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「言語 ことばの研究序説」 エドワード・サピア

安藤貞雄 訳  岩波文庫  岩波書店

序論から気になるところ


痛くて叫び声あげたり、あるいは擬音語などが、言語の始まりであるという説をサピアは却下する。後者はルソーとか言ってなかったっけ? あるいはヴィーコは?
言語と思考の関係。言語なき思考は存在しないが、思考なき言語は普通にあり得る。というのがサピアの考え。これは思考の定義とも関連するけど、ただただ字面を追っているだけでもなんらかの精神の動きはあるとは自分は思う。

 事物や関係についてのすべての経験を表す記号目録を作成できるようになるためには、まずその前に、われわれの経験世界が大幅に単純化され、一般化されなければならない。思想を伝えることができるためには、まずその前に、この目録が絶対に必要である。
(p28)


「その前に」か。最後の文はそうだと思うけど、前半の「その前に」はどうか。記号目録作ってから事後で割り振ったということもあったとは思う。だけれども、ここでサピアが言っているように、大きなところでは、最初に人間社会を通してなんらかの「縮減」単純化が起きたのか、と考えるのは有意義なことだろう。

 思考の記号的表現は、場合によっては、意識の外べりからはみ出すことがあるので、自由な、非言語的な思考の流れもありうるという感覚は、あるタイプの精神にとって、比較的に-ただし、あくまでも比較的にすぎないが-正当な感覚ではないか、と考えていいのかもしれない。
 なにしろ、思考が、ことばと手に手をとって走るのではなく、水面化にある、ことばの波頭にふわっと乗っかっているだけなのだ。
(p34)


ここで自分は、「ヤコブソンコレクション」でヤコブソンがアインシュタインのケースを紹介してたのを思い出した。

ヤコブソンが挙げているのは、アインシュタインが意外にも子供の頃言語発達が未熟だったということ。彼にとって、物事とか考えとかは、言葉でするものではなく、直感的に何かが降りてくるというようなものだったらしい。今では、人間の思考は言語によって行われ、そしてそれに縛られているという「言語学的転回」が主流となっているが、それらの反証例となるのか。
(参考 平凡社ライブラリー「ヤコブソン・コレクション」から第11章 「アインシュタインと言語科学」)

ヤコブソンからサピアに戻って

 正常な個人の場合、ことばを話したいという衝動は、まず聴覚イメージの領域で生まれ、ついで、音声器官を制御する運動神経に伝えられる。
(p36)


これも断定していいのかな、とも思う箇所。叫び声や擬音語が言語の前段階ではない、と言った以上はそうなのかもしれないが。
(2021 09/19)

第2章「ことばの要素」

…語、文の分析。語に関しては、心理的には実在するが、機能的には定まったものは存在しないという。

 singには、一般化された観念以上のものを伝えていることを示す外的なしるしはないけれども、これには、付加された価値が、変化しやすい霧のようにまとわりついているのが、確かに感じられる。
(p51)
 単一の語幹要素や文法的要素は、孤立した概念の担い手であるから、言語ごとに比較することが可能だけれども、できあがった語はそうではない。語幹要素(あるいは文法的要素)と文-この二つがことばの主要な機能的な単位である。前者は、抽象された最小限の単位であり、後者は、一つのまとまった思想を審美的に満足のいくように表現化した単位である。語はことばの形式的な単位として、ときにはこの二つの機能的な単位のどちらか一方と同一であることもある。しかし、より多くの場合、両極端のあいだの仲介をして、一つ(以上)の語幹観念と、同時に、一つ(以上)の補助観念とを具現化している。
(p59)

語は単純な分割されたもの以上のものを持つというのか。

 語を分割していくと、必ず意味の混乱が生じる。切り離された部分の一方または双方が、無力な浮浪児となって、手元に残ってしまうからだ。
(p62-63)
 幸か不幸か、専制的なまでに整合的な言語は一つもない。あらゆる文法は水漏れするのだ。
(p68)


モダリティ(話者の信条を載せる)の抑揚・アクセントや、語に寄せる感情などは、語や文の認知的機能に付属する二次的機能にすぎない。
(2021 09/23)

