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「インド洋海域世界の歴史 人の移動と交流のクロス・ロード」 家島彦一

ちくま学芸文庫  筑摩書房


インド洋では10月から3月までの北東からの風、4月から9月までの南西からの風に合わせて航海を行い、またそれに合わせ内陸のキャラバン隊も動いていた。ただ、インド洋海域では6月中旬から8月中旬の間は、暴風雨が続くため航海は中段、ダウ船を陸揚げして修理したり、アラビア湾では真珠採りをしたり、ナツメヤシの実の収穫を手伝ったりする。
イスラーム勢力が支配的なアッバース朝時代には中国までイスラーム商人が活動していたが、10世紀からファーティマ朝のフスタート・カイロに中心が移ったことなどから、中国船ジャンクがマラッカまでを活動領域にしてそこが境界となった。
ダウ船は、他のさまざまな名前を併存させて、各地域で主に働くダウ船をそれら別名で呼ぶことも多い。
著者家島氏は、1970年から7回現地調査を行っているが、序の最後に1978年のモンバサ港でダウ船がほとんど来なかったことを書いている。これは象牙、動物皮革、剥製、マングローブ材などの取引・伐採が禁止されたことによる(他にも理由はあるが)。この変化はまたこの本の最後で呼び出されることはあるのだろうか。
(2021 09/13)

第1章「インド洋海域世界とネットワークの三層構造」


長距離交易ネットワークの成立要因3つ。
1、自然地理環境と生態系の条件
2、人間の移動・拡散
3、中心文明と周縁文明の関係
このうち、ここで注目したいのが真ん中の人間の移動・拡散の条件。通常?は2と3が一緒にされて論じられるような気がするが、家島氏はそこを分離することで、人間とはそもそも移動・拡散するものだ、という認識があるようだ。

 ここで留意すべきことは、経済交換の原則は生産の余剰にあるのではなく、遠隔地間の生態系条件の多様性とそれによって生まれる生産性の質、種類、量、時間などの違いを相互的に補完しようとする交換関係として捉えるべき点にある。
(p45)


ここでも、上で述べた人間とはそもそも移動・拡散するものだ、という認識が貫いている。余ったから初めて売りに行くわけではなく、ないものを自ら動いて補完しようという動きが大前提にある。

続いてインド洋海域世界の三層構造。インド洋西海域世界ネットワーク、ベンガル湾海域世界ネットワーク、南シナ海海域世界ネットワークの3つ。なのだけれど、南シナ海圏はもはやインド洋ではない。と思うのだが、もちろんベンガル湾海域世界の東端であるマラッカ海峡は南シナ海海域世界の西端。陸地でもマレー半島で隣り合っており、西側(イスラムやインド)からも東側(中国)からも双方向に行き来がある。この本では南シナ海海域世界はどこまで触れられるのだろうか。
続けてちょっとだけ。p62-63の年表をざっと見て、「変動期」とある斜線でグラフにある時期は、だいたいが気候変動を伴っている。また8世紀の初めくらいからイラン・アラブ系の船が中国貿易に訪れている。家島氏によればこの時期以前は「前インド洋海域世界の時代」これ以降は「インド洋海域世界の形成と展開」と位置づけている。
(2023 10/17)

第2章「インド洋交易ルートの繁栄-唐とアッバース朝を結ぶルートと港」


バクダードから川を下り海に出るが、その辺りは堆積物の浅瀬で大型船は航行不可能なので、イラン側のスィーラーフ、ホルムズやオマーン側のスハール、マスカトなどペルシャ湾出口付近の港で平底船から大型船に載せ替える。
そこからはインド大陸沿いに行くコースと真っ直ぐ海洋を行くコース、どちらもクーラム・マライ(現在のクイロン)でシナ船(ここではシナ行きの船ということで、中国人が管理していたのでなく、現地のイラン系、ソグド系(中央アジアから)、ユダヤ系の商人が仕立てる船)で東南アジアや東アジアへ。またクーラム・マライから一気にアデンまで行き、そこからアラビア半島沿いに行くコースもあった。またベンガル湾からビルマ-南詔国を通って中国に行くコースもイスラム商人には知られていた。

