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「移動迷宮 中国史SF短篇集」

大恵和実 編  上原かおり・大恵和実・大久保洋子・立原透耶・林久之 訳  中央公論新社


フェイダオ「孔子、泰山に登る」
マーポーヨン「南方に嘉蘇あり」
チョンジンボー「陥落の前に」
フェイダオ「移動迷宮」
リァンチンサン「広寒生のあるいは短き一生」
バオシュー「時の祝福」
ハンソン「一九三八年上海の記憶」
シアジア「永夏の夢」
編者解説 中国史SF迷宮案内 大恵和実


「南方に嘉蘇あり」

後漢の時代に嘉蘇(コーヒー)が中国に伝わった、という想定の歴史改変SF。気になったのは、そこで台湾を呉から西晋の時代に珈琲豆の産地にしたという記述。現代政治的意味はあるのかないのか…
(2023 05/21)

以前、「中国・アメリカ謎SF」で読んだ「焼肉プラネット」の梁清散は、こちらの「移動迷宮 中国史SF短篇集」では「広寒生のあるいは短き一生」が取り上げられている。解説では「歴史考証SF」の再開拓者の一人と評されている。
(2023 05/28)

「永夏の夢」


今日午前、この本から3編読んだ。
時間を越えてジャンプできる「旅行者」と呼ばれる人達と、そこに止まり地球滅亡まで生き延びている「永生者」と呼ばれる人達の敵視、それを越えた主人公たちの愛という話。「時空を越えた永遠の愛」みたいなキャッチフレーズ作れそうな話ではあるけれど、生物種が生き延びるために異種のものを取り入れる、という主題を扱っているようにも思える。また、こういう2タイプの分類は中国文化に昔からよくあるのだろうか。
「旅行者」はこんな感じ。

 旅行者の生命力は実際には弱々しく、時には自分が、短い夏の季節を生き延びることが明らかにできない、それでもある種の未知の本能につき動かされて飛び跳ね続ける、草の先っぽの飛蝗のようにも感じられるほどだった。
(p257)


一方「永生者」は

 永生者の大多数は寂しく、冗長で荒れ果てた歳月において、彼ひとり黙々と考えるだけである。豊富すぎて雑然とした記憶の中、あらゆる問いに対する答えを探している。彼は彼女のように軽やかに未来を覗き見たり予知したりはできない。ひとりで待つ。待つということはこの世界においてもっとも静かなる苦痛だった。
(p260)


どうだろうか。世間一般のイメージだと「旅行者」が女性で「永生者」が男性なのではないか(その組み合わせもある)。ただここで「旅行者」を女性、「永生者」を男性にしたのは作者が女性であることと関連があるのだろう。

「広寒生のあるいは短き一生」


前も書いたように「中国・アメリカ謎SF」の「焼肉プラネット」の作者。あっちも楽しかったが、この人の本業?は清朝末期のSF研究とその時代を舞台にしたSF創作。
この作品は「登月球広寒生遊記」という新聞SF小説を見つけてしまって彼を追っていく話。たぶん作者の舞台裏話でもあり、そこで図書館のマイクロフィルムを管理する職員や利用する院生とのほのかな交流の話でもあり、1900年代最初の10年の中国史を概観する試みでもある。
しかしこの広寒生なる人物、確かに月に関する知識など教養はありそうだが、それを振り翳して専門家や一般市民を声高に批難するだけの、そこまで追い求める必要性もない人物に思える。だけどこの作品読んでいくと、作者とともに読者も広寒生が気になってしまうから不思議。

 ここで終わりにすべきだ。多分、私のイメージするあの広寒生も、史実の広寒生とは別物なのだ。人情と世故に疎いがために、時代を越えた科学的素養を持ちながらうまく表すことのできなかった広寒生であってほしいと私が願っているだけなのだ。
(p167)

「時の祝福」

魯迅の「祝福」とウェルズの「タイムマシン」を掛け合わせた作品。作品冒頭と末尾は全く魯迅の「祝福」そのままらしい。
魯迅の「祝福」は旧暦年越しの行事で、そこで不遇の死を遂げたシャオリンサオという女性が出てくる。
「時の祝福」の方は、この女性シャオリンサオを救おうとし、てロンドンに留学していた友人がウェルズの家から盗んできたというタイムマシンで悪戦苦闘するが、成功しても別の事態が出てきて…の繰り返しの話。最後には、この友人は過去の改変を諦め、百年後の未来「2020」にマシンをセットして行ってしまう。最後の文章は先に述べた通り魯迅の「祝福」に戻るのだが、これがすっぽり収まるところも読みどころ。
あとは日本留学中の魯迅がヴェルヌの「月世界旅行」を訳していたというのも楽しい発見。

自分の一番の好みは「広寒生」かな。この作家、また見つけたら読んでみたい。「時のきざはし-現代中華SF傑作選」新紀元社(2020)に「済南の大凧」という作品があるらしい。

