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「疎外と叛逆 ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話」 ガルシア=マルケス、バルガス=リョサ

寺尾隆吉 訳  水声社


ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話
アラカタカからマコンドへ バルガス・ジョサ
バルガス・ジョサへのインタビュー
訳者あとがき
(一番上は1967年9月の対談リマにて。二番目は「神殺しの物語」の前、「世界の文学 現代評論集」に鼓直訳にも収録。一番下は1965年、インタビュアーはあのエレナ・ポニアトウスカ。この3編を一冊にまとめたもの)

マルケスに関して


マルケスによると、彼が一番最初に書き始めたのは「百年の孤独」らしい。16歳の頃。もちろんそこから様々あったわけだが、最初のパラグラフは実は16歳のものとまったく同じなのだという(あくまでこの対話での発言で実際どうなのだろう?)。
その「百年の孤独」構想が、まず最初に現れたのは「落葉」。そこから「大佐に手紙は来ない」、「ママ・グランデの葬儀」(短編集)と続くのだが、それはコロンビアの暴力性と向き合い、文体的にはフォークナーからヘミングウェイに切り替えたもの。短編集の表題作だけが「百年の孤独」系列だが、それもそのはず、本編?からこぼれたエピソードで作った作品だったから。

 我々には共通する平面のようなものがあって、その表現方法さえわかれば、全員で真のラテンアメリカ小説、つまり、政治的・社会的・経済的・歴史的差異を超えてラテンアメリカのどの国にも共通する全体小説を書くことができるはずなんです。
(p59)


恐ろしく魅惑的な話だが、全くのほら話でもなく、「百年の孤独」には、カルペンティエール「光の世紀」のヴィクトル・ユーグの幽霊船や、フェンテスの「アルテミオ・クルスの死」のロレンソ・ガビラン大佐(バナナ農園襲撃の時らしい)、それからコルタサルのロカマドゥール(「石蹴り遊び」?)、対話相手のリョサ「緑の家」のマザー・パトロシニオ(最後のアウレリアーノの出産に立ち会った修道女)などなど、出てきているとのこと…気づかなかった(というより、それらを読む前に「百年の孤独」読んだからなあ)。

リョサに関して

この本の前2つの文章が「百年の孤独」を読む手がかりとなるとすれば、最後のリョサへのインタビューは「都会と犬ども」や「緑の家」(これが当時新作として出たばかり…リョサ29歳)を読む手がかりに。
ここも論点1つだけ。

 人生のある時点で現実と自分の不純な関係を意識する。それが文学的才能の芽生えなんじゃないかな
 つまり、現実世界を受け入れるのではなく、「理解できない」という気持ち、周りの環境を拒絶することだよ
(p133)


こうして、拒絶した周りの環境を、説明しようとしたり、作り変えたり、自分はどこから来たのか考えたり…それが文学の芽生えだという。
(2024 04/29)

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