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「過去を売る男」 ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ

木下眞穂 訳  白水社エクス・リブリス  白水社


ボルヘスの転生

始めに、このヤモリの前世がボルヘスだった件(笑)。
前情報としては知っていたけど、読み始めた時はすっかり落ちていた。それはそれで理想な読み方。気づいたのは、p75の飛び出しナイフの収集とか祖父の武勇伝とかいう辺り。まあ、ボルヘスでなくても、カフカやペソアでも最後まで読み切れる、たぶん。それより?解説にあった「作品冒頭の(ボルヘスの)引用」というのが全くわからない。困ったことだ(勘違いしてました。冒頭というよりエピグラフ、ちゃんとホルヘ・ルイス・ボルヘスと書いてある)…
あと、主人公がヴェントゥーラらしいのだが、ドノソ「別荘」ベントゥーラ一家と頭の中でショートしないかな(笑)

アンゴラと日本の戦国時代の意外な関係

さて、ボルヘス話題はこのくらいにして、作品は今のところ(p87まで)、「過去を売る男」のフェリックス・ヴェントゥーラ、ヤモリのエウラリオ(といってもその名前がつくのは次のp89)、「過去を買った男」のジョゼ・ブッフマン(これはフェリックスが作った名前)、それから「光彩性物質収集家」のアンジェラ・ルシア(ルシアは光をイメージする名前)の4人というか3人と1匹の組み合わせの対話。
フェリックスは、内戦で急に重要人物になった人や、(ジョゼのように)外からやってきてアンゴラでやり直したい人々に、アンゴラでの名士等の絡んだ家計の過去をでっち上げる仕事をしている。内戦で文化が切断された国ならではの話だが、一方で例えば、徳川家が新田氏とのつながりを持ち出したような話とも想像がつながる。戦国時代なんてまあ内戦期だろうから。それから光彩性物質というのは、各地の空の光だけを撮影?したものらしい。

 赤ん坊は婆さんの背中に頭をぴたりとつけて、その鼓動と体温を感じ、母親の胎内に戻ったと錯覚して、眠る。わたしと家の関係もそれに似ている。
(p15)


この小説では視点人物かつ語り手はヤモリのエウラリオ(この時点では名前はまだない)。p72のエウラリオの前世の自殺をしようとしていた時の想起の最後も「そのまま眠った」とあるように、このヤモリと眠りは何かつながりありそう。そして、フェリックスの養父から受け継いだ古本が満載の家も、この過去と現在と虚構が混ざり合う小説世界のベースとなっている。

 「この家にいると、船に乗っているみたいだってよく思う。重たい泥水をかき分けながらようやっと川を進む、古い蒸気船だ。川の周囲には密林。あたりは夜に包まれている」とフェリックスは言い、声をひそめた。そして、棚に並ぶ本の影をゆらりと指さした。「声がいっぱい積んであるんだ、この、ぼくの船には」
(p31)


ここも由来はボルヘス? それはともかく、本に囲まれていると声が聞こえる、というのは自分もよく(今はそれほどでもないけれど)体験したこと。特に大型書店で。不思議と家では起こらないけれど。それとこの場面のイメージの連関で、コンラッドのちくま文庫短編集の冒頭作品「文明の前哨地点」?も思い出される。

嘘つきは文学の始まり…

 名前というものは、ときに呪いとなる。大雨が泥川の流れを作るように、名前が人の道を決めることもある。どれだけ抵抗したところで、名前の決めた運命には逆らえない。あるいは、名前が仮面となることもある。名前は隠し、惑わせる。
(p50)


名前と泥川という関連が興味深い。名前という時間の流れを持たない「名詞」が動きを持つものと変わっていく。
p56の星の渦巻きとの接触を待っている場面は、p72にも変奏されて現れる。これも重要主題に違いない。

 降っているのは夜のようだった。つまり、空から落ちてくるのは、星々が航海している、暗く眠たげな大海の飛沫であるかのようだったのだ。
(p72)

 「わたしは生まれつきの嘘つきでね」と、作家は言い放った。「嘘をつくのが喜びなのだ。文学とは真のほら吹きが社会に認めてもらうための手段だからね」
 そして、そこで真顔になり、声を低めてさらにこう言い添えた。独裁制と民主主義の大きな違いとは、独裁制においてはただ一つの真実しかないことだ、権力によって押しつけられた真実だ。それに比べて自由な国々では、個人がそれぞれ、起きたことについて独自の見解を述べることができる、と。
(p76)


ここはボルヘス(かもしれないが)よりも、アグアルーザ自身を思い浮かべてしまう。
この作品と「忘却のついての一般論」。結構感触が思っていた以上に違っていて、こちらが聖(詩的・哲学的・寓話的)で、あちら(「一般論」)は俗(散文的・風俗小説的)。もちろん比較してのことで、なおかつ今の印象に過ぎないが。

