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「ラテンアメリカ五人集」 ホセ・エミリオ・パチェーコ マリオ・バルガス=リョサ カルロス・フェンテス オクタビオ・パス ミゲル・アンヘル・アストゥリアス

安藤哲行 鈴木恵子 鼓直 野谷文昭 牛島信明 訳
集英社文庫  集英社


ラテンアメリカ少年の小説2作


というわけで、ラテンアメリカ五人衆の文庫より、パチェーコとリョサの作品を。どちらとも少年時代をその生の声に語らせることに成功した作品。

パチェーコ「砂漠の闘い」はタイトルだけ見てブッツァーティみたいな雰囲気か?と思ったけど、全然関係なく?メキシコシティ下層地域(多分)の息遣いが味わえる。少年が友達の母親(アメリカナイズされた)に恋するという筋。結局ずっと後になって、その女性は自殺したということを旧友から聞かされるのだが…
1940年代後半から50年代前半のメキシコシティ風俗も、日系移民やアメリカ文化との関係など含めて追体験できる楽しい小説だけど、語り手自身は語っている現時点でどこにどんなふうにいるのだろうか?そこが謎のまま。兄貴のことは書いてあるのだけれど…パチェーコは自分は初の作家だったけれど、どっちかというと詩の人みたい。

で、リョサ「子犬たち」大作群の前。だけどもう語り口、構成と内容が渾然一体となったリョサの作風は完成してる、そんな感じ。
こっちはペルーはリマのワルガキどもの追体験。4人の少年ともう一人、犬に男の一番大事なところを咬みきられてしまった少年との成長(或いは未成長)の物語。読んでて最初は4人の他に語り手の少年いるのかと思ってたけど、語り手というより4人の少年の声がこだましあう音響空間のただなかに、読者は立っているのでした…
(2011 10/13)

境界線としての「白」

 それは単なる予兆、単なる前奏、事前の快感に対する単なる制限だが、だからこそやがて、行為そのものに変わる。
(p138)


フェンテス「二人のエレーナ」より。この短篇の筋は、結婚した妻のエレーナと、その母親の(同じ名前の)エレーナ二人を愛する男、というもの。それが土台にあって、そこに(1960年代の)映画とかアメリカ黒人運動とか(この文章で書かれている)ジャズなどが入り込んで溶け合っている、そんな感じの短めの短篇。で、この文章・・・「本能による漂流」そのものってな感じ。人間における「本能による漂流」は文化(高いの低いのひっくるめて)?

 僕は宇宙とは巨大な信号のシステムであり、森羅万象の間で交わされる会話であると思った。僕の行為、コオロギの鳴き声、星のまたたきは、この会話の中にちりばめられた休止と音節と語句にほかならなかった。僕が音節であるのはどんな言葉だろうか。その言葉を誰が誰に向かって話しているのだろう。
(p177)


こちらはパスの掌編「青い花束」から。これと次の「正体不明の二人への手紙」は散文スタイルで、パスがシュルレアリスムの影響下にあったころの作品。
「青い花束」では、こんなことを考えていると追いはぎ?にあい、目玉をくりぬかされそうになる。追いはぎは青い眼が目的だったそうだけど、パスはそうではなかったらしい。言葉は仮に聞いていたとしてもわからない、ということかな。
「正体不明・・・」は正体不明・・・何をいっているのかな、と読んで行くとまったくわからない。

んで、パスがインドなどの影響を受けた次の時代の詩作品「白」・・・これもよくわからない・・・んだけど、上下に詩が分れている上の部分は男女の交わりをストレートに詠んでいるのかな。下は神話的な部分。この「白」という作品がこの文庫のちょうど真ん中あたりにあることもあって、これを境にして「二人のエレーナ」の現代の恋愛とその下にある(フェンテス作品には必ずある、と思われる)神話構造が、裏返しとなって、先のパスの掌編2つ、そしてアストゥリアスの「グアテマラ伝説集」へと神話が表になっていくのかな?そう考えたりもした。そうすると「正体不明の二人」とは「二人のエレーナ」・・・?
うーむ、出来過ぎた・・・
(2011 10/23)

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