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「忘却についての一般論」 ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ

木下眞穂 訳  白水社エクスリブリス


アンゴラのとある部屋

 窓の向こうにあるものが怖い、なだれこむ空気が怖い、
 空気に乗ってくる音も。蚊がおそろしい、なんという名で呼ぶのか
 知らぬ無数の虫がおそろしい。なにに対してもわたしは異国人、まるで
 水の流れに落ちた一羽の鳥のように。
 外から届く言葉がわからず、ラジオが持ちこむ
 言葉がわからず、なにを言っているのかわからず、さらには
 ポルトガル語らしき言葉が聞こえても、それすらわからない、あれは
 わたしのポルトガル語ではないのだもの。

 光すらわたしには異様。
 あまりにも過剰な光。
 健やかな空からは生まれるはずのない色がいくつか。
 わたしが近しく感じるのは外の人間よりもわたしの犬。
(p41-42 「恐怖の本質」)


と言いつつ、次の「終わりのあと」での初めての日記では、「木々、動物たち、たくさんの虫たちが、自分たちの夢をわたしと分かちあった」(p45)と書いているけど…

その続き。

 目覚めると、わたしは一人だった。眠りながら眠っている夢を見るのであれば、目覚めたまま、さらに鮮明な現実のなかで覚醒するということも、できるのだろうか。
(p45)

ポルトガルの小さな町に住む、ルドヴィカという怖がりの女性が中心人物。姉夫妻(夫がアンゴラ生まれポルトガル人)についてアンゴラに渡ったルドヴィカだったが、その頃からアンゴラでも独立紛争が起こり、独立直前に姉夫妻は失踪してしまう(どうやらダイヤモンド絡みらしい)。

アフリカの独立国に対しては、今までは「独立して良かったね」的なことしか思っていなかったけれど、これ読むとそういう綺麗事ばかりではなかったらしく、ルドヴィカも姉夫妻失踪後、掠奪しにきた若者を家にあったピストルで撃ち殺してしまう。

その後、ルドヴィカは部屋の周りにセメントで壁を作り、完全に閉じこもる。備蓄食糧と家庭菜園、それに同じマンションの別の住人から雄鶏・雌鳥盗み出し(その住人からは「神の仕業だ」と思われる)養鶏も始める。ラジオを聴き、姉の夫がコレクションしてたシャンソンのアルバムも聴く。
(2020 12/25)

ヤモリとカバ

 俺は死んだのか、とジェレミアスは考えた。死んだのだ。あのヤモリは神か。
 神にしては、これから俺に与える行き先を告げるのにためらいがあるかに見える。そのためらいのほうが、いま自分は創造者の目の前にいるのだということよりも、神が爬虫類の姿をしているということよりも、奇妙に思えた。
(p61)

これはポルトガル時代の拷問取り調べをしていて、独立後銃殺になった男、の「第二の人生」。なんでも弾道を歯でそらせたという。

続いてルドヴィカの章。

 数十年間、だれにも発見されずに。アヴェイロを思い、自分はとっくにポルトガルの人間ではなくなっていたのだと気づいた。自分はどこの人間でもない。あそこは、自分が生まれたあの土地は、寒かった。あの狭い道、向かい風や荒天のなか、頭を低くして歩く人々の姿を鮮明に思い出した。自分のことを待つ人はどこにもいない。
(p87)

この小説、意外に早く各々の筋の絡みが明らかになっていく。警察?に追われていたペケーノ・ソバという男をルドヴィカが建物の上から見ていて、そのペケーノ・ソバが、ルドヴィカが捕まえてダイヤモンドを飲み込ませてまた放した伝書鳩を捕まえ、ダイヤモンドを手に入れる。そのダイヤを売った金で、上記追われていた時に助けてくれた元ミュージシャン?パピー・ボリンゴのコビトカバのために農園を手に入れる(まだ謎なのは、伝書鳩のメッセージは誰が書いたのか、というところくらい)。そのカバはどうやらルドヴィカのマンションに住んでいたようで・・・

盲目

またもルドヴィカの詩を引いてみる。

「盲目(そして心の目)」
 目が見えなくなってきている。右目を瞑るとぼんやりとした
 影しか見えない。
 なにもわからない。歩くときは壁に
 貼りつくしかない。
 文字を読むのも骨が折れる。読むのは陽の光の下で、
 拡大鏡もどんどん度が強くなっている。
 最後に残った本を読み返す。
 これだけは、と焼かずにおいた数冊だ。
 この数年わたしに寄り添ってくれた
 美しい声たちを、わたしは焼いてしまった。

 ときどき思う。わたしは頭がおかしくなったのだと。
 隣のベランダでカバが踊るのを見た。これは幻だと
 自分でもわかっていたのに、
 それでもまだ見えた。空腹のせいだろうか。
 このところ、栄養が足りていない。

 体力が落ち、視界がかすみ、読んでいると文字が飛ぶ。
 何度も繰り返し読んだページを読むと、違うページのようになる。
 読み間違えると、その間違いに、ときに
 思いもかけない正しさが見つかることがある。
 間違いのなかに、自分がよく見つかる。

