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「両方になる」 アリ・スミス

木原善彦 訳  新潮クレストブックス  新潮社


ばねとニュートリノ

 体全体を跳ね上げるそのばね、ただ1つその細部を描きさえすれば、絵の全体も軽やかに駆けだす それを正しくとらえさえすれば、絵も飛躍する
(p13)


久しぶりの読み癖発動だけど、この文は作品全体を言い表してはいないか。ばねだけ書いて他は捨象する。

 体の中を輪が突き抜けるのを感じた? 感じなかった? でも、通ったのよ。今ではあなたも輪の内側にいる。ママもそう。私たちは二人とも輪の内側にいる。この庭も。煉瓦の山も。砂の山も。薪小屋も。家も。
(p18)


水溜りに浮かんですぐ消えた波紋のことを子供が言うと、母親はこう返す。何かの象徴であることは確かだと思うけれど、自分はなんとなくここ読んで、ニュートリノのこと思い浮かべた。
ということで、「両方になる」第一部。もっとも、第一部が二つあるらしいが。その前、巻頭句には、アレント「暗い時代の人々」の「ベンヤミン論」から真珠採りのところと、それからモンターレの詩の引用(「火花」とあるのは「うなぎ」想起させる)がある。
それから、特徴的なのは、句読点があるところとないところの差。上のp13の「駆けだす」のあとは誤植でも打ち間違いでもない。今のところまだ理由はわからない。
(2023 11/04)

現代という煉獄にて

やっと話がわかり始める…コッサらしきルネサンス期のイタリアの画家が、死後、現代のイギリスの少年の背後に常に居続けるという宿命を受けている、らしい。この辺りでは「少年」と記載されているが、解説見ると「少女」らしい(「両方になる」?)。コッサは煉獄とも思っている?

 彼のそばにいる私の気持ちは、蜘蛛の巣にかかって食われてしまったテントウムシの殻に似ている 最初に目に留まったときにはきれいな生き物がそこで遊んでいると思ったのに、実際には、中身が空になって残された、世界の残酷さの証拠だったという感じ。
(p36-37)


テントウムシの殻の感覚!

 偉大なるアルベルティ、母が私を産んだ年にすべての絵描きのための本を出版し、そこに(少年や若い女の動きに対して)男の動きには力強さが足りないと記し、両方になるのに必要な柔軟性と簡素さを理解していた人物。
(p41)
(「少年や若い女の…力強さが足りない」は太字、下記参照)


えっと、誤記ではない。少年や若い女より男の方が力強くない、と書いてある。ここ鍵になりそう…続く箇所には「両方になる」という言葉が出てきているし…

 そして物語の語り方、1度に複数のやり方で語る方法、1つの物語の下から別の物語を立ち上がらせる方法を
(p43)


この小説の種明かし以外の何ものでもない気がするのだが…

表記的な仕掛けとりあえず3点


1、上でも挙げた句読点の有無。無いところはなんとなく意識の流れ的な箇所っぽい…フォークナーで言えばイタリック(邦訳では太字になることが多いような)。太字だと強すぎるので、この句読点有無方式なかなかいいのでは(といっても、全く違う理由かもしれないが)。ちなみに太字は書かれて文字で使われている模様(例:p34-35の手紙、上記p41の本、など)。

2、数字が漢数字ではなくアラビア数字の場合が多い。

例:その1、「それは2重の意味で彼の母親に背く行為だった」(p47)

  その2、「俺と一緒に行くんだ」、「画家としての一種の視察旅行」、「一人前になったとき」、「旅行はたった1泊だし」、「君の一族の屋敷」(p58)

  その3、「椅子の4隅には」、「舞台の4隅に立ち」(p59)


その2は変換忘れてた、とかないよね?

