた娘コラールがいる。父親が娘に聞くと警部がある男を探しにここに来ているという。その警部が去ったあと、また娘に聞くとその男、ウィスキー坊主も納屋にいるという…なんだ、序盤から主要登場人物が一箇所に集まるのか? そこから出て別の村で、どうやら神父を心待ちにしていたようで、告解をしてもらおうと頼む。このウィスキー坊主は、特に強い信念で逃げ回っているわけではないが、自主的か否かは別として(実はそこに大きな差はないのではなかろうか)告解を次々に行う。

次の章では、今まで出てきた様々な人々の「途中経過」。ここでは、上のウィスキー坊主と比較するためにホセ神父のところを引いてみる。

 ホセ神父は、危険をおかし、墓に祈りを唱えてやりたいという大きな誘惑におそわれた。彼は、自分の義務を果たすことにはげしい魅力を感じ、大きく空中に十字を切った。すると恐怖が、薬でも効いてきたように、ぶりかえしてきた。軽蔑と安全が下の方の波止場で彼を待っていた。彼は絶望してひざまずき、彼らに哀願した。「わしにかまわんでくれ」と、彼はいった。
(p99)


二人の神父はそこまで違いがあるわけではない。そう考えてみると、ではなぜウィスキー坊主は逃げ続けなければならないのか。冒頭第1章でどうして船に乗ってこの州から離れなかったのだろうか。
あとは、別の家族で宗教の伝記のようなものを母親が読み聞かせしている場面。その子供たちのうち一人だけ覚めている男の子ルイスが、広場で遊んでいる時に警部と知り合って拳銃を見せてもらう。警部は「この子たちのために今の世界を破壊するのだ」というような気持ちになっているが、一方の子供はどうか。拳銃を絡めて何かこの子が引き起こしそうな予感。
そんな予感をさせつつ、第1部終了。
(2023 06/29)

第2部開始。第1章。


(第2部に入ってから章題がなくなった)
ウィスキー坊主の故郷?の村。神父は騾馬に乗りたどり着く。どうやらここにこの神父と交際した女マリアとその娘がいるらしい。翌朝早く、神父はミサを行うが直後、あの警部が警官引き連れてやってくる…という序盤から盛りだくさんに迫ってくる内容。読んでいて思うが、前読んだ時に筋追うのを苦労したのは何故なのだろうか。と疑問に思うくらい展開に引き込まれる。

 彼が夕陽の中にひざまずいて、褐色の水溜りで顔を洗うと、水面が、光沢のある陶器のように、まるい、いがぐりの、くぼんだ顔かたちをうつしだした。その顔かたちはまったく思いがけなかったので、彼はそれに向かってにやっとした-正体を見破られた人の、あのはずかしそうな、避けるような、当てにならない微笑だった。
(p122)


褐色の水溜りを陶器と表現するのも楽しいが、ここでいう正体とは何だろうか。彼本人にしかわからない何かだろうけれど。
ちょっと細かいところ。次のp123の最初に「長い年月のはてに初めて、世間の男並みに自分の故郷にたどりつこうとしていた」とあるけれど、p126には「この前帰郷してから六年がたっていた」とある…どっちだろう?

 しあわせな気持ちは、息をつくひまもないうちに再び消え失せた。彼は、子供を死産し-それを急いで埋葬し、忘れ、またはじめる-女のようだった。多分、次に生まれる子は生きのびるだろう。
(p130)


「多分…」の文は、本来は「またはじめる」にかかる修飾なのだろうけれど、ここでは外に出されてそこで段落が終わっている。こういう技法の専門用語ありそうだけれど。
それは別として、読み返しても文の本意が難しくて、まだ自分にははっきりしていない箇所。

ミサのあと、警部が男の村人を一人ずつ呼んで、追っている神父かどうか見極めている。神父は見破られず、人質(一つの村に一人人質をとる)になろうか、と申し出るが、それも断られる。そしてそれが終わったあと、マリアと話をするが、ここで神父はマリアに対して、先程の警部の前に立った時と同じ気持ちを覚える…これはなんらかの神の前での審判とかのイメージなのだろうか。

 空の高いところで、はげわしが一羽見下ろしていた。そんな高さから眺めていれば、下界の彼らは、いつなんどき戦いをはじめるかわからない食肉動物の二つの群れのように見えるにちがいない。大空の小さな黒い一点、そのはげわしは腐った死体ができあがるのを待っていた。死は苦しみの終わりではなかった-そこにやすらぎのあることを信ずるのは、ある種の異端だった。
(p154)


