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「黒いいたずら」 イーヴリン・ウォー

吉田健一 訳  新しい世界の文学  白水社

吉祥寺読みた屋で購入。

舞台は西欧列強が植民地獲得合戦を繰り広げていた、東アフリカの島のスワヒリ帝国。またしても、舞台自体に興味が湧く…軍隊の帰還の場面なんて、イメージが手に取るように展開する。でも、まだ小説の背景説明の段階かな。それに主人公と言われている人がまだ登場してないし…
(2011 09/29)

声から立ちのぼる小説


「黒いいたずら」、今日は90ページくらいまで進めた。
やっと、主人公(と、おぼしき)バシルが登場したが、ウォーの分身?という感じ。保守党の大物の息子で、でも、ロンドンに倦怠感を抱いている。なんかしでかしそうなコイツが東アフリカの架空の島国家アザニアに行くことによって起こる珍騒動…ってのが、この作品の概要。

標題だが、この作品に多用されている技法として、人々の会話が、ただ会話の中身だけの連続(話者は誰かということも示されず)という箇所が様々に登場する。ウォーという作家はこういう空気感を捉えようとした作家なのかな?
今年は、5月頃にグリーンの「事件の核心」、10月頃にウォーの「黒いいたずら」と、アフリカの英植民地社会を描いた作品をよく読んだ年になりそうだ。あっちは西アフリカ、こっちは東アフリカ。
(2011 10/02)

寝につく風景の小説


今日の「黒いいたずら」はちょうど真ん中くらいまで…か。イギリスらしい世俗風俗小説というのは、読んでいて面白いのに、こういうところで取り上げて何か書くのはムツカシイ…
そんな中で、今回は、標題にある登場人物が寝につくところに着目。前に読んだところのフランス公使バロン氏と、今日読んだところのバジル・シールの母親?の寝につく時に行うもろもろが、しつこいほど丹念に書かれている。こういう皮肉混じりの文章はほぼ全文で(笑)、それを味わうのがウォーを読む醍醐味かも。
あと、アザニア国皇帝セスが、アザニアに来たシール(前にオックスフォードで出会っていた)を見て思い出にひたる、その思い出の内容は同じウォーの「大転落」を思い出させる。
(2011 10/04)

苦笑の文学、または文学の苦笑(苦笑)


「黒いいたずら」は、主人公格の黒人皇帝セスと、白人風来坊シールが出会って意気投合? アザニアを「近代化」しようとしていろんな喜劇や騒動を巻き起こす。みんなプライドや生活がかかっているから真面目なんだけど、正直苦笑せざるを得ない。この苦笑こそウォーの本質なのか…待てよ、ウォーだけではなくて、小説というジャンルそのものの本質なのかも? 悲劇や詩などの一次的文芸のあと、そのパロディでもあり、人間の進歩なき堂々巡りの循環を笑う二次的文芸。
「初めは悲劇として、そして二度目は笑劇として」とか言ったのはエンゲルスでしたっけ? ナポレオンとナポレオン三世の話だったか?
(2011 10/05)

声から立ち上り、寝につく小説


今日読んだところは、セスの「近代化」政策が空回り度を急速に増して、シールもついて行けなくなった頃、シールの親類でもあるミルドレッド母娘が英国からやってきたり、グモ伯・アルメニア教会主教、フランス領事バロンの3人が組んで幽閉されていた前皇帝の子供(といってももう90歳)を解放したりで、なんだかまた大騒動が起きそうな雰囲気。
前に「声から立ち上る小説」とか「寝につく風景の小説」とか書いたが、今日読んだグモ伯と(前述の前皇帝の子が幽閉されていた)修道院の院長の会話などその両方を兼ね備えた面白い場面。
一方、セスは誰にも相手にされなくなってきて、ついにはたった一人で大聖堂を取り壊す作業をしてたり(それをミルドレッド母娘がみつける)。どうなることやら。
(2011 10/06)

祭典→クーデタ(奪冠)ってバフチンそのもの?


「黒いいたずら」は産児制限の祭典でのクーデタ騒ぎ。その場面はユークーミアン氏のホテル屋根上からのミルドレット母娘の視点で描かれている。だから何が起こっているのかさっぱりわからないけれど、彼女達は彼女達なりになんとかうまく立ち回り…まあ、こういう時はこんな感じか。

それから、英国公使の官邸(町から少し離れたところにある)に皆集まって来て、救出用の飛行機がやってくる。セスのところに行くというシールと公使の娘プリューデンスとの、ちょっと前から続いていたアヴァンチュールもせわしなく、あっけなくお別れの時。感動の場面なども特にないが、まあ、こういう時はこんな感じかな…
で、「いたずら」って?確か馬の名前だったような…
(2011 10/07)

ブラックユーモア??


「黒いいたずら」少し残っていたのに決着をつけようと、スターバックスで読んでいた。それで、読了したのだが・・・小説最後にコーヒーより目の覚める大どんでん返しが待っていた・・・

昨日、のんきに?シールとプリューデンスの別れのシーンなど書いてたが、あの後プリューデンスの乗った飛行機のみアザニア領内で不時着し・・・プリューデンスはその後いろいろあって・・・亡くなったセスの弔いをシールと現地の村人でやっている宴会の鍋の、「胡椒の実や芳香を放つ木の根とともにぐちゃぐちゃになるまで煮た肉」(p277)となってしまっていた。シールも読者もそれを知らずにその鍋の場面を経て、判明するのはその2ページ後。

これぞまさに「黒いいたずら」・・・原題が自分の持っている本には出ていないのでよくわからないのだが「ブラックユーモア」?(英国で「ブラックユーモア」って表現があるのかよくわからないが)

その宴会の場面では、なんだがいろいろな階層のレベルがあって、まずはシールが宣うセスの弔いの言葉のレベル。ここで死者の霊を慰めるような美辞麗句は全然生前のセスとは異なるのは読者にもわかるのだけれど、でも歴史として後世に残るのはこのレベルでしかない。
続いてシールと現地人の間のコミュニケーションレベル。なんか合っているようで、大きな段差があることはそのどんでん返しによって証明される。
最後にシールとプリューデンスとの「再会」という肉体的レベル。他、分析すれば様々なレベルがこのシーンには凝縮されている。

アフリカの白人支配を反転させた「黒いいたずら」とか、黒人側でも「食人」という儀式の持つ精神性が変容して崩れてきているとか、ポリティカルな議論もあるとは思う。しかし、それよりも解説で訳者の吉田氏が言っている通り、登場人物一人一人の人間が「◯◯人とはこういうものだ」的な描写ではなく生きている人間として描かれているのがこの小説の最大の読みどころではないか、と思う。
(2011 10/08)

おまけ


「短編ミステリの二百年1」東京創元社の文庫に、ウォーの「アザニア島事件」?が入っている。これは「黒いいたずら」の派生短編。
(2020 05/14)


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