3、第一部が二つあり、それぞれにページが配されている。その為、160ページまでが二回ある(二つの第一部、ページ数が全く同じ)。
(2023 11/07)

少年は少女だ

やはり「少年は少女だ」(p55)

 少女は踊りもうまい 私はこの煉獄を眺めるのが少し楽しくなってきた 最も奇妙なのは、誰もいない、音楽も鳴っていない部屋で人々が踊りを踊る様子だ 彼らは耳に小さな栓を入れ、静寂の中で体を揺らす あるいは告解室に響く蚊の羽音よりもかすかな音量で耳栓から出る音に合わせて踊る 少女は腰を柔軟かつ俊敏に動かし、体を上下させた
(p55)


イヤホン(たぶん無線型)はルネサンス期の画家から見るとこうなるらしい…
ここで、一つのことに気づく。上の仕掛けで挙げた句読点の有無…なのだが、なんてことはない(のか)、一つの段落の途中にある句点(。)は省略しているということみたい。この文の前々ページと前ページには、段落途中での句点の箇所があるが、それは(ここの場合)コッサの母親の言葉にかかっている箇所だから、要は別の人物の言葉の引用とその前後は通常通り句点をつける…と、また読み進めていくと違う例と遭遇するかも?

ここもまた、少年ならぬ少女の現代の話は2ページ半で終わり、コッサの回想に切り替わる。コッサとバルトの娼館修行。だけど、コッサは娼婦達の絵を描いていくだけだった。それはコッサなりの処世か信念…だと思いきや、イソッタという女との夜で何かが違うらしく思われ始め(イソッタはレズビアンの気もあるらしい)、メリアドゥーサという入りたての女が、コッサの秘密をバルトに話した。
そう、やはり「少年は少女だ」(二度目)。
それも、バルトはコッサのことを愛していたらしい…
そういえば、娼館通いのきっかけのレッジョへの旅行を父親がずっと許可しなかったのは、この秘密がバレることを警戒してだったのか…
話はまた複雑になる。

 愛と絵画はともに技術と目標を持った作業だから 矢は標的の円に出会う 直線が曲線あるいは円と出会う 2つのものが出会い、次元と遠近が生まれる そして絵画と愛-その両方-が生まれる場所では、時間そのものも形が変わる 時間は時間であることをやめ、別のものに変わる 時間は正反対のもの、永遠に変わり、無時間になる。
(p73-74)


今日はp80まで。前半第一部のちょうど中間。
(2023 11/09)

両方の「両方になる」

フェッラーラのボルソ公爵の新築宮殿に壁画を描くプロジェクトに呼び出されたコッサ氏。3月から5月の春の部分。

 下段の馬には、私たちが部屋のどこにいても追いかけていく目を与えた それは神の目であり、絵画やフレスコ画にその目を描き込む画家は常に、作品を鑑賞する者の目をとらえることができる これは神に対する冒瀆ではない 単に、私たちの外から常に注がれているまなざしの力を再確認させるだけの技法だ。
(p101)


まだこの文章の全体理解には程遠いけれど、またこれも小説自体の一端を言い表している文章のような気がしている。そして「両方になる」というのは、男性=女性という図式だけでなく、製作者(作家)=鑑賞者(読者)という図式をも入れているのでは。そう考えると、冒頭からしばらくしてストーリーが動き始めた時の、美術館での見る=見られる関係が一時透明化して保留された場面もそこに収まってくる。
(2023 11/14)

息継ぎと句点

 煉獄とは、心を騒がせる記憶、既に失われて記憶の中にしかない家 見覚えがあって自分の世界だと感じられるのに、自分はもうそこの人間ではなくてよそ者でしかない、そんな世界でもはや自分のものではなくなった事物に取り囲まれているのが煉獄だ。
(p127)


コッサはルネサンス期から現代(21世紀)に来ているので、こんな感覚になるのかもしれないが、実際、自分は結構高頻度に「煉獄体験」?している。前に読んだ古田徹也の「言葉の魂の哲学」でいうところのゲシュタルト崩壊状態、とでも言おうか。
続いて、コッサが父親から、コッサが子供の頃書いた一番古い手紙を渡しながらいう台詞から。

 そこにはおまえの母さんも入っている。おまえがその文章を書くときには母さんが手伝いをしたに違いないからな。おまえはまだとても幼かったし、母さんらしい言い回しもそこには使われているし-ほら、こことここ-母さんは文と文の間、息継ぎをするところにスペースを入れるのが癖だったんだ。
 私にも同じ癖がある、と私は言った。
(p128-129)


…っと、ずっと気になっていた疑問の一つ、段落途中の文末に句点が無い問題。母親それからコッサの癖だったのか…意識の流れとか深読みし過ぎたなあ…
でも息継ぎのところは何故句点ではなくスペースなのか。同じ女性でも「ユリシーズ」の最終章は全く息継ぎなかった、どちらが不自然?
とりあえず、今日で前半の第一部は終了…
(2023 11/16)

