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「闘う文豪とナチス・ドイツ トーマス・マンの亡命日記」 池内紀

中公新書  中央公論新社


トーマス・マン日記刊行の「応援」として紀伊国屋書店季刊誌「スクリプタ」2009冬〜2015夏にかけて掲載。その翌年、日記全巻刊行。

「トーマス・マン日記」概要と第1部

そのトーマス・マン日記は1933年、マンが「ワーグナー」講演終了後オランダ・フランスに外遊した時、ナチスから国外退去命令を下される。よってドイツに戻れなくなりスイスやアメリカに移住する。その時期に書き始められる。以前の日記は終戦後帰宅時に本人によって焼却したらしい(でも1918−1921という巻もあるけど)。亡くなった後20年間は公刊しないようにという言いつけを娘のエーリカが守り、20年後に公刊。その内容は、公刊することを前提として書かれた、同時代の記録の書であり、亡命者の記録でもあった。

1部終了。1920年のノーベル文学賞作家ノルウェーのハムスンの愛憎こもった記述から始まり、妻の実家プリングスハイム家のこと(両親の家の接収と出国、マンの妻の兄?(双生児だった)はこの時期東京で音楽教育をしていた(歌舞伎についての論文をマンに送っている)、2・26事件のこと、ボン大学の名誉博士号剥奪とルーマニアでの「剽窃」裁判など。

 とりわけドイツからの報道が、どれほど操作され、かたよったものであるか、存分に知っていた。真実に一歩でも近づくためには、さしあたりここにあるものを手がかりにして、ここにないものを思わなくてはならない。そんな心のはたらき、精神の力。マンの日記は同時代の私的クロニクであるかたわら、一貫して自分に課して実行された精神のまたとない記録だった。
(p41)


(2017  11/19)

マンと3人の亡命作家たち


今日は池内氏のマンの新書から第2部の後半3編。ヴェルフェル、ツヴァイク、ブレヒトとマンの関わり。この新書はマンについてのものであるのに?池内氏の意見は必ずしもマンに寄り添っているわけではない。
例えば、こんな文章。

 ヴェルフェルの発言はつつしみを欠いたものであれ、マンの中の何かを衝いていたことは確かである。だからこそ「腹を据え兼ねる」思いを書きとめた。 
(p94)


マンは自己の政治的態度、特にナチス崩壊後のドイツの政治体制をどのようにするか明確にしてこなかった。そこの辺りがまた、ブレヒトと協調できなかった理由でもあろう。

ついでにブレヒトの「ガリレイの生涯」はデンマーク版、アメリカ版、ベルリン版の3つあって、だいたいは最終のベルリン版を採用するのだけれど、この時期にイギリス出身の俳優ロートンとの合作で成立したアメリカ版も捨てがたい、と池内氏。
(2017 11/26)

マン、カフカを読む


「闘う文豪とナチス・ドイツ」を読み終えた。

 ある体制を容認し、むしろ有利にはかるのは「第一級の犯罪行為」だというのに、それを認めるどのような言葉も聞こえてこないのである。 
(p169)


戦後ドイツのこうした状況にマンは苛立っていたという。

続いて最後の部。マッカーシズムの「赤狩り」から、長男クラウスの自殺、長女エーリカの有能な秘書ぶり。エーリカはマッカーシズムの危険性を父親より早く認めていた。
次の引用はその辺りから。マッカーシーがラジオを主な情報宣伝発信の場所にしていたことに絡めて、マクルーハンの言葉を。

 ラジオは「部族の太鼓」であって、その声は人の心の深層にはたらきかけ、ちょうど深い密林で打ち鳴らされる太鼓のように陶然とした恍惚感に導いていく。 
(p194)


続いて、エーリカの語る、父親についてのコメント。

 父は仕事をすることができるために生きているーその逆ではない 
(p209)


自分は終生「その逆」だったなあ(笑)

この頃のマンは取り憑かれたようにカフカを読んでいたという。既にまだカフカが有名になる前の戦間期に、「城」とかいろいろ読んでいたのだが、ブロートによる全集が出て一種のブーム的な状況になると、そこから日記や手紙なども含めて読んでいく。そのブロートに「カフカの遺言通り原稿を焼却しなかったことは正しい判断だった」と手紙を送っている。

あとはこういう本でよく(たまに?)あるような、対象(ここではマン)を全部持ち上げて褒め称えるということはしないで、老いと取り残され感と、それから周りの賞賛を真に受ける、などという綻び?をも逃さず著者は書いている。
最後の章の舞踏家のチャールズ青年への抱擁も印象深い。
(2017 11/28)

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