見出し画像

「失われたいくつかの物の目録」 ユーディット・シャランスキー

細井直子 訳  河出書房新社


夜寝る前に読んだ短編多い…

「ツアナキ島」

 そしてついに一本の糸を見つけたと確信した。マンガイア島とツアナキ島を互いに結びつける細い臍の緒を。ある日マンガイア島を海底から海面上へ押し上げたのは、海洋地震の力だった。死滅した珊瑚と玄武岩の溶岩からできた環、海底から鋭く突き出した山の頂。そして宣教師たちがその環状珊瑚島を探し始めて間もないある日、ツアナキ島を海中深くに引きずり込み、太平洋の大量の水の下に葬り去ったのもまた海洋地震の力だった。
(p41)


マンガイア島での勢力抗争で負けたもののうち、幸運な者はツアナキ島に流れ着いたという。こうしているうち地上での勝敗を自然が模倣したかのようにツアナキ島は沈む。しかし、作者の想像ではその直前は実に穏やかな住民となっている。
(2023 01/07)

「カスピトラ」

(読んだのは昨夜)
前章とは趣きを変え、古代ローマの闘技場の緊迫したエクリチュール。主な筋は、ライオンとこのカスピトラとの闘い。ここで、この小説が連作短編集でもあることに気づく。

 この獣には雌しかいないようだ。というのもこの獣はひどく残酷だという、これほど残酷になれるのは、子を奪われそうになった母親だけだ。それが正解だったのは単なる偶然に過ぎない。黒と茶の輪模様の尾の下に隠れていたのは、もはや子を産むことのない子宮だった。
(p50)


この章の隠れた主題が虐げられ変形させられた母性、女性性であることがわかる箇所。淡々と進むここの記述中で、視点の変化(古代ローマの人々の言葉から作者の視点へ)、即物的な書き方から主張を込めた激烈な文までの変化等、浮動する視点や書き方の段差のある読みが堪能できる。

 彼らは処刑とショーをかけ合わせたのだった。繊細な神経を持つ、野蛮な群衆-巨大な物、おびただしい数、恐ろしいもの、彼らは想像しうるありとあらゆる物に慣れていた。あらゆる限界は、ただ踏み越えられるためだけにある。彼らの愉悦には嫌悪が混じり、嫌悪の中には愉悦が混じっていた。それはひとえに好奇心が産む愉悦、思いついたことをすべて実行に移したいという衝動だった。というのも、自分には選択の自由があると自慢する者たちもまた、単に衝動に従っているだけであって、ただ楽しみのためだけに石を投げてカエルを殺す子どもと変わらないからだ。
(p55-56)


自分よりかなり繊細な人だったら、衝撃受けて動けなくなるかのような内容。自分は「慣れる」というところ(「死の家の記録」)、「踏み越えられる」というところ(「罪と罰」)など、何かドストエフスキーのターム?が次々出てきて惹かれた。でも、「失われ」るきっかけはこうした衝動からだろうな。
カスピトラって、アジアトラの一種? インドトラの仲間?
(2023 01/17)

「ゲーリケの一角獣」


昨晩と今晩にかけて読む。前2編は一応客観的記述とか物語とかだったが、今回のは一人称(私)で、もちろんイコールではないけれどシャランスキーに近い感じの語り手。アルプスの村にお籠りしながら怪物や空想生物のガイドブックを書く為に出かける。

 正直なところ、私は少し失望した。同じ話の繰り返しなのは一目瞭然だった。どの新しい物語も旧知の物語の混合物であり、そこに登場するどの生物も想像と経験の少し意外な混血児であることが露見した。要するに種の多様性に乏しく、むしろ本物の自然の方が架空の物よりいくぶん奇抜だった。これらの怪物の物語がそろって証明していたのは、せいぜい典型的なストーリーとモチーフを飽かず繰り返す粘り強さくらいのものだった。
(p68)

 原因と効果は混同されがちだ。何が願望で、何が意志で、何が単なる身体の機能にすぎないか。手を放すこと、それともしっかりつかまること。器になること。計算するのを諦め、いまあるよりも大きな存在を認めること。神の恩寵だとか、恭順さのようなもの。それはただの屈辱。
(p72)

 空虚より恐ろしいものはなかった。そして怪物はどれもその空虚を埋めるためだけに、見えない恐怖の点を隠すためだけにいた。
(p76)


