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「赤と黒(下)」 スタンダール

野崎歓 訳  光文社古典新訳文庫  光文社

ジュリヤンのイギリス紀行


下巻スタートしてなかなか流れに乗れなかったけど、ようやく…という感じ。舞台はパリへ移動。上流貴族のラ・モール氏の家に雇われたジュリヤン。やがて娘のマチルダといろいろあり、それに上巻のレナール夫人も絡んでくるらしい。
とりあえず今日のところは第7章、何故かジュリヤンがイギリスに旅に出されるところからいろいろ。ジュリヤンはナポレオンを撃破したイギリスが気に食わない…
ロンドンでジュリヤンはロシア貴族のコラゾフと知り合う。そこから。

 きみは生まれつき冷ややかで、およそ心ここにあらざる顔をしているじゃないですか。
 必ず、相手が期待していることの逆をやれ。これこそが、現代の唯一の宗教なのです。
(p110)


同じくロンドンで、ジュリヤンはロック以来のイギリスの哲学者ヴェインと会う。ヒュームがモデルとかは…ないよね。

 暴君たちにとっていちばん役に立つ観念とは、神の観念ですよ
(p111)


(2020 04/07)

マチルダとジュリヤン


第8章最後のマチルダの考えの中で、たぶん本人には無自覚に、ジュリヤンのことが二、三度ちょこちょこ想起されている。これは何か思いがそっちへ向かっていることの証拠だろう。この少しあと、本人もそれに気付きジュリヤンを思い始める。

 「それが党派根性というものですよ。十九世紀には、もはや真の情熱などありません。だからフランスではみんな、これほど退屈しているのです。どれほど残酷なことをしでかしても、本物の残酷さは欠けている」
「いやはや」とジュリヤンはいった。「しかし少なくとも、罪を犯すのであれば、喜びを覚えながら犯すべきでしょうね。それだけが犯罪のよさなのですから。その理由によってのみ、少しは犯罪を正当化できるかもしれない」
(p145)


ある晩餐会で、スペインで革命の旗振りをして当地で死刑宣告されたというアルタミラ伯爵とジュリヤンとの会話から。この背後でマチルダはずっと話を聞いている。
この辺、ジュリヤンとマチルダの意識の書き方がほぼ五分五分。物語が進んできた。
(2020 04/08)

梯子段アゲイン


「赤と黒」今日読んだところ。意外に進んで240ページ。
ジュリヤンという人物、まさに時代が産んだというにふさわしいと思う。もう少し時代が下って19世紀も後半になれば、ジュリヤンはラスコーリニコフになっていたのかも、とちょっと思った。
(上のp145の文章など見れば、ラスコーリニコフの先を行っている気も…)

一方、マチルダの方は、宗教改革時代をまとめたアンリ4世の妃マルグリットが重なり合う。ここにラ・モール家の先祖も関わってくる。マチルダはしばしばこの宗教革命の時代を引き合いに出してくる。

「その時代に比べて今はなんと退屈な時代なんでしょう。ちょっとでも気骨のある人間はあのジュリヤンくらい…」
と先日挙げた第8章辺りからジュリヤンのことが気にかかってきて、それが乗じてジュリヤンに恋心を抱く。ジュリヤンの方もマチルダそのものもあるけど、それよりマチルダに言いよる周りの貴族たちをあかそうという情熱でマチルダの誘いにのる。のる、のはまたしても梯子段(レナール夫人との別れの時もそうだった(上巻))。

 そんなぼくが、せっかくお楽しみが舞い込んだのに拒むことがあるか! 凡々たる人生の焼けつく砂漠を、苦労して横断する身としては、渇きを癒してくれる清冽な泉に出会ったようなものだ! ぼくだって、それほど馬鹿じゃない。人生というエゴイズムの砂漠では、だれだって自分が大事なんだ
(p207)


名言製造機と言いたいくらいのスタンダール。現代はこういう名言なるものも陳腐化というレッテルが貼られてしまったのだろう。この時代はまだ血が通っていた。
(2020 04/09)

想像力と政治


「赤と黒」雨の朝に100ページ以上進ませた。ここでのポイントは記憶力・想像力と政治。

 ところが、これきり絶交だと思うと、そのときから彼の心はたちまちのうちに一変した。
あの夜の、現実には別に興奮も覚えなかった事柄のいちいちを、彼の記憶力は無情にもつぶさに再現し始めた。
(p257)


ジュリヤンの能力であり、武器でもある記憶力は想像力と結びついて自動的に発動するらしい。

 深夜一時の鐘が鳴った。鐘の音を聞いて、〈これから梯子をかけて上ってやろう〉と思いつくまでには、一瞬の間しかなかった。
(p283)


そしてそれは外界の刺激と反応して、一連の行動を指し示すらしい。反射的行動のように。ここでは「午前一時」という反復性もそれに同調・増幅している。

次はスタンダールと政治。芸術愛好家・至上主義(ディレッタント)であったスタンダールだが、小説自体の内実の欲求がそこに要求をつきつける。スタンダールはここ(過激王党派の密会)で、本筋を一時中断し、「作者」と「出版者」という対話を挿入する。この「政治」の介入で、元々のジュリヤンとマチルダの本筋から離れていく。