一方、唐では黄巣の乱によって拠点広州の外国居留民12万人を殺戮、これによりアラブ・イラン系の船の交易活動は一時的に途切れるが、同じくこの時期から中国人によるジャンク船が南シナ海に出ていき、南宋から元初にかけてクーラム・マライやカリカットまでたどり着く。そしてそこを越えたのが、明の鄭和の大航海。
(2023 10/21)

第3章「インド洋全域をゆくスィーラーフ系海上商人」


十世紀前半のスィーラーフについてのイブン・ハウカルの言葉。

 スィーラーフの住民の多くは、建物を造ることにとくに金を多く費やし、ある商人は自分の邸宅を造るのに三万ディナール以上を出費したほどであるが、それでも人びとから浪費のしすぎだと言って非難されることはない。
(p118)


スィーラーフは背後に山地があり、そこからのいくつかの水源がこの繁栄のもととなった。スィーラーフではムスリム始めユダヤ教、ネストリウス系キリスト教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教などの諸宗教、そして様々な出身地の人々が集まっていた(共通語はペルシア語らしい)。そして、その社会構造はインド洋沿岸にある各交易港においても共通に見られる特徴。
それら各交易港には共通する文様等の陶器が出土している。これは元のスィーラーフから運ばれてきた(前に後藤健氏の「メソポタミアとインダスのあいだ」で見たような、現地で作られ始めた形跡とかはないのかな)。この陶器は博多の太宰府鴻臚館跡の発掘で見つかっているという(前に福岡行った時に鴻臚館跡の史料館見たことある)。そして、その大元はサーサーン朝の技術がアラブの大制服で伝わったものらしい。

そんなスィーラーフも、ザンジュの叛乱、イスマーイール分派の反アッバース朝運動、ブワイフ朝の軍事的進出などにより、ペルシア湾岸とインド洋世界が分断され、スィーラーフ都市社会も十世紀後半には退廃が目につくようになり、そして977年前後の地震によって終わりを迎える。
どうやら、次の第4章は、このスィーラーフが衰退していく時代の海外移住の話らしい。
(2023 10/24)

第4章「スィーラーフの衰退と海外移住」


というわけで、十世紀後半からのスィーラーフ衰退期の話なのだが、一説によるとしばらくは繁栄したという。ブワイフ朝の支配下では少なくとも交易量は増加している。また、スィーラーフには商業とともに地場産業も多数あって、当面はその比重が高くなる。ただ、イラン内陸部との交通が治安悪化で遮断され、またその内陸部のサーマーン朝が滅亡する十世紀末には衰退は避けられなくなってくる。
スィーラーフ商人達の移住は、自身が構築したネットワークをつたって行われる。イエメンのアデンに移った例、ホルムズ海峡の小島キーシュ島に移った例など。
(2023 10/26)

アデンでの郊外の山で近づいてくる船を見つけてから、艀で船に近づいての調査と検査、そして実際の荷揚げ(商品にかかる税の他、海峡付近の警備船税、商人宿整備などの税など、5種の税がかけられたという)。ジッダ(メッカなどの外港)の島状のスィーラーフ商人居留地の城壁と、後のカーリミー商人(紅海対岸のアイザーブやスワーキンを拠点…この後第7、8章辺りで中心的に論じられるのか? とりあえず第5、6章はスィーラーフ商人の話題)の台頭による衰退。ハドラマウト地方(アラビア半島南岸)のミルバート港のスィーラーフ商人居留地(ここはまだ研究途上らしい)など。

索引、人名索引と地名索引と文献案内はあるけれど、項目の索引がないのかな。ナーホダー(船舶経営者および船長とp174にはあるけれど、もっと前に詳しい解説があったよな?)とかもう一度見たかったけれど…
(2023 10/29)

