「カンポ・サント」 W・G・ゼーバルト
鈴木仁子 訳 ゼーバルト・コレクション 白水社
久しぶりのゼーバルト。これは、「土星の環」完成後、書いていた「コルシカ・プロジェクト」が「アウステルリッツ」を先行させたためお蔵入りのまま亡くなった、その原稿をまとめた第一部散文。1975年から2001年までの論文・エッセイをまとめた第二部エッセイ。と作者亡き後、スヴェン・マイヤーが編集したのが本書。
標題「カンポ・サント」(聖苑)は第一部、コルシカ島の埋葬を書いた章のタイトルから取られている。池澤夏樹のコラム付き。
(2023 04/23)
「アジャクシオ短訪」
ゼーバルト始まる…という感覚…
でも、ここからコルシカの埋葬について始まるのか…それを踏まえると、上の文章もまた味わいが変わる。
(2023 04/24)
「聖苑」(カンポ・サント)
コルシカ島、ピアナの海岸で泳いだ後、坂道を登って村の墓地に着く。そこを彷徨いながら死者について考える、その後の調査も含めた文章。p29の死者の行列なんて、「スモモの木の啓示」の第6章の涙の川を思い出さないわけにはいかないではないか。
ここ読んだ時に文章に感銘して、今こうやって打ち込んでいる時思い出したのは、「失われたいくつかの物の目録」の「フォン・ベーア家の城」で、4歳になる少女が死について考えていた文章。「破廉恥」とか「不正」とか語句が強いものが連続するけど、彼女に聞けば納得するのでは。今の自分には謎として残る。
彼らとは死者のこと。死者は増え続ける。たぶん、これからの生者の数より既に多いのではないだろうか。
「海上のアルプス」と「かつての学舎の庭」
コルシカ部終わり。後者は幻のコルシカ島プロジェクトの導入部にする予定(アカヴィヴァという架空の女性が、コルシカ出身でレジスタンスと女性解放運動に加わりアウシュヴィッツで亡くなったダニエル・カサノヴァという実在の女性を語るという)だったらしい。
引用は前者「海上のアルプス」の終盤から。
水平線か。人間の認知能力の周縁の境界線をも、ヨットは動いている、ような気がする。
(2023 04/30)
「異質・統合・危機-ペーター・ハントケの戯曲『カスパー』」
エッセイ部に入る。「カスパー・ハウザー」は生まれてからずっと幽閉されていたために、言葉を覚えることがなかった少年を題材にしたハントケの戯曲。ここでは、舞台で見えるのがカスパーだけで、言葉を教えようとする「調教師」は声だけが舞台上で響く演出になっている。
言葉を覚えることは自分を自分内で外側から見えるようになること。自分自身が分裂すること。ただし、ここでのカスパーはそのように(見える)だけだという。
物語を語る行為は、「まとも」ではないのか。一方では語りたくても語る言葉を持たない人々がいて、一方では語る必要のない人々がいる。
「歴史と博物誌のあいだ-壊滅の文学的描写について」
第二次世界大戦末期のドイツの都市の破壊が、その後の文学の叙述の対象にほとんどされてこなかったのはなぜか、というゼーバルトの問題意識から始まる。何も知らない自分にはかなり意外に思えるし(「空襲と文学」の論考へつながっていくのだろう)、日本ではどうだったのか、と問われても自分には即答できない。
そこから、カザックの「流れの背後の市」とノサックの「滅亡」を取り上げていく。ゼーバルトが評価するのは後者。
これは前者カザックの作品に対する批評。結構皮肉が効いている。ファシズムの言語はそれまでの文学(この例としてマンの「ファウストゥス博士」が挙げられている)に依拠しており、そこから抜け出なくては真の批判にはならない。
続いて後者ノサックについて。
それらとはファシズムの建築家シュペーアの建築デザイン。このような指摘はのちにカネッティもしているという。そしてこの光景を見たノサックは高揚感を感じずにはいれなかったと書くが、それと市中の壊滅状況との葛藤に解決を見出せないままである、とゼーバルトは言う。
戦後西ドイツでも見られたこの移動熱をまだ文学には落としこめていない、という…ノサックやハインリヒ・ベル、しっかり読んでいなかったなあ。
まだこのエッセイは続く…
(2023 05/01)
上記エッセイ後半は、クルーゲの「新しい物語たち」というテクスト-その意味は最後にわかってくる-について。
例えばこんな記述。
大惨事に直面しても、その危険の全体が一個人としては見えないため、社会の通常の役割に固執する。
ここでゼーバルトはレムを引く(「虚数」から)
行動先にありき…それが脳波レベルの瞬間的時間だけでなく、一日から数年に至るまでその図式は当てはまるのでは。もしそうだとしたら、考えるとは何か。
ではクルーゲのテクストは何を目指していたのか。
第二次世界大戦直後の、敗戦後で壊滅状態にあった時代の、後の時代による集合的記憶…それは相手国関係者も含む、包括的なもの…の再構築。
(2023 05/02)
「哀悼の構築-ギュンター・グラスとヴォルフガング・ヒルデスハイマー」