 間違って、よくなったページもある。
 蛍が、室内でちらちらとまたたく。わたしはメドゥーサのように
 その光の靄の中を歩く。自分の夢の中に沈みこむ。
 これが、おそらく、死ぬということなのだろう。

 わたしはこの家で幸せだった、陽の光が台所を訪れる
 午後などは。
 食卓に座れば、ファンタズマがやってきて
 わたしの膝に頭を載せた。

 まだ空白があり、炭があり、書ける壁があれば、
 忘却についての一般論を書けたのだが。

 気づけば、わたしはこの家全体を大きな一冊の本に
 変えてしまっていた。
 図書室を焼き、わたしが死ねば、残るのはただこの声のみ。

 この家の壁には、どこにもわたしの口がある。
(p111-113)

最後の一行で、今までとは変わりさらりと凄いことを言うのがこの人の詩の特徴。

間違いに正しいことがある、というテーマはどこかで別の誰かが言ってたような気がしたのだけれど。「間違いの中に、自分がよく見つかる」なんて自分もこそっと言ってみたいものだねえ。

この章の次には、また新たな登場人物ダニエル・ベンシモルなる人物が「失踪事件蒐集家」として出てきて、飛行機が空中で消える、フランスからの詩人が土の中に消える、そして前日取材したばかりの村が丸ごと(空路でも陸路でも、そして前日撮影した写真からも)消えたなど・・・ちなみにこのダニエル・ベンシモルなる人物、この作品の次「不本意な夢想家の社会」とその次「生者とその他」のアグアルーザ作品では主人公になっているみたい・・・
そんな中、また一軒の失踪事件が彼の前に、とこれが、ルドヴィカの娘からの母親捜索願、ってルドヴィカって子供いたの? と冒頭振り返ってみたら、

 ルドが「事故」と呼ぶあの出来事が起こってからは(p11)

とあって、これか、と思う。果たしてルドヴィカは見つかる?のか。
(2020 12/27)

オープン・ザ・ドア

 ルドを後ろに退かせたのは、青い色、広大な広がり、このまま生き続けるだろうという確信だった。たとえ生きる意味を与えてくれるものがなにもなくても。
(p132)

ファンタズマ(犬)が亡くなって、閉じ籠っているマンションの屋上から飛び降りようとした時…ひょっとしたら、ここで彼女の空恐怖症、広所恐怖症は乗り越えられたのかもしれない。これは希望を持つことができたというのではない。これが「忘却」か。
(2020 12/28)


昨日寝る前に読んだところ。

 外に出たいと思うたびに図書室に行って本を探した。ありとあらゆる家具も、扉も、床の板張りすらも剥がして燃やし尽くしたあとで、本を燃やすたびに自由をうしなっていると感じてきた。この地球に火を放つような気がしたのだ。
(p155)

もう視力が弱っているルドヴィカはこれらの本を自由に読むことはできない、それでもやはり。

しかし…

 「じゃあ、おばさんはどうやってここに入ってきたの?」
 「入ってきてなんてないわ。ずっとここに住んでいたの」
(p157)

 「この壁の向こうに世界があるの」
 「この壁、壊してもいい?」
 「いいわ。でもね、怖いの。すごく怖いの」
 「おばさん、怖くないよ。ぼくが守ってあげる」
(p158)

ということで、隣の建物に付けられた足場をつたってルドヴィカの部屋へやってきた少年。そして読者の若干の戸惑いに構わず壁を壊すと、壁の向こう側にはペケーノ・ソバが寝ていた…

まだ作品の後半入ったところなのに、もう壁壊していいの?と、いささかポップな急展開に驚く。同じ部屋に閉じ籠り小説のカネッティ「眩暈」のように袋小路に迷い込みながら重厚さを味わう…という小説だと思っていたのだけれど。
(2020 12/29)

アルバムを読んでいるのは誰か?

 今じゃ俺ももう歳を取って、記憶に脅かされるようになった。びっくりするほど鮮やかな記憶だよ、昔のことなのにな。俺の頭の中でだれかが古いアルバムをぺらぺらめくって楽しんでいるみたいでな
(p164)

 マグノ・モレイラ・モンテは、ある暗い朝、水源をうしなった川のような気分で目が覚めた。
(p169)

アンゴラの情報局での警察のような仕事を辞め、探偵?になったモンテの章から。前に出たフランスの詩人が土に飲まれて失踪したという事件は、実はモンテ達がダニエル・ベンシモルを殺害しようとして(モンテ自身はベンシモルには少し好感を持っていたらしいのだが命令には逆らわず)、手下がコテージの部屋番号の間違いに気づかず、詩人シモン=ピエールを殺害してしまい、その後処理としてそういう話をでっち上げたということだったらしい。

そしてダニエル・ベンシモルは、自分の殺害計画の捜査をしていたことになる。で、ルドヴィカの捜査の方は、これまた意外に簡単に(少なくとも読後感としては)マンションの部屋に行って会うことになる。

 このとき、ジェレミアスは目の前で過去が身を屈めるのを見た。過去はすっかり年老いていたが、それは決してよくあることではない。何世紀もの時が経っても寸分変化のない過去もある。だが、この過去は違った。
(p204)