第5章「キーシュの発展と商業の独占」


キーシュ島の王家は、スィーラーフから交易の中心地の地位を奪い、他の様々な地域でも攻め入って港市を獲得した。そして、近くのホルムズとの争いが激化するとともに、地中海世界の十字軍の影響を受け、ここでもムスリムとキリスト教徒の共存に変化が見られる(のか、この辺はまだ予告)。

キーシュの支配層の三者。
1、クルド系シャバンカーラ族の遊牧戦士集団のジャーシュー。
2、通商航海民のカイサル家、十三世紀半ば以降にはサワーミリー家とホージャ・ネイン。
3、漁撈と真珠採集を専業とするアラブ系海士集団バヌー・アッ=サッファーフ。
(p202)


1に関してはこの章の論点の一つである遊牧民の海上交易進出及び、上で述べた攻め入ったりする時の中心を勤める。2は前々章から続いているスィーラーフ系の人々。3については家島氏は真珠採りと交易の関係を重視し、このペルシャ湾岸とイエメン付近、それからインド南西岸は、交易の中心地であるのと同時に真珠採りの中心でもあるという。
(2023 10/30)

後半はインド南西岸とアラブ側との交易品。元来は商品の流れは東から西へが多く、その逆に金銀が流れた。その差を縮めるように11世紀にアラブ側からインドへ流れたのが馬。キーシュでもホルムズでも馬が最大の交易品となる。馬はそれ以前、スィーラーフの時代にはほとんど見られなかった。この時代になると、インドの北から徐々に南の方まで、トルコ系アフガン系ムスリム勢力が進出してくる。それに対抗するため、古くから南インド海岸沿いに定着していたマーピッラ達から馬を輸入するようになった。

 マーピッラは、政治的権力や軍事力によって南インドに侵入・占拠したり、また強制的に改宗させられた集団ではなく、ペルシア湾沿岸や南アラビア地方の航海者・商人たちが、海運と貿易の関係を維持していくために居住し、ヒンドゥー女性との通婚によって生まれた子孫やナーヤル、ヴァイシャ、キリスト(ギリシア正教派)、ネストリウス派教徒たちからの一部改宗者たちを含めて、徐々に形成されていった。したがって、インド・ムスリム社会の一部を構成するマーピッラはヒンドゥー社会の習慣と秩序を尊重する気づかいをもち、長期にわたってヒンドゥー系の諸王侯たちのもとに従属し、経済的関係を維持してきたのである。
(p216)


現地女性との通婚というところでは、先月読んだ「海の東南アジア史」のユーラシアンなどと共通する。マーピッラのその後含めてもっと深掘りしてみたいところ(ちょっと見た「地球の歩き方 南インド編」によると、クーラム・マライ(クーロン)にはユダヤ教徒が若干いるとのこと)。交易品では、馬の他に前にも出てきた真珠や奴隷(南からだけでなく北からも集めた)など。最終的にキーシュは(新)ホルムズに吸収されてしまう。
(2023 10/31)

第6章「アデンを根拠地としたスィーラーフ系豪商の行動」


1135年、キーシュの王がアデン攻略に向かい湾を閉鎖した時に、アデン開放に貢献し、メッカの炎上したモスクの門やカアバ神殿の布を寄進した、スィーラーフ系の豪商ラーマシュト。イブン・ハウカルの「パリ要約写本」にある書き込みの人物がアデンに会いに出かけたラーマシュトの息子。カイロで発見された「カイロ・ゲニザ文書」や中国宋の史料、それから前に読んだ「イブン・ジュバイル」のメッカ巡礼記にも、ラーマシュトの名前が出てくる。恐らく、同一人物か子孫親戚だろうと家島氏。