 予定された方向には自由に拡大するが、制御するパタン化のタイプがないために、ある方向へは大いに制御されるという、こうした形式そのものへの感情は、現在理解されているように思われるよりも、一段と明確に理解されなければならない。
 明確な形式に向かう、この二つの(音声面と文法面の)水面化に隠れてはいるが、明確な形式に向かって強力に制御しようとする衝動は、ひたすら衝動として作動し、特定の概念を表現する必要にも、特定の概念群に整合的な外形をあたえることにも目もくれない。
(p106)


ここで出てきた「衝動」は、ドリフト(駆流)と同じなのか。機能面においては。
(2021 09/25)

第5章「言語の形式-文法的概念」

 ただ、「農夫」と呼ばれる種類のひとは、農場での作業と密接に結びついているので、いつもそういう仕事をしているのだ、と慣習的に考えられている、ということを示しているにすぎない。実際は、そのひとは町へ行き、なんでもいい農作以外の仕事にたずさわるかもしれない。
(p143)


農夫そのものが議論されていないことにより、彼は単に「農夫」というレッテル貼られた人物になっている。そこが日常会話的には落とし穴にもなりかねないし、小説等の表現媒体であるならば、ここにいろいろ策を詰め込むことができる(例えば一見するとわかりやすく見えるけど、皮肉と批評が折り畳められている詩作品にこうしたものを利用したものがある)。
(2021 09/27)

 言語は、完全に排他的な整理棚をもつことを主張し、あちこち、ほっつき歩く浮浪者は一人も許容しようとしない。表現を必要とする概念はおしなべて、言語の分類規則に従わなければならない。それは、ちょうど、統計調査では、もっとも確信犯的な無心論者といえども、いやおうなしにカトリックか、プロテスタントか、またはユダヤ教かのレッテルを貼られ、さもなければ、自分の意見を聞いてもらえないのと同断だ。
(p169)


この文章の前半は文法規則について述べているところで、現在の自分の緩やかな変動する言語観とちょっと違う部分を述べている…サピアは多分アメリカの社会についてこういう例を出してきているのだろうけど、現時点でも彼の地ではそうなのかな。最初に読んだ時には気づかなかった「同断」という単語も気になる。

 ラテン語の文は、その成員が独りひとり自信をもって語っているが、英語の語は、その仲間からのせりふ付け(プロンプティング)を必要としているのだ。
(p189)


ラテン語の単語は様々な格や時制を取り、その単語一つだけで状況がある程度限定される。英語はそこから崩れてきて、他の単語や要素(語順とか成句とか)で補っている。
(2021 10/03)

 あらゆる言語において、関係を示す原理のうちで語順がもっとも根本的であることが、いずれかの段階で露わになってくる、という重要な事実をわれわれに深く悟らせるのである。
(p200)
 大多数の言語は、この命題の二つ(主題と叙述、名詞と動詞)の項のあいだにある種の形式的な障壁を設けて、この区別を強調してきた。
(p205)


第5章「言語の形式-文法的概念」終了。サピアという人は、言語(その周辺概念を含む)というものを、あらゆる言語学者の中で一番根本から考えていたのではないか、と今は思う。
(2021 10/04)

第6章「言語構造の類型」

 言語は徐々に変化するばかりではなく、整合的に変化するのであり、無意識的にある類型から別の類型に移っていく。しかも、類似の傾向は、地球上の遠く隔たった地方でも観察されるのである。
(p209-210)
 ただ、歴史の表面の背後に強力な偏流があって、他の社会的な所産と同様に、言語をバランスのとれたパタンへ、つまり、類型へおもむかせるのだ
(p210)


サピアの提案する言語分類(解説によれば、サピア自身においても、その後においても、これらが発展利用されることは少なかったという)
A…単純な純粋関係的言語(1と4のみ)
B…複雑な純粋関係的言語(1と2と4)
C…単純な混合関係的言語(1と3…4は3に吸収される)
D…複雑な混合関係的言語(1と2と3…4は同上)
(1…基本(具体)概念、
 2…派生概念(接辞添加、語の内部変化)、
 3…具体的関係概念(2と同じく接辞添加や語の内部変化によって表されるが、違いは3の方は添加されている当の語を超えて他に及ぶこと(解説p428参照))、
 4…純粋関係概念(数・性・格、語順等)

基本、AとB、CとD、この間の断絶があって、それからAB内、CD内での区別があるという。
これらの偏流、これからの言語変化、その記述を蓄積して「根底にある偉大な基本図を読みとることができるかもしれない」とサピアは考えている。全くの想像だけど、こうした考えの延長線にチョムスキーが位置しているのかもしれない。
(2021 10/10)