グラスの「蝸牛の日記から」とヒルデスハイマーの「テュンセット」を比較して、ドイツの戦争犯罪による哀悼の比較をしている。後者も邦訳有り(筑摩書房 1969)
この本のユダヤ人の旅の物語は、実はユダヤ人歴史家エルヴィン・リヒテンシュタインの研究から取られており(グラスも作中で述べている)、〈疑念〉という名の人物は善良でユダヤ人にも気を配っており、そこで読者であるドイツ人の順応心に疑念を感じさせないという。
一方、ヒルデスハイマーの方は「哀悼の中心から生まれた作品である」と評価している。ハムレットの「不吉な正当性」(それはここでゼーバルトが指摘したいドイツ人の状態である)からどこか(ノルウェー?)に逃亡した語り手。
このような論読むといつも思わざるを得ないのだが、日本ではどうなのだろうか。
「小兎の子、ちい兎-詩人エルンスト・ヘルベックのトーテム動物」
エルンスト・ヘルベック(1920-1991)は、精神病院に収容されていた時に詩を書いている。ここでは最後から。家でもらってきた兎を食べた時の記述。
ヘルベック自身、兎口で自身を兎と重ね合わせていた。自分が加害者か被害者かどちらかに割り切ることができれば理解できる。どちらでもあるという有り様が、上記のヒルデスハイマーの場合と同じように、真の人間の在り方であり今日それを真っ直ぐ見つめることは辛い体験となる。
「スイス経由、女郎屋へ-カフカ の旅日記によせて」、「夢のテクスチュア-ナボコフについての短い覚え書き」、「映画館のカフカ 」
「スイス経由、女郎屋へ-カフカ の旅日記によせて」
ここではカフカ ではなく、マーラーについての記述から。
「夢のテクスチュア-ナボコフについての短い覚え書き」
ナボコフが生まれる直前に撮影した映像を見た子供のナボコフを最初に、同じ時期のナボコフの父親が農民との話が合意してその農民たちに胴上げされている情景を最後に配して、ナボコフ論を展開する。
「映画館のカフカ 」
ヴェンダース監督の「さすらい」にも出ているハンス・ツィシュラーが、カフカと映画の関係を探る書物を書いている。「カフカ 、映画に行く」(1996)みすず書房。
(2023 05/03)
「大西洋鯖」、「チャトウィン」
「大西洋鯖」から最後まで今朝読んで読了。もっとも「大西洋鯖」と「チャトウィン」は昨夜読んだものの眠さで放棄したもの。
「大西洋鯖」の断章は、ひょっとしたら最後の連れの女性の一言から膨らませて作ったものかもしれない、と想像してみる。ここで取り上げられているヤン・ペーター・トリップという画家は、あとで「復元のこころみ」で出てくる。
さて、チャトウィン。付属の池澤夏樹のエッセイでも取り上げられ、繋げているゼーバルトとチャトウィン。ゼーバルトはチャトウィン(だいたい同世代)のどこに惹かれるのか。
この章はチャトウィンを通した周辺読書のガイドにもなっている。フロベール「三つの物語」、ペレック「Wあるいは子供の頃の思い出」、バルザック「あら皮」、そしてチャトウィン自身の「ウッツ男爵」。
「楽興の時」(モメンツ・ムジコー)
…2001年、ミュンヘンのオペラ・フェスティバル開幕にあたってのスピーチ。内容はゼーバルト自身の音楽受容史。自分的には、戦後の荒廃した町の中を家と稽古場の間を自転車につけた荷車にコントラバス載せてゆく奏者の映像が印象深くて消えない…
ブレゲンツ音楽祭の思い出から、昔のバイエルン・ラジオでのリクエスト音楽番組の上位曲へ。ブレゲンツにつながる「木靴の踊り」、「エヴァンゲリマン」のアリア(キーンツル作曲)、ドン・コサック合唱団〈ヴォルガ河畔に立つ兵士〉、ヴェルディ〈ナブッコ〉捕囚たちの合唱…
〈ナブッコ〉は、このドイツ人の思いという点では、捕虜となったドイツ兵のことを指すのだろうけれど、また最近の演出では劇中の捕囚をユダヤ人とする解釈もある、と指摘する。こうしたばらばらなものの布置から読み取ることについては、後にまた記述がある。
「復元のこころみ」
…これも2001年、シュトゥトガルト文学館の開館記念スピーチ…だからシュトゥトガルトの話題が多い。
1949年に貰ったドイツ都市カルテットカードの話題から。ここでのドイツ都市は戦前ドイツのもの、分断もなければ、ブレスラウも入っているし、破壊された建物も描かれている。このカードは「小学校に行きだしてすぐに始まった私の地理狂いの出発点でもあった」…自分の場合は何だろう?
それはともかくシュトゥトガルトのカードにはシュトゥトガルト中央駅が描かれていた。その稜堡たる建物は「やがて来るべき野蛮さの一部」を先取りしていた。
実際にゼーバルトがシュトゥトガルトを訪れたのは1976年5月。先述のヤン・ペーター・トリップを訪問するため。既にイギリスに移住し大学で教えていたゼーバルトは、この時の経験から「何か別のことをしたい」と思い始める。
(スヴェン・マイヤーの編集した原著のうち、ペーター・ヴァイス論、ジャン・アメリー論は、邦訳版では「空襲と文学」に収録し直されている。ゼーバルト本人の意志があったという)
(2023 05/05)