第7章「バーバル・マンデブ海峡をめぐる攻防」


バクダード-ペルシア湾地域から、イエメン-紅海-カイロ地域へ重心が移ったのは、これまでの章でも取り上げられたが、12世紀になると、地中海世界におけるイタリア諸都市が活発化し、カイロのファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝は、地中海を諦める代わりにカイロから先の地域にイタリア諸都市勢力を入れないように努めたという。しかし十字軍の時代、シリアやナイルデルタでは騒乱が続き、これによりカイロからナイル川を上り、砂漠を渡って紅海アイザーブに出るというルートが確立。このルート、後の時代に若きフロベールが通った道と重なるか。

 イタリア系都市商人の海上進出は、ファーティマ朝時代にみられた自由な交流舞台としての地中海世界を、国家・宗教・人種間の対立と抗争の場に変えていったのである。
(p256)


(2023 11/04)

15世紀前半、マムルーク朝はメッカやジッダを拠点として、紅海を通行する交易を独占しようとした(ヨーロッパ大航海時代のきっかけとなったのは、このマムルーク朝の貿易政策の変化だと家島氏は言う)。
一方、イエメンラスール朝では、この時期に前の厳しい税政策を変更し、またバーバル・マンデブ海峡を突破していく船(この時期から中国ジャンク船の技術や羅針盤などにより、インド西海岸の船がアデン等イエメンの港に立ち寄らないケースが増えてくる)を拿捕するための軍船を送る。この結果、ラスール朝は最後の繁栄期を迎える。

世界史的には、イタリア諸都市の黒海・カスピ海の植民が、ティムール朝やオスマン朝の勃興で途絶え始めている。西洋では羊毛織物などの製品を今までとは逆にイスラム世界へ輸出し始め、一方、インド・グジャラートの綿織物も盛んになり、技術の平準化と競争の激化が進行している。
(2023 11/05)

第8章「スルタン=マスウードのインド亡命」


イエメンのラスール朝の滅亡期(1454)。ラースル朝王家での分裂と他の家(ターヒル家)の三分裂状態。ただ、ターヒル家に勢いがあるのは明らか。章の冒頭で紹介される「キルワ王国年代記」によると、ラスール朝最後のスルタン=マスウードは、一回はキルワ王国に寄って援助を受けて巻き返したが、二回目は、キルワ王国内での情勢緊迫により援助が受けられず、インド、グジャラートのカンパーヤというところに亡命した…

 この事実は、流動する西アジア社会の〈受け皿〉としての役割をインド洋海域世界が演じていたからに外ならない
(p311)


インド洋海域世界は、西アジア地域の衝撃吸収の役割もしていたらしい。
(2023 11/06)

第9章「東からの挑戦-鄭和遠征分隊をメッカに導いたものは何か」


鄭和のインド洋遠征は計7回。1405-1431。第6回までが永楽帝時代、第7回は宣徳帝時代。そして、第3回まではカリカット(インド)までと慣例通りだったが、第4回(1412-1413)の時、中国船では初めてカリカットを越えアデンや東アフリカまで到達した。
家島氏は当然の如く書いているけれど、鄭和(その部下の一部も)ムスリムだったようだ。鄭和の父はメッカ巡礼経験者で、鄭和は第5回の時、泉州のムスリム専用墓地で航海の安全を祈り石碑を建てたという。鄭和自身は不明だが、彼の部下として乗り組んでいたムスリムの一部はメッカ巡礼も行ってきた、という。
(2023 11/07)

自分にとっては意外だったけれど、この頃起こったティムール朝もインド洋海域に進出してくる。モンゴルの内陸部ルートが政情悪化のため使えなくなると、第三代シャー・ルフはイラク・ペルシア湾ルートを抑え、拠点としたホルムズ(新)はこの時期最大の交易都市となる。また、カアバ神殿の布(キスワ)を献納し、ジッダ港の諸関税の徴収を禁止せよ、とマムルーク朝のスルタン=バルスバイに外交書簡を送っている。鄭和の遠征も第4回以降は全てホルムズを拠点とするようになった。