第7章「歴史的所産としての言語-偏流」

サピアの中で一番知られた「ドリフト」の話。

 もしも、この言語の偏流が、水平に(すなわち、日常経験において)見られたのではなく、垂直の眺望において(すなわち歴史的に)見られた、おなじみの個人的変異の集合にとどまらないとするならば、それは、いったい、何であろうか。
(p266)


ここから例の「Whom did you see?」についての二十ページもの考察が始まる。この「whom」が違和感あるのは、形式上の類別化(同じグループのwhichやwhatは目的格も同じ形)、習字的な強調(疑問詞が冒頭に来るときには強調が置かれるが、不変化詞ではないwhomに強調を置くと違和感を生じる)、語順(目的格を語頭には置かない)、アクセントの問題、を挙げている。

 言語の偏流のもっとも油断のならない特異点の一つは、偏流が行く手をはばむものを破壊できない場合には、その邪魔物が古くからもっていた意義を洗い流して、それを無害にしてしまうことである。当の敵を味方にしてしまうのだ。
(p286-287)


(2021 10/11)

第8章「歴史的所産としての言語-音法則」

 すなわち、音法則とは、自然発生的な自動作用で作用するものではなく、心理的にさらされた一点に始まり、音声的に類似した形式の全領域に徐々に忍びこんでいって、ついに仕事を完了した偏流を定式化したものにほかならない、という事実である。
(p309)


英語の音変化は、長母音iがeiを経てaiへ、また長母音oが後にくるiの影響で長母音のeに変わったというもの。「time」が「ティーメ」から「タイム」になったのは前半の変化によって生じたもの。そしてこの音変化は、2、3百年遅れてドイツ語でも対応する同じところで起こっている。両者には直接の関係は存在しない。

 わたしは、どちらかと言えば、音声学と文法を相互に無関係な言語学の分野として分離させる現代の傾向は不幸である、と考えている。両者のあいだには、まだわれわれの十分に把握していないような根本的な関係が存在する公算は大きいのである。
(p319)


最後の方は、英語とドイツ語で起こった母音の音変化が、英語では複数形の形式単純化(sをつける)というもっと強い偏流に流されて消えかかっているのに対し(footと feetなどに残る)、ドイツ語ではウムトラウト(aとか oの上につく点の文字の発音)として強い偏流たり得た、という違いの説明。ドイツ語よりそこから派生したイディッシュ語ではその偏流がもっと強く起こっている(俗語だとそういう変化が強まるのか?)という。
(2021 10/16)

第9章「言語はいかに影響しあうか」

 ある言語が外来語の存在に対してどのように反応するのか-つまり、拒絶するのか、翻訳するのか、それとも自由に受け入れるのか-についての研究は、その言語に内在する形式面の傾向に、多くの貴重な解明の光を投ずることができる。
(p341)


サンスクリット語の影響についての、カンボジア語(受け入れ)とチベット語(拒否)の例。

 言語は、おそらく、あらゆる社会現象のうちでもっとも自足的で、もっとも大きな抵抗力のあるものである。言語の個々の形式を崩壊させるよりは、いっそ言語自体を絶滅するほうが容易なのだ。
(p356-357)


第10章「言語と人種と文化」

 言語変異の道筋、その偏流は、歴史的先例によって定められた水路を容赦なく流れていく。川の進路があたりの風景の気分に無頓着であるように、言語は、話し手の感情や情緒に無頓着である。
(p376)


この章の最後の節の3ページは、いわゆる「サピア=ウォーフ仮説」の問題を取り上げて、否定はしていないが「真の興味をひかない」としている。がこの本の後の時代では、もっと直接的にこの仮説を支持する文章を書いている。サピアに興味の変遷があったのか。

第11章「言語と文学」

クローチェの「文学作品は決して翻訳することはできない」を引きながら、バッハやシェークスピアのような普遍的体系を持つやや翻訳されやすいものと、ショパンとかスウィンバーンのように翻訳不可能性が全面に出てくるものもある。あと、言語とそこから出る文学について依存関係(高度な文学は高度な言語からしか生まれないというような)を否定している。

あと、解説では一箇所、サピアは現代生成音韻論の先駆者として知られ、チョムスキーが「言語理論の現代の諸問題」においてそれを明言している、という。暗渠通り越して大河だな…
(2021 10/19)

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