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「シオンズ・フィクション イスラエルSF傑作選」

竹書房文庫  竹書房

フラヌール書店で購入。
姉妹編の「ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス」も同時購入。
(2023 04/29)

読みかけの棚から
読みかけポイント:まさに読みかけ…


「オレンジ畑の香り」ラヴィ・ティドハー

まえがきと「オレンジ畑の香り」ラヴィ・ティドハーを読んだ。
「オレンジ畑の香り」は、中国系・ユダヤ系・ロシア系の名前をそれぞれ引き継いでいるボリスという男を中心に、その祖父が「自分含め一家の記憶を後世の人間に残す」ことを願い実現した、という未来社会の話。〈会話〉とか〈他者〉とかどんなものなのかわからない技術や概念が放り込まれ、あたふたしているうちに終わる。最後の海岸の情景は今のものだろうか。様々な記憶の情景が浮かんでは消えあたふたするそのこと自体を楽しめばいいのではないか。ただ単にオレンジといえばどうしてもカナファーニーを思い出してしまう。
(2023 04/30)

「スロー族」ガイル・ハエヴェン

(読んだのは昨晩)
成長剤のようなもので人生をスピードアップさせた主流派の人々に対しての、それに追随しなかった人々。彼ら遅い成長の人々をスロー族と呼んで追い込んでいる世界。こういう作品は、自分の見るところ、視点は今の私たちの方に置かれることが多いような気がするのだが、この作品は主流派の研究員が視点人物。彼女が会った「スロー族」の女は、赤ちゃん(研究員の彼女はそれを幼体と呼ぶ)の世話をして、この研究員が触ろうとすると拒否反応を示す。研究員の彼女も限界が来て通報ボタンを押す…という作品。
作者(女性)は、イスラエル社会の子供を巡る価値観や慣習に違和感があるのだろうか。そう考えてみると、視点が研究員側にあるのもまた違う意味を持ちそう(作者自身が感じている旧来イスラエル人への愛憎こもった感情とか…)
コーヒー飲むシーンがあるけれど、ここも何か意味込められていそうだけれどわからず…
(2023 07/05)

「アレキサンドリアを焼く」ケレン・ランズマン

かなり久しぶりにこの本を。次の短編は「アレキサンドリアを焼く」ケレン・ランズマン。山田順子訳。著者は医学博士であり、疫学と公衆衛生の専門家であり、母親でもある。2014年には志願して南スーダンへ行き疫学・公衆衛生を教えたという。
作品は60ページくらいあるので中編といえるか。もっとも次の「完璧な娘」は100ページ越えだが。

さて、物語はシルとロミ(語りはこのロミの視点)という二人が何かの任務に向かうところから始まる。「侵略」とか「エイリアン」とか「(彼ら自身の)バックアップ」とか不気味な言葉が挟みこまれ、ついには「自己消滅開始」と言い出す…彼らは既に「人」ではなく、他の記憶と任務実行能力のみ持たされた何者か、らしい。調査対象は正体不明の球体…と、彼らは自己消滅はせずに、球体の中に取り込まれる。
と、その球体は実はアレキサンドリア図書館だった、という。各時代の書物他あらゆる資料をワープしながら集めている…というか、各時代へゲートが繋がっている、らしい。読者である自分は(というかたぶん作者ランズマン自身も)、この中で見られる資料がどのようなものか気になってくるが、一方シルとロミの二人?は図書館内にいる人間達が本物の人間であることに驚く。どうやら双方の話を聞くと、シルとロミの時代にエイリアンが次から次へと襲ってきたのは、この球体アレキサンドリア図書館のワープ航法の情報が外部に伝わったためということらしい…ので、最終的に、図書館内の人間が地上に出たあと、シルとロミ及びそのバックアップが球体図書館を爆破することに。

という話。えと、球体図書館がなんだか離散したユダヤ人が集まってできた人工物のイスラエルそのものにも見えてしまう…という指摘はとりあえずしないでおこう。知とか技術とかはあるだけでそれを巡る争いが必然的に起きてしまう、とか。それでも図書館は必要なのか(楽しいことは間違いない)とか。
いろいろ(全く別の感想もありそうだけど)。
(2024 02/14)

「完璧な娘」ガイ・ハソン


作家かつ脚本家、映画制作者。脚本はヘブライ語で書くが、散文は英語で書き、この作品もそう。だから、英語で書かれた作品をヘブライ語で訳す時にいろいろ問題起こるらしい。