第10章「西からの挑戦-インド航路の鍵を与えたのは誰か」


ヴァスコ・ダ・ガマは1497年にリスボンを出発し、この年の11月末希望峰を回り、翌年4月13日に東アフリカマリンディに到着。ここで水、食料、薪木などとともに水先案内人を得て、4月24日、大陸を離れ直接インドのカリカット近くに到着したのは5月20日。
当時、マリンディの南にはキルワという王国があり、ジンバブエ経由で黄金や奴隷を交易し勢力があった。ガマの船団はこのキルワに寄らず、またキルワの影響下にあったモンバサでは立ち寄ったもののトラブルで水先案内人を得ることができなかった。ガマが水先案内人を得たマリンディは、この時期はキルワの勢力に押されていた。そこをガマは突いた形になった。

また、紀元後直後くらいからキリスト教徒が来て教会を建てていたインド南西海岸では、先述のムスリム商人マーピッラ、ユダヤ教徒、グジャラート系ムスリム商人に押されていた。またムスリム商人でもマラバール商人とグジャラート商人の間の競争が激化していた。ガマやその後のポルトガル人達は、東アフリカやインド南西海岸のキリスト教徒達に接近し、またムスリム間の競争を利用して、要塞を築き始める。そのうちムスリム側でも、ポルトガル人がインド洋海域交易圏を破壊を目標にしていることが認識され始める。

マリンディからガマをインドに導いた水先案内人は恐らくマリンディのグジャラート系で、彼は「新しい厄介者」をカリカット(マラバール)に届けてしまおうと考えたらしい、というのが家島氏の考え。あと、自分の疑問だけど、ガマやその他のポルトガル人にとって、当時東アフリカ海岸やマラバール海岸にいたキリスト教徒というのは実際どう映っていたのだろうか。キリスト教誕生から分岐してその後の交流もほとんどなかったから、同じ宗教とは思えなかったと想像もしてしまうのだが。
(2023 11/08)

第11章「マルディヴ諸島海民のメッカ巡礼」


ここからは通史的側面からテーマ別記述になる。まずは巡礼。
マルディヴ(まあ、モルディブ(笑))では、1165年から1799年まで計8回、スルタンのメッカ巡礼が行われた、と「マルディヴ王統史」にはある。最初のは、ムスリムに改宗した時、連れも食料その他もつけずに、やってきた一艘の船に乗ってメッカ巡礼に出かけ、そのまま帰らなかった…という話は、この辺り(インド南西海岸まで)に数多く伝わる改宗にまつわる伝説らしい。
この後のスルタンのメッカ巡礼は、もちろん随行者多数、商売も込みの世俗と宗教と王の威信形成が混じった巡礼。ただ、最初のスルタンと同じく帰ってこない場合や、巡礼中に王位を簒奪されたり、巡礼中に現地で天然痘に罹って多くの犠牲者が出たり、とろくなことがないように思えるのだが、それでも巡礼に行く理由は何なのだろうか(というか、この「マルディヴ王統史」の主張は巡礼などという贅沢?をすると失敗する…ということでもないような…ちなみにスルタン以外にも巡礼は多く行われていたという)。
(2023 11/09)

第12章「東アフリカ・スワヒリ社会の形成」


アラビア語の「サーヒル」は何かと何かの境目の地域のこと。西アフリカのサヘルも同語源。インド洋の季節風が夏と冬で定期的に反転するこの地域では、紀元前後の頃から西アジアと東アフリカを交易が行われていた(「エリュトゥラー海案内記」など。家島氏は、東アフリカスワヒリ社会の研究の論点として、内陸部バントゥー諸語の文化や人々との交流、インド洋海域交易圏とのつながり、他のサーヒル地域(上のサヘル地域の他、インドマラバール海岸や東南アジアマレー半島など)との比較という3点を挙げている。今のソマリアからケニア辺りの海岸部を別のアラビア語ではアザニアー(非アラブ地域)と呼ぶらしいが、この言葉聞いて思い出すのは、イーブリン・ウォーの「黒いいたずら」(最近新版出たらしい)のアザニア国。
(2023 11/10)