二つの第一部を重ねてみたら

後半第一部、どうやら前半第一部の少年/少女が視点人物らしい。名前は「ジョージ/ア」。そして書かれている時点は2014年の正月。これとその前年の五月のイタリア旅行との間に母親を亡くす。この母親の生年は1962年。そう、作家アリ・スミスと同じ(ちなみに母親は11/19生まれらしいが、アリ・スミスもそう?…ウィキとかで調べればわかるのだろうけれど、そのまま謎にしとく?→調べた結果、1962年8月24日生まれらしい)。

 物事が本当に同時に起こるのなら、この世は一冊の本を読んでいるような感じになるだろうから。ただしその本は、文字が重ねて印刷されている。各ページは本当は二つのページから成っているのに、それが重ねて印刷されているから判読できない。というのも、今は元日であって五月ではないし、ここはイギリスであってイタリアではないから。
(p9-10)


なるほどね。その本はこの本なのね。
(本当に二つの第一部を重ねたらどうなるのだろう)
というわけで、後半始まりを今日は少しだけ。始まりだけでも、前半より「両方」の言葉遊びとテンポが増してきている。そして後半は、段落内の句点が(普通に)ある。この母親は別に息継ぎするところをスペースにする癖はなかったのだろう。
(2023 11/17)

鉛筆の削りかすと貝殻

ジョージの母は何かを、ジョージが「どうしてこんなものを取っておくの?」と聞くようなものを、取っておいている(この台詞、普通?の家庭では話者と受け手の役割が逆のような気もするが)。それは…

 元はサントリーニ・ミニ・ケッパーの瓶だ。残ったラベルにそう書かれている母が今までに使った鉛筆の異なる木材が、ガラス越しに見える。一つの層は濃い茶色。別の層は明るい金色だ。鉛筆表面の塗料が描く線も見える。色の付いた小さなジグザグ模様は、削り器内で鉛筆をねじるときに生まれる貝殻の縁のようだ。
(p25)


というわけで、それは鉛筆の削りかす。母は何らかの「プロジェクト」が終わるまで溜めておくのだ、という。これまでの描写では、確かにジョージは母親が亡くなってその気持ちの整理ができていなかったことはわかるが、それが自分にピンと来るような場面はなかった、敢えて作者はそのような場面をあまり書いては来なかった、と思われる。それが、この文章で母と子はぐっと近くなる。

 ヘンリーは首を横に振る。
 本当は退屈なわけではない、と彼は言う。逆に退屈したいんだ。でも、できない。ただ、退屈の代わりに味わわされてるこの気分をどうにかしたいだけ。
 ジョージはうなずく。
(p39)


今までずっと幼い弟としてのみ添えられてきたヘンリーの、初めてのそして深い言葉。
…この後、イタリア旅行の続きで、どうやら前半第一部で書かれた壁画らしきものを一家で見るようなのだが。
(2023 11/18)

失われたミステリーを求めて

さて、コッサが描いた壁画をジョージとヘンリーと母親が見る(父親はイギリスに残っている)。母親は「画家はひょっとしたら女性かも?」と指摘する。

 出来事はすべて、それぞれの理由があって起きている。絵はそれらを同時に見せる-身近な出来事とより大きな全体像を。
(p45)


またまた、この小説自身を暗示する文章。その中では「同時に」というのが重要。

 ミステリーという単語は元々、閉じることを意味したの。口とか、目とか。何かをよそで暴露しないという合意とか了解を意味していた。
 でも今の私たちは、ミステリーがもっと答えのあるものを意味しがちな時代や文化の中に生きている。
(p61)


答えはそんなにわかりやすくあるのか。答えを見ないことも必要ではないのか、とか。

 家はどんよりとする。まるで家の中のすべての明かりが、充分に温まる前の電球のように暗い状態で止まってしまったかのように。家は家のように目が見えなくなり、家のように耳が聞こえなくなり、家のように乾き、家のように硬くなる。
(p75)


家という言葉に通常はかからない比喩の多用。それはジョージの心の有り様。

 でも私たちが先に目にするのは表面の絵、それに普通、私たちはそれしか見ることがない、と母が言う。ということは結局、表面の絵が先ってことじゃない? それに、もし下絵のことなんか知らないとしたら、そんなものは存在しないと同じことなのかも。
(p89)