二つの「過去」の違いが今のところはよくわからないが・・・ここでは、ジェレミアスとモンテ(アンゴラ独立時、モンテがジェレミアスを銃殺させた、その時に歯に当たって弾道が逸れ・・・)が牧場の柵のいざこざで再会し、ジェレミアスの何らかの過去からオルランド(ルドヴィカの姉の夫)のダイヤモンドを思い出す。

一昨日、昨日、の分はここまで。実際のルドヴィカはもっと慎ましい?自らの幽閉生活をしていたのかもしれない。それを作者アグアルーザがいろいろな言葉や人物や事件で賑やかに飾り立ててみよう、という趣向ではないか、それに対し、実際のルドヴィカを背後からうかがわせるような役割が、ルドヴィカの詩ではないだろうか、と今はこの作品をそう認識している。最後まで読んだ時どう変化するのかな。

 忘れられることを恐れてやまない人たちがいる。病理学的には被忘却恐怖症と呼ばれる。モンテの場合は、それと反対だった。彼は、だれからも忘れてもらえないという恐怖とともに生きていた。
(p212-213)

忘却についての様々な見解

 ぼくにとっては生命のはかなさに思いをはせる日でもあり、他者になってみる試みでもあるんだ。
(p220)

ペケーノ・ソバは収容所から、死んだことにして棺桶に入れて埋葬されることにした。埋葬の前に棺桶から出てきて。そしてこのように言う。もっとも数ヶ月後に発覚して戻されたが。

 父は忘れたくないのです。忘却は死と同じだと、彼は言っています。忘れることは降伏することだと
(p251-252)

ジェレミアスはルドヴィカに(連れられてきたアンゴラ南部のムクバル族とともに生きてきて、今ではここルドヴィカの家にも連れてきたアントニオという息子もいる)、ルドヴィカの姉夫婦の最後を語る。オルランドとジェレミアスはダイヤモンド強奪?のあと仲間割れして、オルランドとオデッテはそうしているうち事故で亡くなった、とジェレミアスは告白する。その彼にルドヴィカは、ムクバル族の牛の為にダイヤモンドを贈る。

アフリカに降り立ったシェークスピア

「クバンゴ川の奇妙な運命」の辺りは、まるでシェークスピアの喜劇みたいに、主要人物大集合して大混乱みたいなことになっていたけど、そこ以外でも急展開で謎が明らかになる。一つの謎の伝書鳩とメッセージは、一番意外な人物、モンテが未来の妻マリア・クララに向けて送ったもの。彼女には届かずに、一家はポルトガルに帰国する。が、彼女は父親を強引に連れて戻って来る。モンテは彼女のためにパラボラアンテナを設置しようとして、落ちてきたアンテナで亡くなるのだが、葬儀で一番泣いたのは結婚に大反対だった父親だった。

ダニエル・ベンシモルが持ってきた手紙のあと、ルドヴィカの娘マリアが訪れる。ルドヴィカを連れてポルトガルに帰ってもいい、というマリアに対し、ルドヴィカはここには私の家族がいる、(亡くなったけど)ファンタズマや、足場つたいにパンを持ってきたサバルなど。ここも自分には意外だった箇所。「事故」という詩は、冒頭と呼応するルドヴィカの少女時代の忌まわしい思い出。こうして言葉にすることで彼女はそれを乗り越えることができたのだろう。

と、いろいろな「偶然」の出来事が重なって、ルドヴィカは「自閉状態」から脱却できたのだが、もし仮にこうした「偶然」がなくてもルドヴィカは出てくることができたのではないだろうか、と今は考える。p158で「壁を壊してもいい」とルドヴィカがサバルに同意しているときに、それを感じた。そこまで至るまでには、「忘却」も少しは手を貸したのだろう。

「最後の言葉」

ルドヴィカの詩「最後の言葉」から

 だれのために書くのだろう

 わたしであった人のために書くのだ。ある日わたしが置き去りにしたものはまだ残っていて、
 立ち尽くしたまま、哀れな様子で、時の片隅にいるんだろう
 -どこかのカーブ、どこかの四つ辻で-
 そしてどういう謎のおかげか、
 わたしは今からここに綴る文章を、見なくても読めるだろう。

 ルド、大事な人。わたしはね、今、幸せよ。

 盲目だけれど、あなたよりは見える。あなたの盲目のために、あなたの
 底なしの愚かさのために、わたしは泣く。ドアを開けるのは、きっとわけもないことだったはず。
 外に出て、人生を両手で抱くことは、たやすいことだったはず。窓から外を覗くあなたが見える、
 恐れおののき、おばけが来ると信じてベッドで丸くなる
 子どものようなあなたが。
(p263-264)

アグアルーザの他の著作では「過去を売る男」という戦後の混沌の中、顧客の依頼に応じて「過去」をでっちあげることを生業とする男と、彼の家に住み着いたボルヘスの生まれ変わりだというヤモリの話が面白そう。
(2020 12/31)

関連書籍

(上記で書いたヤモリの小説)

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