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「スモモの木の啓示」 ショクーフェ・アーザル

堤幸 訳  白水社エクスリブリス  白水社

道志村もくめ書店で購入


第1章、第2章

語り手の兄ソフラーブがテヘランで処刑されたのと同じ時刻、田舎に逃げてきたらしいこの一家の母がスモモの木の上で啓示を受ける。その啓示とは…案外すぐに語られる…

 地球自体が広大で、たくさんの国、宗教、本、戦争、革命、処刑、誕生、このオークの木などを包合しているにもかかわらず、それは宇宙の中ではごく小さな染みでしかないと母さんは悟っていた。
(p11)


染み…か。自分には、その次のページの蚕の繭と同じように見えるのだけれど。
この後、死に神と飲み比べ等をしたまたいとこの話とか、ジンになり損ねた叔母と子供たちの話とか挟みつつ、本筋は語り手の成長?物語ではなかろうか、と今は思う(ちなみに、この読み見事に外れ…詳しくは第5章へ)。
あと、ホスロー叔父というのはいつまた出てくるのかな。
(2023 04/17)

第3章、第4章

この小説、最初から全開で、幻想的な世界、政治社会の闇、古代ペルシャや「千一夜物語」的な世界が入り混じって展開される。第3章前半の「悲しげな旅人」の話は千一夜にまたキアロスタミ映画にもありそうな構造。後半、兄のソフラーブの監禁の話は醜悪で、最後にツバメの集団惨殺が締めくくる。
第4章…

 時々ネズミとシロアリが立てる音がうるさくなると、母さんは天井裏に上がり、息の詰まりそうなむっとする空気の中、埃の積もったソファーの一つに腰を下ろして、ネズミどもがご馳走を食べるのを見ていた。少しずつかじられていく美と歴史。そうしたものすべてが数十年にわたる記憶と過去のアイデンティティーを形作っていた。
(p44)


イスラム革命で、テヘランからこの村に逃れてきた一家。この母親は、以前を思い出させるものを全て屋根裏に置いて、放置したネズミ達に食べさせた。ここもまた脳裏に深く刻まれる場面。
(2023 04/19)

第5章から第7章

語り手バハールの死(そう、語り手は既に死んでいたらしい(1979年2月9日))に始まり、ホメイニーの死で終わる、死に挟まれたところ。といっても、すぐにまた家族と暮らすようになった(そういえば、これまでのところでも、「何か物がなくなったら私のせいだと思ってね」とか、変な挙動があると思っていたらそういうことなのね)バハールと、闇と鏡と入り組んだ迷宮の宮殿に入り込んだホメイニーとは、死の感触が随分と異なる。

先のバハールが死んだのは、家をイスラム革命の暴動に巻き込まれ家を焼かれた時。そこから一家は(第1章からの舞台となっている)ラーザーンという村に移り住む。ここはササン朝末期、アラブ=イスラム軍がやってきた時、ゾロアスター教徒達が逃げてきたという場所。100日以上続く夏の雪の際に、この一家にだけ古のゾロアスター教徒がやってきて火をおこしたというエピソードも挟まる。

一方、第6章後半から視点はあのホメイニーへ。彼が奇妙な宮殿を作ったのは、処刑した政治犯の幽霊から「死ぬのが嫌なら地下宮殿を作れ、そして宮殿が完成した時にお前は死ぬ」と言われたため。徐々に建築技師達がいなくなる中、彼は最後には自分一人で宮殿内部で作り続けることになる。

 その一種に彼は悟った。私は独り言(モノローグ)を言うときには獰猛な独裁者だったが、対話(ダイアログ)をするときにはただの強情っぱりで気取った理不尽な子供-顎鬚を生やした子供-だった、と。
(p89)


この小説もまた、ダイアログを目指しているのか。
(2023 04/21)

第8から第10章


第8章はラーザーンでの焚書。第9章はロザー(母)の奔出とそこで出会う男(何者だろう?)。第10章は今のところ、イーサーという人の家族と幽鬼(ジン)との話。

第9章にある、民兵(パスィージ)に最後のつがいの雌トラとお腹にいた子トラを殺されたマーザンダラーントラというのは、前に読んだ「失われたいくつかの物の目録」のカスピトラのことではないか…(補足:「目録」見直したら、最初の学名の箇所に「マーザンダラーントラ」って明記してあった…(2023 04/29))

引用は第10章…

 「頭はどんなふうに痛むのですか?」とまじない師は訊いた。「誰かが銅製の塵取りで何度も何度も頭を叩いているみたいな感じです」とホメイラー・ハートゥーンは答えた。まじない師が何かの呪文を唱え、ホメイラー・ハートゥーンの前に鏡をかざすと、そこには銅製の塵取りで頭を叩いている幽鬼が映っていた。
(p125)


そのままやん…
と読んでいる時には思ったけど、考えてみたら相手の言った映像を鏡に映し出せれば当たっているように見せかけられる。痛みの喩えとかはあんまりヴァリエーションなさそうだし…でも、銅製の塵取りか…

第11章

ビーターの恋愛相手イーサーの姉、エッフェットと村人の話。

 「葉っぱが木に惚れ込むことなんてある? そんなことできるのかしら? 羊が羊飼いに惚れ込むとか? “羊”のない“羊飼い"とか“葉っぱ"のない“木"なんてある?」
(p151)