警部によって集められた村人の場面。はげわしは実は物語冒頭から舞っていた。多分最後まで舞っているのではないか。
(このはげわし視点は屋上よりはるか高い視点といえる。これがグリーン自身の視点なのかはわからないが、それに近い味はグリーンの小説読むとたまに感じる)
「異端」と聞くとぎくりとするが、自殺はもとより、死によって心身の苦痛や恐れからの解放を願う、ということ自体もカトリックにとっては「異端」なのか。「事件の核心」は、この「権力と栄光」の後に書かれたが、主題の胚胎は既にされていたのだろう。
(2023 07/02)

坊主は故郷にいつ帰ったのか…コンセプシオン問題?どうやら、昨日読んでたのはコンセプシオン(彼の教区)だったらしい。p123の文は実際の故郷、p126の文はこのコンセプシオンを指す、らしい…
(2023 07/03)

混血児登場

 噴油は四十八時間も続き、黒い噴水が何の役にもたたない沼沢地の土壌から噴出して、流れ去り-一時間五万ガロンずつが-無駄になった。それは人間の宗教心に似て、突然爆発し、黒い煙幕と不純物の柱となって天に吹きあげ、そして、流れて無駄になった。
(p193)


一度に溢れ出し、ずっと継続できない、人間の宗教心。大量に出てしまえば大半が無駄になってしまう。
(2023 07/04)

第2部第1章後半は、「混血児」と呼ばれる男とともにカルメンという街へ向かう。

 奇妙な静けさが、森をおおうように降りてきただけでなく、地面からも霧の中に湧き出てきた。今はすべてが静まりかえっていた。それは、いずれの側も発砲を停止した休戦に似ていた。世界全体がこれまで聞いたこともないもの-平和に耳をかたむけているのだとも思えた。
(p200)


昼と夜との停戦。混血児は神父を告発して懸賞金を狙っていて、神父はそれに気づいている。そういう間柄にも関わらず、この霧の中の旅ではひとときの停戦が守られている、そんな雰囲気。続く文が「声がいった」とあるのはその静けさのため。神父あるいはグリーンはここで、ヨーロッパの戦争での「ノー・マンズランド」(敵対する前線のどちらにも属さない中間地域)での「出会い」を引き合いに出す。ただ、この本刊行時の戦争(第二次世界大戦)ではそんな牧歌的な光景は見られたのだろうか。作者はそれをも見据えて?
続いて第2章は、「かつらぎ織り(ドリル・スーツ)の布をまとった男」が、乞食に連れられて、知事のいとこや警察署長とともに密輸酒を飲む、という場面で始まる。この「かつらぎ織りの布をまとった男」とは誰か。神父自身なのか。
(神父と司祭は違うような気もするが、この訳ではどちらも使われている。この辺全く事情がわからず)
(2023 07/05)

坊主、監獄へ

第2章から第3章へ。第2章で、どうやら「かつらぎ織りの布をまとった男」だった神父が、そこで残ったブランデーを持っているのが見つかって捕まり、第3章で狭い監獄部屋に入れられる。そこには多くの人が捕まっていた。この状況で、しかも足に痺れを感じながら、さまざまな話の中で神父は自分が神父であることを明かす。ここ読んでいてかなり意外だったところ。

 雨は、まるで棺おけのふたに釘をうちこむかのように、ある種の計ったようなはげしさで垂直にたたきつけてきた。
(p228-229)


今日読んだ最初のところから。これまた凄まじい比喩。

 彼は、あんな罪が存在しなければよかったのに、と自分に向かっていうことはできなかった。なぜなら、その罪は、今ではそんなに重大なもののようには思われなかったし、また、その罪の結晶を愛していたからだった。
(p254)


どうだろう。これは小説の進行にしたがって彼の身に起こった変化なのだろうか。それとも、最初から一貫した彼の奥底にあるものなのだろうか。
(2023 07/06)

 紙と紙との間からもう一つ別の黒い小さな生命がじりじりとしのび出て、素早く隠れようとするのを見ていた。この暑さの中では生命に終わりはなかった。
(p277)


昨晩は監獄でまた警部に会い、罰金の金を警部にもらって出所する。そして、何か襲われて?逃げ出したバナナ農園に辿り着いたところまで。
このバナナ農園は、第1部第3章で出てきたフェローズの農園。上の文章は警部との会話の中での一描写。グリーンに対する自分のイメージの一つがこうした小さな虫の描写の巧みさなのだけれど、ここはこの虫?とずっと逃げ続けているこの神父との対比が効いている。でも、最後の一文合わせると、グリーンはひょっとして、この熱帯におけるキリスト教に限界を感じていたのかも、とも思ったりする。

