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「赤と黒(上)」 スタンダール

野崎歓 訳  光文社古典新訳文庫  光文社

西荻窪音羽館で上下合わせて購入。
「赤と黒」は高校生の時、「変身」で海外小説に目覚め、「老人と海」、「異邦人」など(それなりに)呼んで、その次辺りに挑んだ長編(ちなみにその時は新潮文庫)…だけど、すぐ挫折。ドストエフスキーとか、パール・バックの「大地」とかは楽しく?読んだので、「相性が…」ということにしておいた。
あれから30年以上経ち、いい加減に再挑戦…

「赤と黒」の気になる伏線

さて、その内容…

 とはいえ、関心のなさそうな、陰気なむっつり顔で町長の言葉を聞いていた。この山間の人々はそんな表情でずるい考えを隠すのが得意なのだ。スペイン人の支配下に隷属を強いられた住民は、エジプトの貧農のようなその表情をいまだに失わずにいた。
(p35)
 情熱に燃える心とともにジュリヤンは、驚嘆すべき記憶力をも持ち合わせていた。ただし、記憶力はいいが愚か者、という例も多々あるのだが。
(p44)


ジュリヤンはどっち?後の伏線?
伏線といえば、老軍医から聞いた、外科手術の話で「自分だったら眉毛も動かさないで手術を受けられる」とジュリヤンが考えるところがあるのだけれど、これなんか伏線の典型例だね(ほんと?)
第5章のラストで、レナール夫人が、ラテン語の家庭教師に対して子供達をいじめるのではないかという恐怖を感じているところは、次の章でのジュリヤン(家庭教師)との出会いを両者にとって印象深いものにする下準備。

 ジュリヤンにとって出世とは、まずヴェリエールから出ていくことだった。彼は故郷を憎悪していた。そこで目にする何もかもが彼の想像力を凍りつかせた。
(p51)


(2020 03/23)

ナポレオンとジュリヤン

 ジュリヤンは巨岩の陰で一息入れ、また登り出した。道路のほとんど消えかかった、ヤギの番人しか通らない細い道を進んでいくと、まもなく巨岩のてっぺんに出た。あらゆる人間たちから切り離されて、彼はただ一人、その上に立った。物理的にそうした地点に立ったことが、彼をほほえませた。それは彼が精神的に到達したいと熱望している地点を描き出していたからだ。
(p126)


今日読んだところでは、後にもう一箇所、p143のところで似たような、ジュリヤンの心の高揚、レナール氏や夫人始めさまざまな他人のところでは決して味わえない高揚感を感じている。そこでは「自由」とそれが名付けられている。
この後、友人で材木商のフーケなる人物のところへ行き、一緒に商売をしないか、司祭になるとしてもコネはそこでつけられるし、と言われる。「野心家」のジュリヤンはそれを断るが、心の片隅では臆病なところがあって、この提案も考えておこう、ということになった。小心というか複雑というか、敬愛するナポレオンはそうだったのか?とジュリヤンに言ってみたいけど、意外にナポレオンもそうだったのかも。

さてさて、ジュリヤン始めこの時代(1830年)の若い年代のナポレオン信仰というのが、後代の自分にはよく分からないのだが、解説読むと「セント=ヘレナ日記」というナポレオンの日記、フランス革命は正しく、そしていまだに続いているのだ、とするこの内容が、皇帝時代の悪評をそそぎ落とし、この時代の青年たちを捉えたのだ、とある。
さてさて、ジュリヤンという主人公、読者が感情移入するにはちと疲れるのだが・・・
(2020 03/24)

上巻半ばのクライマックス?


…と、思えるようなところ突入。ヴェリエールの国王巡幸、国王に祝福を与える司教の意外な若さに驚き憧れてしまうジュリヤン、末息子の病気に自分のジュリヤンへの恋という罪を感じてしまうレナール夫人、そしてそれに気づいて妨害するために長い手紙をレナール氏に送る小間使いエリザと成り上がり者ヴァルノ氏…

「小説にでも出てくるような考えだ」というレナール氏、この時代にもメタフィクション的な技法は多い。ジュリヤンがいて監視してくれないと、秘密の恋を夫に告白してしまいそう…というレナール夫人。