エッフェットによると人間は常に二人いると言う。自分の中にもう一人。エッフェットの場合には恋愛相手の羊飼いとともに歩いているという。

 すると彼女は落ち着き払って、村や家の方を振り返ることもなく、ためらわずに火の中に足を踏み入れた。そして寒い冬の日に薪ストーブに近づくような笑顔で、骨まで火に呑まれた。生命を消し去る炎の中に。
(p155)


エッフェットの息には、春と古代拝火教の息吹が入っていたらしい。まじない師始め村人も火の中に笑いながら入っていく。パフラヴィー語の呪文やハーフェズの詩を詠みながら。

第12から第14章

ここまで来たら読み切ろうか?
やめとこ。

第12章は「川の幽霊たち」と、句読点一切無しで8ページ続く中年男の話と、テヘランへ行くビーターとの別れ。
第13章はビーターが魚に変身し(しかもその途上で、カフカの「変身」を読んだりする)カスピ海に放たれるまで。
第14章はラーザーンの歴史と、その創世神話とも思える寝続けている村人を起こすためにまじない師が旅に出て魔物と話すところ。

この小説も幻想金太郎飴で、どこ切っても不思議な混合話が詰まっている。ここでは2箇所引いておく。

 こうしてビーターは、昼間は水に浸かったままひなたぼっこ、夜は星空の下、水中で眠り、海の夢を見るという生活になった。魚たちと戯れ、貝殻で遊び、睡蓮の美しさに何時間も見とれ、残りの時間は脱力感と倦怠に身を委ね、一分一分の狭間にある長い休止を味わい、暁から黄昏まで一分ごとの雲の動きを静かに追った。
(p189)


特に好きなのは「一分一分の狭間にある長い休止を味わい」という文。そんな狭間を自分も見つけたい。そこに何かが胚胎するであろうから。ちなみにこの第13章、魚=ビーターがカスピ海に入って終わり、ではなく、その後ビーターが「魚らしく」忘れっぽくなり最後には記憶がなくなる、という経緯まで語られている。それにより、父はまた厭世観から放浪する。
二つ目の文、今度は語り手バハールから。

 早朝、日が昇る前、私はつぼみの前に座り、露の中に朝日が映り、露が蒸発した後、小さな空間-自然と人間の喧騒の隙間-で発せられた柔らかなつぼみのため息が聞こえる。開いたばかりの花びらに指先で触れるとその感触が伝わり、匂いを嗅ぐと、その芳香が私の体の中に広がる。
(p199)


小さな空間…この物語の幻想は全てここから始まったものなのかもしれない。今まで様々な「音」を様々な作品読んで聞いてきたけれど、そこに今度は「つぼみのため息」が加わった。静かな村の孤独な幽霊だったらそこまで聞こえるのだろう…
(2023 04/23)

そして結末は…

 両親たちはまるで永遠に額に入れられた写真の中の人物のごとく、彼に向かって笑みを見せた。さまざまな悲劇、無益な苦しみや騒動を経て、彼は再び小さな天国を手に入れた。久しぶりにまたその光景を目にしても驚くことはなかった。彼らはまるで昔から台本に書かれていることみたいに-大昔から彼が現れるのを待っていたかのように-微笑みかけた。
(p211)


父フーシャングがテヘランのおじいさんの家に戻るところから。確かこの家は市長が狙っているのだけれど断固拒否しているはず…「額に入れられた写真」とか「台本」とか、何か演劇っぽい要素がする。もう終盤まで来ると、読者の方も何が起こっても驚かない境地にはなっている。

そして、物語の始めの方で出てきたホスロー叔父がやっと登場。書庫に閉じ籠っているフーシャングに声をかけるが、フーシャングの方も何かこの叔父に言いたそうな…見つけたいものは同じなのに、行く方法が真逆だとこのようにすれ違うのか。ホスロー叔父の言葉。

 「水泳を覚えるには泳ぐしかない。愛を学ぶには愛するしかないし、瞑想は瞑想でしか学べない。他に近道はない。精神は外に向かって開かれるし、瞑想は内側へと向かう。それが兄さんの世界と私の世界の違いだ」
(p222)


この翌日、父は外に出てテヘランを歩いて反体制的(と目されている)CDなどを買って、デモ隊(体制から雇われた反英の)を見ている時、ネクタイに目をつけられて捕まって最後には拷問を受ける。そこで「今までやってきたことを全て書け」と言われた父は、幽鬼とかいろいろ出る話(要するにこの作品の世界)を書くが、否定されて書き直しさせられる。そうしてできた「現実版」?は、今まで読んできたこの物語に比べいかに貧弱になったことか…

一方、イランの外まで歩いて行った母は、戻ってきてこれまた家と財産を狙う(雪降った時に一緒に過ごしたラーザーンの村人とはもう違うのだ)村人からなんとか家を守る。そうした中、言葉を少しずつ忘れていくようになって単語のカードを貼るようになる。
(魔術的リアリズムの作品は、一回は記憶と言葉というテーマに辿り着く宿命なのか、それより「百年の孤独」へのオマージュの色合いが強いのか)
そうして、母はこう思う。

 私は今まで何十年も、なんて馬鹿げた言葉の規則に対処してきたのだろうか
(p248)


ここなど、作品を作り上げてきた作者の吐露もあるのかもしれない…
最後は、カスピ海の海岸で人魚=ビーターも殺されて、ラーザーンの家で戻ってきた父と母、それに霊の子供3人が「こっちの世界に来る」のを待ち受ける。そして、作品の始めの方でソフラーブを妊娠した時に母が見た夢の再現で、登るたびに伸びていく木に5人が登っていき、地球全体が小さく見えるところでその木に入り込んで「おしまい」となる。
(2023 04/25)

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