「移動迷宮」

午後は標題作でもあるが、一番短い(10ページほど)この作品。
18世紀後半、絶頂期にあった清朝の乾隆帝の時代。この頃はまだ不平等条約?で不利な立場にあったイギリスの使節が、清朝が万里の長城の石を使って作った迷宮を彷徨うという話。迷宮とは何かを考えると深そうだが、まだ思いつかない…
(2023 06/03)

「孔子、泰山に登る」


「移動迷宮」と同じ作者。この短篇集のうち、この作品のみ原題と邦題が異なる(原題は杜甫の詩から取られた)。飛行機や気球が出てきたりするところはわかりやすいけれど、他にも人物や事柄なども歴史改変されている。
年老いた孔子は周りの反対を押し切って泰山に登ろうとする。子路と墨子を連れ気球に乗って山の小屋へ。そこからは子路を雪崩で失うなどして漸く山頂に着く。がそこで別世界へ。そこは八千年後の世界で、あらゆる可能性の歴史を製造?できる装置があるという。これまで作成した世界では人類は全て絶滅したが、唯一うまくいった世界が孔子が到着したこの世界。でも孔子という人物の到着により不都合が生じ始めているらしい。ここで平和な生活もできたはず、しかし孔子は元の時代に帰ることを決意する。
という話。中国SFを代表する短編の一つ。自分の力で歴史を社会を変えようとする力強さが中国らしい、と解説にはある。だけど一方、「時の祝福」のような悲観的な見方の作品もある。まあ、この作品のように歴史改変に肯定的評価を見せる方が珍しいか。

「陥落の前に」


時代は隋末唐初。少なくともこの時代に関しては帝国が交代した、という認識しか自分にはなかったけれど、中国では注目される時代でもあるらしい。隋の煬帝の娘と降嫁した先の家(この家の人々が煬帝を暗殺する)の、この作品の元になった話もその中の一つ。
物語内では、ずっと暗い幽霊がそこら中にいる洛陽、そこに暮らす老婆と少女。だけれどどうやらこの二人には血縁関係等はないらしい。この老婆は幽霊を捕まえることに執念を持っていて、特に朱枝という女を捕まえれば、陽が昇らない洛陽に陽を昇らせることができる、と少女に信じ込ませている。最終的にわかるのは、この少女が作品冒頭の時点(604年)で既に死んでいる煬帝の娘の娘であること。実は捕まえるように言う老婆とその対象である朱枝は実は同一人物であったということ。また隋の時代には、それ以前の南北朝の洛陽から少し離れた場所に新しい洛陽を作っている。しかしこの作品には以前の南北朝時代の洛陽の名称が頻出するという。
はっきり言って物語の筋や構成を逐一追えなくて、雰囲気に呑まれながら読んでいった感がある。でもそれも一つの楽しみ方だろう。また、上記「孔子、泰山に登る」と構図が似ているという指摘が解説にはあった。雰囲気・語り口は大分違うが。

 洛陽はもう夜の闇に埋もれた馬ではなかった。数え切れないほどの山や河を踏み越えて、まるでぼろぼろの漁網になっていた。時間はその魚網から止めるすべもなく流れ出て、洛陽の街に関するさまざまな言い伝えも記録も時間の河の中で網から漏れてゆく魚のように、洛陽の街の小さく揺れ動く家の梁から、傾いた城壁から泳ぎ出てゆく。
(p120)


(2023 06/04)

「一九三八年上海の記憶」


時間の流れを変化させるというレコードを小道具に、日中戦争の時代を描く作品。ラストは、中国SFでは初めて見た、結末が複数ある作品。そのレコードを購入し、かけて、この世から消え去る人々が増加する。一軍隊まるまる消えてしまった…というところは「忘却についての一般論」のエピソードを思い出す。ひょっとして、ここに出てくる「ギャンブラー」がアフリカにもレコード売り込んだのか。

複数…というか二種類ある結末なのだけど、書いてある文章は2/3くらいは同じもの。一部だけ変えることで、日本が勝った未来と中国が勝った未来を描き分けている。鮮やかな手法ではあるが、差をはっきり見せるというより「どちらでも結局同じこと」という並置感覚を出す。
もっと言えば、別にこの作品、舞台が日中戦争期でなくてもいいのでは。もちろん、戦争の意味の洗い出しという面もあるだろうけれど。ただそれ以上に大きいのは、いつの世にも、どこの場所でも、何かのきっかけで人は消えるということ。作品冒頭で出てくる失踪した女友達とか(これはレコードが理由でもなさそう)、p231で列挙されている語り手の「社交界の名士」の顧客ラインナップに当時の人だけでなく戦後の人も混じっているなど。そんなふうに思わせる要素は各所に散りばめられている。

「中国アメリカ謎SF」の時もそうだったけれど、中国SF読んでると、もう一歩抜け出ないかなと思う時もあれば、これは独自の味を出しているなと思う時もある。それも同一作品内においても。そこが魅力といえば魅力かも。
(2023 06/05)

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