「スワヒリ」という言葉を地域名で使ったのはイブン・バットゥータが最初? この頃はモンバサ島の付近のみ
それ以前、もしくは同時代は「アジャムの地」(前述のアザニア、現ソマリア)と「ザンジュの地」の二分法。
スワヒリがモンバサ周辺からケニア以南の東アフリカ海岸地域を指すようになったのはイエメン・ハドラマウトの人々の進出後(15世紀以降)。
支配者のアラブ・オマーンの人々と、この時期来訪したポルトガル史料にはスワヒリの語は見つからない。18世紀イギリス人のインド政庁の時代になってスワヒリの語が出てくる。
アフリカ大陸内部でもソマリ族、ガッラ族の移動が見られる。気候変動などが理由という。
東西中心文明の変化、インド洋、南シナ海からの撤退、それによるインド洋海域諸都市間の競争や対立、多元化が見られる。

 ポルトガル人によるインド洋の海上ルートと貿易の支配は、十六世紀前半の約三十年間にわたって維持されたが、実際にはインド洋周縁部の地域社会と交流関係に根本的な変容を及ぼさなかったといえる。それは彼らがインド洋を隔てた地域間の共通文化・社会圏としての機能に関する十分な知識をもたなかったという欠陥を端的に示している。ポルトガル人による要塞の建設、海上ルートの封鎖や戦艦による監視にもかかわらず、インド洋海域世界の各地ではさまざまなな地域圏、社会圏が逞しく生きつづけた。
(p440)


自分的には、この時代のインド洋海域世界の人にとってポルトガル人の来航とは、ちょっとした闖入者でしかなかった、という認識なのだけれど、もう少し影響はあったのかな。

第13章「南アラビア・ハドラマウトの人びとの移住・植民活動」


1886年刊行のファン・デン・ベルク『ハドラマウトとインド島嶼部におけるアラブ人居留地』という本では、東南アジア(島嶼部、インドシナ半島双方)のアラブ人の大部分がハドラマウト出身者なのだという。
前章でも出てきたハドラマウトは、イエメンの東部、山脈が海岸すぐを通り、都市は海側から山を登った高原部にある。昔からの乳香・没薬・龍涎香の産地。在郷精神というか古代からの聖人と家系が強い場所。

この地域の移民は、ラスール朝の時代からぽつぽつ出てきたが、実際には14・15世紀頃から増え始める。この時期、ハドラマウト出身のウラマー達は、スワヒリ地域やインドで多く活躍する。インドではビージャープール王国のイスラーム思想運動の一旦をにない、ここからベンガル地域や東南アジアへ18・19世紀に移動する(家島氏は直前17世紀に何があったのかに興味があるらしい)。東南アジアでは、現地ムスリム支配者に取り入り、民衆にはスーフィズムを行き渡らせ、そして(意外にも?)ヨーロッパ側でも優れた行政官として働いていたという。インドネシアではアチェ戦争でオランダ側にハドラマウト出身のウラマーがいたという。
と、読んできて、むすびに、ペルシア湾軸のスーフィー教団(カーディリー教団、チシュティー教団、ナクシュバンディー教団)とハドラマウトのスーフィー教団が競合関係にあったと書いてある…それ知って読み進めていたらもっと面白かったのに…まあ、家島氏のレベルでは「常識」なのだろう…

 重要な点は、非常時における人間の移動と植民活動が広域的に多方面におよんだ結果として、平常時には商業、出稼ぎ、教育活動、巡礼、情報交換や儀礼・贈与関係などを通じて、各地域間に緊密な人的ネットワークの結びつきを維持し、たび重なる非常時における保護・逃避と隠匿の諸関係を保障していたことにある。
(p458)