で、今日はそのバナナ農園から山の方へ州境の方へ行き、移動小屋のようなところで先住民の女に出会う。この女の息子(3歳くらい)は何者か(お尋ねものグリンゴーでないとすればフェローズ?)に撃たれて死ぬ間際。神父は亡くなってしまったこの子供とそして女と一緒に山の上のキリスト教墓地に辿り着く。神父にとっては10年くらいぶりに見る外にある十字架。そして神父は、その後なんと教会のある村に。そして第2部終了。このままでは終わらないだろうが、このまま終わってもいいような…
(2023 07/09)

沈黙と騒音

だが、(もちろん)このままでは終わらない…
第3部第1章はドイツ系のレイア兄妹と村の人々の懺悔やミサ。ちょっと、この場所が州境を越えたのか否かがわからないけれど、とにかく平和な村であることは間違いない。

 沈黙は、騒音と同じように、鼓膜にぶつかって鳴りひびくのだ。
(p333)


神父は、田舎では音が少な過ぎて眠れないという町の人々のことを思い出している。しかし彼にとっては、沈黙は何かを浮かび上がらせてくるもの。ひょっとして、遠藤周作の「沈黙」はここから取られた?
p344に出てくるキリストがマリンバの曲をバックに闘技場で踊る夢、これは何なのだろうか。

いよいよラス・カサスへ行こうとすると、そこには例の混血児が…これまた例のグリンゴーが警察に撃たれて死ぬ間際らしい(バナナ農園で撃たれていた子供はこの時グリンゴーに盾にさせられた)。どう見ても罠だが、神父はそれにのる。きっと先程の夢は「おまえは何かを忘れているのだ」と神父に伝えているものであったのだろう。

 しばらくの間、彼らは一言も口にしないで乗り続け、その間に、太陽は目をくらませるほどの光をはなって昇りはじめ、騾馬の肩は、けわしい岩道にかかって、ひどく緊張した。そして、司祭は再び口笛を吹きはじめた-“わたしは持つ、ばらの花を"-彼の知っている唯一の曲を。
(p356)


罠に落ちていく道行きであるのに関わらず、颯爽とした気持ちがするのはなぜだろう。
(2023 07/10)

坊主と警部の最後の会話


第2章でグリンゴーのいる小屋にたどり着き、「逃げてくれ」という彼に構わず祈る。彼が最期を迎えたあと、小屋の入口に待ち構えていたのは警部だった。
ということで、第3部は警部と神父との会話。この小説中3回目。

 「ある男は女をおかしたいと思うかもしれん。おれたちは、そいつがそうしたいと思ったからといって、それを許していいか? 悩むなんてことは間違っているんだ」
 「それなのに、あんたはしょっちゅう悩んでいる」
(p380-381)

 司祭は手を振った。彼は、人間的なものにそれ以外の何ものをも期待していなかったので、なんの恨みも抱かなかった。
(p388)


上の言葉は、警部の言葉に対して神父の応答。下の言葉は最後に現れた混血児に対して。どちらかというと、悩んでいたのは警部より神父ではないかという印象だったが、こうして見ると逆だったか。
(2023 07/11)

警部と少年との円環

第3部第3章残りと第4部読んで、読み終わり。
この州に一人でも地獄に落ちる人がいるならば、自分もまた地獄に落ちるのだ、という神父。そんな神父と話している警部は「お前と話していると、逃亡させてやるか、カトリックを復活させてやりたくなったりするのだ」とまで言う警部。神父は告解したいと言い、警部は告解師の役割をホセ神父にさせようとするが、ホセ神父は(神父本人は行こうという気を起こしたのだが)行かなかった。ホセ神父的には同棲中の女が断ったと言うかもしれないけれど、ホセ神父一人でも行かなかっただろう、たぶん。
(ホセ神父とウィスキー坊主のじっくり対談も聞いてみたかったけれど)

残りの第4部はエピローグ的な、今まで出てきた人物が神父の処刑について思い浮かべる、という話。フェローズの妻、テンチ氏と警察署長、それに警部が拳銃を見せた少年一家。最後の警部と少年とのすれ違いは、この少年が今度は警部のようになり、そして警部のような人間を追い詰めていくのでは、円環のように反転し続けるのではと思ってしまう。
解説は(上に書いた通り)遠藤周作「沈黙」との対比。「沈黙」は遠藤版ウィスキー坊主たる神父が「踏み絵」を踏むという違いがある。

おまけネタとして、ロンドンのリッツホテルに滞在していた遠藤周作が、途中階から偶然に乗ってきたグリーンと会うという話。その後夜にいろいろ話し合ったという。
(2023 07/12)

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