 政治とは、文学の首にくくりつけた石のようなもので、半年もしないうちに文学を沈没させてしまいます。想像力の楽しみのただなかに政治を持ち出すのは、コンサートの最中にピストルを撃つようなものです。
(p319)
 「だが、もしあなたの登場人物たちが政治の話をしないとすれば」と出版者はいった。「それはもはや一八三〇年のフランス人とはいえないし、あなたの本だって、もはやあなたが自負していらっしゃるような鏡ではなくなってしまう…」
(p320)


最後は、また記憶力と直結した想像力について。ここではジュリヤンはラ・モール侯爵の密命の途上でストラスブールにいる。

 それは、これまでいつも、輝かしい成功に満ちた未来図を描き出してくれていたあの豊かな想像力が、いまや冷酷な敵になってしまっているからだった。
(p351)


ちなみにこの密命の旅(プロイセンまで行った模様)のメス近郊の村で、以前登場した様々な人たちと出会う。歌手のジェローニモと偶然同宿し、そこで密書を睡眠薬?で奪おうとしてきた相手は上巻でピラール神父を追い出したカスタネード神父だったし、このp351の文の後には、ロンドンで「相手が期待していることの逆をやれ」と教えたロシア貴族のコラゾフ公爵がまたもジュリヤンに助言を与える。
(2020 04/13)

死の前の嵐


「赤と黒」もいよいよ佳境。マチルダが妊娠し、ストラスブールの軍隊に入った(ナポレオンに追われた貴族の末裔ってことになってるみたい)ジュリヤンだったが、レナール夫人からジュリヤンのことを書いた手紙(身分調査の回答みたいなもの)が来て、その内容にジュリヤンは憤慨し、教会のミサ内でレナール夫人を撃ち殺そうとした(夫人は無事)。で、ジュリヤンは囚われている。という状況。

 彼の一生は結局のところ、不幸にたどりつくための長い準備期間にすぎなかった。
(p478)
 罪を犯して以来、ジュリヤンにとって一番つらかったのはこのときだった。ジュリヤンは死の醜い姿を目の当たりにしたのだった。魂の偉大さや気高さといった幻想は、嵐を前にした雲のように、たちまちのうちに吹き飛ばされてしまった。
(p488)


下の文は死を間近にしたかっての司祭と会ったときのもの。この広がった筋の全てを終わりにするのは死しかないのか。
(2020 04/14)

幸福なる少数者(To the happy few)

ジュリヤンの裁判が始まる。

 数日来、もはや宿屋に空室はなかった。裁判長のもとには傍聴券を手配してくれないかという頼みが押し寄せた。町じゅうの貴婦人が裁判を傍聴したがり、通りではジュリヤンの似顔絵を売る売り子の声がこだまするという騒ぎである。
(p528)


この時代、既に商売気が浸透してきた…というか、古代・中世通じて裁判とかいうのは、人々の気晴らし、娯楽であった。そういうのに抵抗感持ち始めたのが、逆にこの時代?

ジュリヤンはもうレナール夫人のことしか愛していない。人を愛せば救われる、というが自分はどうだろうか、とジュリヤンは自分に問いかける。
(神は復讐深い聖書の神ではなくて、公明正大な神である。その神になら自分は我が身を投げ出す、とジュリヤンは言う。これは神のいなくなった世界の機械じかけの存在そのものか)

 …一人の猟師が森の中で猟銃を撃つ。獲物が倒れる。猟銃はつかまえようとして駆け寄る。そのとき彼の靴が高さ二尺の蟻塚にぶつかって、蟻のすみかを壊してしまう。蟻たちや蟻の卵が遠くまで飛び散る…。蟻たちの中で一番の哲学者にも、この暗黒の、法外な、恐るべき物体がなんであるかは決してわからない。猟師の長靴が、突然、信じられないほどの速さで彼らのすみかに侵入してきたのだ。その前にはものすごい物音がとどろき、赤い火花が散って…。
 …そんな風に、死も、生も、永遠も、それを認識できるだけの巨大な器官を備えたものにとってはごく単純なものだろう。
(p577)


このジュリヤンの地下牢の意識の逡巡では、スタンダールの名言ぶり?が絶好調なのだが、そんな中の一つ。ジュリヤンという人物には正直自分には納得できないところもあるのだが、こうして様々に移り変わる意識には引き込まれてしまう。ジュリヤンにとってこの長靴は、自分の外から来たものなのか、それとも内側から訪れたものなのか。

そして死刑執行の当日、地下牢から外に出たときのジュリヤンは…

 外の空気を吸いながら歩くと、まるで長いあいだ海にいた航海士が地上を散歩するように楽しい気分を誘われた。
(p589)


「赤と黒」は1830年、同年の革命と並行して書かれた。1827年のベルテ事件、1829年のラファルグ事件というのがジュリヤンの直接のモデル(特に前者はだいたい小説の筋書きに合っている)なのだが、スタンダール自身の恋愛経験も年表見てるとそこに重なってくる。
同時代のユゴー「エルナニ」やチマローザのオペラ等、スタンダールの愛した芸術の引用。しかし、章の冒頭に置かれたいろいろな人の言葉からの序詞は、実はだいたいがスタンダールの創作なのだという。

後に「第二の性」でボーヴォワールがスタンダールを「古典文学において女性を「客体」ではなく「主体」として描いた稀有な例である」と述べている、とか。
とにかく、今回はじっくり読み切れた。スタンダールに「幸福なる少数者(To the happy few)」(原文英語)の仲間入りを認められてとりあえずほっとはしている。
とりあえずね。
(2020 04/15)

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