後世に歴史を見る見方、その当時の人々の見方、その関係。次ページでは、このフェラーラで起こった銃殺事件のことに触れる。あと、この3人が泊まっていたホテルは、どうやら前半第一部で出てきた「ハヤブサ」の宿舎だったらしい。

でっち上げの美学

 そこにはでも、私は自分の人生をもっと違うことに使った方がいいのかしら?と書いてあった。赤の他人同士のやりとりにしてはずいぶん踏み込んだ質問だと思って、私は驚いたわ。私はもっと違うことに人生を使いたいと思っているの?と返事を書いた。
(p102)


リサ・ゴリアードという女友達?恋人?と母親の場面。最初の「でも、私は…かしら?」までがリサのメール、「もっと…思っているの?」までが母親のメール。この相手の文章を疑問形に変えてそのまま返す、という方式はp57にあるカウンセラーのロック先生の手法そのもの。

 Hが共感/同情プロジェクトをこの画家でやろうと思ったのは、彼について知られていることが非常に少ないのが理由だった。知られていることが少なければ、たくさんのことをでっち上げることができて、かつ間違っていると採点されることもない。誰にも反論する根拠がないのだから。
(p120)


Hとは、後半第一部の後半から出てきた、ジョージの学校の友達。出てきた最初(p63)ではヘレナ・フィスカーと名前が出てきたのに、その後、単に「H」と呼ばれるようになる。そしてこの二人が学校の発表会?に「共感」というテーマで話すことになっている。そこで選んだのが、この画家、要するにコッサ。というわけで、この文は多少自嘲的に小説全体を表している…だけではない。Hによれば、普通に人と会っている時も「でっち上げ」は常に行われていて、それが証拠に、ジョージはそう聞いて赤面する。
(2023 11/19)

ツイスト狂詩曲

読み終わり。
(その前に、昨日寝る前に、フェラーラのスキファノイアの絵画館を検索してみた。数年前は修復中で入れなかったらしい)

 でも、もしも歴史が実際に叫びだったとしたらどうなのだろう? あの上に向かうバネ、梯子みたいなもの、実際には歴史と全然違うものをただ習慣的にそう呼んでいるだけなのだとしたら? 一般に歴史と呼ばれている概念が詐欺的なものだったとしたら?
(p149)


この読書記録冒頭に引用した文にもバネ(前の時は平仮名)出てきた。ぐるっと一周してきた感覚。

 話にはひねりが必要だというだけのことだと思います。物語には外部からの助けが要るんです、とジョージは言った。
(p154)


そのひねり(ツイスト)を使えるだけ使い切ったのがこの小説ということにはならないだろうか。
p157からラストまでは、リサ・ゴリアードがジョージの目の前に現れ、ジョージが後をつけるという場面で、そうこれが前半第一部の冒頭近くの少年/少女を追いかけてきた場面の裏返しの場面となっている…ということは円環技法?それでも通常の円環技法のように全てが結合して全て2周目に流れ込む、というのでは無く、螺旋状にはみ出しながら回っているような感じ。とにかく、言葉遊びやひねりを最大限に出しつつ書いていったのがこの作品。読んでいるこちらも最大限楽しめばそれでいいのかも。
(2023 11/20)

残された謎は…

でも、謎は残っている…あとがきにある、訳者木原氏いうところの「驚くべき仕掛け」って、何だったのか。仕掛けばかりだったけど、さらに大きな仕掛けみたいだし…

謎ときは、新潮クレストブックスの2018年小冊子(今は、新潮社のサイトから見られる)にて。
実はこの「両方になる」の流通している本のうち、15世紀イタリアパート→現代イギリスパートという流れと、現代イギリスパート→15世紀イタリアパートという流れの2種が半々で存在する、というもの。木原氏自身はイタリア→イギリスの順(要は自分と同じ)で読んだ(当然英語で)らしい。最初聞いた時、パヴィッチ「ハザール事典」みたいだな、と思っていたら、木原氏もそれ言及していた。逆の順番で読んだらどう変わるのだろう…
でも、木原氏も言うように、もう全く何も知らずにイギリス→イタリアの順で読むことはできない…同じ川には二度入ることはできない…
(2023 11/22)

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