おまけ。フェリックスが古書店の養父に来たのは、古書店の前に箱が置かれていて、その箱の中にエッサ・デ・ケイロースの「聖遺物」が何冊か重ねられていた上に、フェリックスが置かれていた、という。この後にも、ルシアが言及する箇所も出てくる。
ケイロースは確か「縛り首の丘」(白水社Uブックス)を購入していたはず…
今wikiで調べたら、「縛り首の丘」の他に邦訳3冊(これらは彩流社)、計4冊あるという。
でも主要作品には「聖遺物」というのはなかった…
(2023 06/09)

「夢 第六番」

昨夜と今朝で読み終え。
虚実混ざって揺らぐ感覚だったのが、後半入って一気に伏線回収と怒涛の展開。よく考えてみれば「忘却についての一般論」も前半と後半で転調して変わってしまう小説だった。この2作だけで、そういう作風であるというのは言い過ぎだろうけれど。でも、「忘却についての一般論」は明るく転調したけど、「過去を売る男」は暗く転調する(結末はやや明るく閉じられるのだけれど)。

前半でも少し出ていた側溝に住んでいる男エドムンドが、ブッフマンに連れられてフェリックスの家に来る。なんかマルクス・レーニン主義の狂信者っぽいこのエドムンド、実はブッフマン…昔アンゴラにいた頃の名前はペドロ・ゴウヴェイア…と妻を捕え拷問にかける。その時妊娠して出産間近だった妻は、そこで出産を迎える。とこの男は生まれたばかりの赤ん坊に煙草の火を押しつける。結果、妻は亡くなり、ペドロはなんとか解放され国外へ(そして戦場カメラマンに)、赤ん坊は妻の姉夫婦に育てられ、それがルシア。

という種明かし?の前に、いきなりエドムンドがブッフマンに追われ、最後にはルシアがエドムンドを撃ち殺すという(何故かここだけ詩行のような書き分け方)展開に読者は翻弄される。
でも(でも?)、これ唯一の真実なのだろうか。この種明かしをする章の名前が「夢 第六番」ということからしてどうだろう。自分としては、フェリックスが作る過去がどんどん現実を侵食していく、という展開も読みたかったような。
でも、アグアルーザにとっては、アンゴラの現実あっての物語だろうから。

 十九世紀、アフリカの奥地に分け入ったヨーロッパ人は、現地の案内人が、長い旅路の途中で木陰などから出てきた親類や知り合いと出くわすと、いかに長々とした挨拶を交わすかについて、しばしば冗談めいた文体で記している。
(p105)


情景がとても目に浮かぶのだけれど、これは人類学的にも興味深いところ。

 今のわたしにはわかる。いや、すでにわかっていたのだと思う、どの人生も並外れているのだ。
(p148)


ここの「わたし」はヤモリのエウラリオ=ボルヘス。この普通の人々の人生をどう描くか、というのはボルヘス=アグアルーザ(ペソアも有り)の意志表明でもあるのだろう。結果的には、ここで「普通の人」と言われているルシアは「並外れて」いる人生であったのだが。

星の渦と川の流れ

 そこの一番高い窓からは、庭の石塀越しにスラム街の賑やかな光が見え、さらにその向こうには漠とした黒い深淵と星があった。黒い深淵は海だ。わたしはそこで、長い時間、海を見ていた。その静寂に潜っていく自分を想像した。かつてのように、闇雲に、波打つ心臓、水をかく両手、冷たい水に触れてぞくりとする足先、それが両脚から腹まで這い上がってくる感覚。想像しながら、爽やかな気分を得た。
(p164)


前のp56とp72にもあった星の渦、そして海。この小説のもう一つの主題はこうした感覚の味わいにある。p56の文章の味わいが、携帯ラジオのパン屋組合のCMで俗に戻るように、このp164でもこの後はエドムンドが殺される怒涛の展開。
エウラリオ=ボルヘスは最終章で死を迎える。蠍との対決によって。それを受けて、フェリックスは日記を書き始める。

 魂には水と同じようなことが起こる。つまり、流れるのだ。今日は川。明日は海になるだろう。水は容器の形に姿を変える。瓶の中にあれば、瓶のように見える。だが、水は瓶じゃない。エウラリオは、ずっとエウラリオだ、別の肉体に(あるいは肉に)なろうが、魚になろうが。
(p197)


これは最終ページにある言葉だが、冒頭の「川のララバイ」という歌詞に呼応している。
(これとクンデラ「生は彼方に」冒頭とも比べてみたい)
(2023 06/11)

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