この作品は何かのテレパシーを持つ(テレパス)学生が集まる学校を舞台に、死後7日前(初七日以前)の死体から、その生前の意識を巡っていく、という話。視点人物は学生のアレグザンドラ・ワトスン。彼女に辿られる死体の方はステファニー・レナルズ。死体の一箇所に触れながら縦横無尽に(と少なくとも読者には見える)ステファニーの意識を辿るアレグザンドラの姿は、ヴァージニア・ウルフかウィリアム・フォークナー辺りの作家が人物の深層に分け入って書いていく姿に重なる。御法度なのは質問すること。ステファニーに問いかけると、アレグザンドラは自身の場に戻ってしまう。

 われわれの精神とはちがい、死者の精神は開いている本です。隅々まで調べる方法さえ学べばいい。
(p153)


これは教授の一人の言葉。

 このあいだずっと、ステファニーのこわばった顔は、ぴくりともしない。死んでいるけれど、あいかわらず完璧だ。いっぽうそれ以外の世界は、そのまわりで波立っている。見ていると、その顔がわずかに揺れる。だれかが触れると、あらゆる方向に一ミリだけ揺れるのだ。誰もが異なる場所に触れる。
(p155)


今日は作品全体の1/3まで。全体は百ページ以上ある中編。
(2024 03/07)

残り2/3昨夜読み切り。
…自分は、だいたいどちらかというと「ゆっくり読んだ」方に好みが多いわけだが、それは没入感より作品より外側の構成や作者の介入に重きを置いているからだと思われる。そしてSFというのは、少なくとも自分にとっては、科学的小説というよりもなんらかの外側の機構が作品を締め付けている、という指標のようなものだと思う。
というわけで…この「完璧な娘」という作品、あまりSFらしさが自分にはわからなかった(「科学的」という意味からも)。もちろん、だからこの作品が優れていないとかではなく、技巧的にも読者を持っていく力としても良い作品だと思う。

さて、こういう(登場人物の)若さ故に真実をひたすらに追いかけていく、追い込んでいく小説の読後感、似たような感じの作品として、中国歴史SF短編集「移動迷宮」のシアジア「永夏の夢」を思いつく。ただあちらがファンタジー要素で中和(ファンタジーの衣でふわふわに揚げた天ぷら)している感あるのに対し、こちらはもっと読後感はキリキリしている。あと思いついたのがアトウッド「またの名をグレイス」のグレイスとメアリーの関係。自殺したメアリーの亡霊が乗り移ったグレイスが殺人を犯した、という睡眠療法から出た説を仮に正しいとすれば、メアリーの亡霊を感じていくグレイスの気づきは、「完璧な娘」のステファニーとアレグザンドラの姿と重なる。もし、グレイスが現代(なのか?)に来てこの学校の前に立てば、アレグザンドラのようになるかも。
とにかく、こういう他人の中に自分を没入させるというのは、やはりある程度若くないとできないことだろう。年齢重ねていくうちに、自分の中にいろいろ堆積して、こういった素質がある人でも全てを他人に没入しないようになる。そういった小説がウルフの「オーランドー」(かなり前に読んだから自信なし)や「灯台へ」の画家とかになるのかな。

で、「完璧な娘」そのものは、アレグザンドラがステファニーの全てを感じて追いかけていく…ステファニーの家に行って両親と話したり、恋人のマイケルと会ったり…しかし完全にステファニーと同化することはできず、再び学校に入っていく、ところで終わる。アレグザンドラが寝落ち?するのが2箇所(最初の日の夜のモルグと、ステファニーの部屋のベッド)あるのだが、これは彼女の中の安全弁が開いた結果なのだろう。それから、こういうテレパス小説(とでもいうのか?)自分が知らないだけで分野として結構ありそうな気が(特に日本には)。

 自分のなかに存在しなかったら、感じることはできない。なにもかもがあなたの精神を通るのだし、あらゆる感情はじつはあなたのもの。
(p195)

 あなたに触れない。心を読まない。あなたのことを詮索しない。ご馳走するだけ
(p196)


両方とも、この作品でアレグザンドラを導くパークス教授(女性)の言葉。上の言葉は(この作品全体とも言えなくもないが)一種の読書論のようにも思える。本を読んでいるようで、実は自分を読んでいる。下の文は(触れるというのはテレパスにとって非常に重要な行為、だから普段テレパスは手袋をしているようだ)、「ご馳走」という行為の本質をついているようにも思える。
(2024 03/09)

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