そういえば、小説タイトルの「赤と黒」なのだが、赤=軍人、黒=聖職という図式、今読んでる国王巡幸の場面では、この図式がぴったり当てはまる。でも、小説最初の頃にジュリヤンが思っていたようなこの二つの対立図式が、だんだん後の方になるにしたがって、曖昧になっていくような…でも、もう一つのタイトルの意味説明で、ルーレット(赤黒)でいちかばちかチャレンジする…というのはなんか違うような。挑戦家というより陰謀家に近いよね、ジュリヤンって。
(2020 03/26)

ジュリヤンの心情と語り手の介入


第21章

 というのも田舎では、夫の意見が世論となるからだ。我が身を嘆く夫はもの笑いの種になる。しかしこれはいまやフランスでは日々、より危険なことでなくなりつつある。ところが妻のほうは、夫が金を与えなくなれば、日給十五スーの雇われ女に身を落とすほかない。
(p263-264)


夫と妻の差異。このテーマは第22章のレナール氏の発言など、この後も度々出てくる。
(2020 03/27)

第22章

 ジュリヤンはレナール夫人を思った。相手を信じきることのできない彼には、このようにだれかと比べてみたとき、初めて夫人の記憶がよみがえってきて、感動のあまり胸が熱くなるのだった。
(p272)


レナール夫人がジュリヤンを一旦遠ざけて、ジュリヤンはヴェリエールのヴァルノ氏等いろいろなところへ顔を出す。貧民収容所所長のヴァルノ氏は、レナール町長の下で頭角を現し、いまや町長を追い落とす勢い。レナール家よりもっと下世話じみた彼の家の宴会?でジュリヤンは散々嫌な気持ちになる。その時の文章。なんか「恋愛論」にでも載ってそうな。恋愛は比較から生まれる?

で、この家の隣、貧民収容所で唄声が聞こえてきた時、ヴァルノ氏は召使をやって黙らせる。その上自分達は王党派の歌を歌う、といった展開にジュリヤンは我慢ならない。涙まで流し、「ナポレオンの時代だったら…」とつぶやく。ジュリヤンの青年らしさに今までとは違う展開を見ていると、そこで、語り手の横ヤリが「白状するがこんなジュリヤンを私は高く買えない」と入る。語り手がこんなに介入してくるのは小説冒頭以来ではなかろうか。

というわけで、ヴァルノ氏に閉口させられたジュリヤンであったが、レナール氏に会えば会ったでまた傲慢さが目につく。そんなレナール氏に一種の同情心まで持ち、またそれを否定するジュリヤン。筋としては一気に読める展開な小説だけど、登場人物の心情はいろいろ細かく、読み飛ばすと後で痛い目にあいそうな、そんな厄介な?「赤と黒」。高校時代つまずいたところまでは通過した?

でも、語り手とスタンダール自身も完全にイコールではない気が…
(2020 03/28)

「赤と黒」上巻終了と作者の感情移入

 しかしジュリヤンがつゆ知らず、周囲も教えずにいたことは、神学校での教義、教会史等々の授業で一番になるのは、彼らにとっては派手な罪でしかないということだった。ヴォルテールこのかた、そして二院制のもとの政治が誕生して以来、それは要するに、猜疑心と個人的探究にほかならず、疑うという悪習を民衆の精神に植えつけるものであって、フランスの教会は、書物こそは真の敵であると悟ったようだった。
(p350)


「猜疑心と個人的探究」というのが並列であるのが、現代からみると逆にしっくりしないところであるのだが。それにしても、授業で好成績だと罪(周囲がどう思うかとかいう問題ではなく、公にも)というのはいやはや…

上巻最後は、ジュリヤンがパリに行く為にヴェリエールを去る時に、「勇敢」にも梯子を立てかけてレナール夫人の部屋に侵入するところ。

 〈暗い夜だとはいえ、猟銃で撃たれるかもしれない〉とジュリヤンは思った。そう考えると、馬鹿げたふるまいが勇敢な行為のように思えてきた。
(p425)


周りにとっては「いい迷惑」なんだけど、こういうのが「歴史を動かす」んだよな。そして当然の帰結として猟銃?を発砲されながら、ジュリヤンは第二部パリへと移っていく。
…このジュリヤン・ソレルという主人公、古今東西の小説主人公のうち、作者からの感情移入が異様に少ない部類に入るのではなかろうか、と思う。
(2020 04/04)
(上巻読了は2020 03/30)

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