やっと長い第1部が終わった…
(2023 11/12)

第14章「古代型縫合船ダウ」


釘などを使わず、板と板を縫い合わせる工法で作るダウ船。p498-501の写真や図でその作り方がよくわかる。この船は、ヴァイキングが使った板と板を重ね合わせる工法とも、中国のジャンク船とも異なる。これらを知った後でも、西インド洋海域ではダウ船を使い続けた。またマレー世界や東インド・スリランカ・マルディヴ、マダガスカルなどではアウトリガー船が使われ、これらの船もアラビア半島にやってきたが、島嶼部の浅瀬対策に特化したこの船も西インド海域では使われなかった。
ダウ船の材料の一つにココヤシがある。木材、繊維を縫合に使い、実は飲料・食料にする。ココヤシの原産地は西インド・スリランカ辺りで、そこからアラビア半島を経て、東アフリカへ、またナイル川へ、この両者が西アフリカサヘル地域へと向かって、ココヤシの栽培地が広がる。
(2023 11/13)

地中海や中国での釘を使った船との接触も多かったこの地域では、なぜそれ以降まさに現在に至るまで、縫合船が主に活躍してきたのか。鉄の原料の鉄鉱石、及び鉄の製錬で必要な燃料としての木々、これらがこの一帯では手に入れにくいという理由、また変える理由もなく、浅瀬等の難所も多かったのでという理由、などが挙げられるが、果たして他の理由はないのか。ちょっと考えてしまう。

第15章「ダウの装飾と儀礼をめぐって」


ちょっと気になるところ箇条書き。
ケニア、モンバサのダウ・ポートのダウ管理事務所で、家島氏は、1963年から1978年までのダウ・レコードという出入港の書類を調査した。この調査かなり面白そう。
船はそれ自体聖なるもので、船上で殺傷事件等が起きた場合、裁判は船上では行うことができず、入港後に海事裁判所で行う。また死体や死者の骨が積荷にあると船は転覆すると信じられていたので、なんらかの理由でこの手のものを持ち込む時はナーホダー(船長・荷主)に内緒で運び込む、という。
船自体が聖なるものなので、イスラム以前のメッカカーバ神殿の屋根はビザンツの商人の難破船からの廃材、キルワ(東アフリカ)のモスクも沈船の廃材から建設。
船首に鳥の目などが船全体を鳥に見立てた装飾がされることが多い。本書のカバー表紙にもそのような船の絵が。また前に読んだイブン・ファドラーンの「ヴォルガ・ブルガール旅行記」のルース人の船葬儀礼についても書いてある(あの本の訳者は家島氏)。

ダウ船を作る工程はよそ者には見えない隔絶した場所で行う。これも船自体が聖なるものである由縁。
航海中危険にあった時に神(こういう場合はアッラーではなく聖者)に願掛けするが、無事に帰ってきた時は、その聖者の庵の代理人が献金を徴収しにくる、という。結構シビアというかあけっぴろげというか…
嵐の時に突然現れたというアンダルス出身の老人、内密に乗船した彼は船への供物を食べて過ごしていたという。とその彼の話を聞いている間に海は穏やかになった、という話が興味深い。「三国志」にも似たような話があるが、中国版では航海がうまくいかなかったら殺された、というので大変さが増す。
(2023 11/14)

まず第15章続き
ヒズルとイリヤース(どちらも聖者、イリヤースの方はイスラーム以前の伝承に遡る)の祠。洞窟、泉、墓地、山の頂上、岩礁、島の先端、河口、中洲など、航海上の要点に作られ、参拝された。また聖者・スーフィー指導者として知られる人が船に乗っていた場合、嵐の時などその人が祈って遭難を救う。でも無事だったらやはりお布施を要求するという…
あとがきは、愛知県河和町の海を見て過ごした家島氏の子供時代の思い出他…
(2023 11/15)

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