(「誰かの願望は他の誰かの恐怖だ」という言葉がどこかにあったはずなんだけど…)
これらの文章をつないでみると、何らかの人間に理解できない因果関係のミッシングリンク。怪物とか架空生物はそこを埋めるために存在する(だからだいたい似ている)。そして、馬か何かの出産の場面を直視し、そことは生殖、出産に関わる何かと認識する。p72の「器」もそうした意味か。でもこのp72の文、畳みかけて読ませるのだけれど、理解できる前に文章が飛び去っていなくなってしまう文章。

ちなみにゲーリケの一角獣とされている骨は(実際は違うものだが)、マグデブルクの博物館に保存されている。だから、この章に限っては「失われた」ではなく、「もともと存在しない」もの…というより、こうしたものを生み出す過去の精神そのものが「失われた」というべきなのだろうか。
(2023 02/01)

「サケッティ邸」

(昨日読んだ分)
1628-1648年に建築、この依頼主サケッティは教皇候補になったがなれなかった人物らしい。この土地が沼沢地で流行病の進行とともに17世紀末くらいから崩壊が始まり1861年に最後の残骸が撤去されたという。
短編はサケッティは途中に少しだけしか出てこなくて、他の人々、ピラネージやユベール・ロベールという「廃墟のロベール」との異名を持つ画家が主に絡む。

 橋や幹線道路、水道や貯水槽、そして何より迷路のような再大下水道の、多数の手を持つ運河は、もっとも低次の欲求を統制するものであるにもかかわらぅ、いやむしろまさにそれゆえに、すべての建築術の頂点に位置するものであり、ピラネージの評価によれば、その壮大さは世界の七不思議をも凌駕した。
(p86)


ヴェッサリウスの人体解剖と同列に並んでいる(ピラネージによれば)それらの通路。それらはほんのちょっとした手入れの不在で、何処かが欠落し腐敗が始まるものでもある。

 現在とは、未来の過去に他ならない。-彼は身震いし、瓦礫をまたぐと、妙に急いでふたたび外に出た。腐ったような臭いが鼻を刺し、去年の夏の、あの耐えがたい悪臭を思い出させた。八月の豪雨の後、テヴェレ川が増水してまたもや氾濫した時、あの悪臭がまるで釣り鐘状のスモッグのように街全体を覆った。
(p90)


ここの「彼」はロベール。去年の夏の時はマラリアに罹り生死をさまよった。この短編の裏テーマは腐敗と悪臭。釣り鐘状という言葉が印象深い。
(2023 02/10)

「青衣の少年」


この短編の「失われた物」はムルナウ監督のサイレント映画らしいが、短編自体の視点人物は、ちょっと盛りを過ぎたマンハッタンに住む女優、どうやらグレタ・ガルボらしい。風邪気味で小言言い続けながら歩く姿。本人的には悲惨らしいのだが、読んでいるこちらとしては笑える。今までが深刻な書き方だったからか。シャランスキーの地はこれだったりして…

 何しろずっと自分に我慢しなければならないのだ。もううんざりだと思っても放り出せない。自分と別れることはできない。残念なことに。ああ、自分を置いて休みをとれたら。だれか他の人になれたら。
(p110)


でも、そんな中にも美しい文章は不意に現れる。最後のページにもうすぐ差し掛かるところ。

 このいまいましい老化はいつ始まったのだろう。春に感動するようになった時。昔は春に心動かされることはなかった。いつも冬を恋しがっていた。サン・ヴィンセンテ大通りにある彼女のアパートの裏に、たった一本立つ枯れ木、彼女の冬の木。何度想像しただろう、寒さがこの木の葉を奪ったのだ。もうじき雪が降って裸の枝を覆うだろう、と。
(p115-116)


(2023 02/16)

「サッフォーの恋愛歌」

(昨夜読んだ分)
サッフォー…古代ギリシア、レスボス島の女性詩人。作品も断片的(だいたい誰かの引用から復元)で、生涯も不明なところが多い(教師的なことはしていたらしい)。今、レスボス島の名前がレズビアンの由来となっているように、そういう伝説もあるのだが、確かなことはわかっていない。
というところから、この短編は濃厚な同性愛の話になるのか、と思っていたら、出てくるのはこのような文章…

 断片とは、私たちは知っている、ロマン派の無限の約束であり、いまだ有効な近代の理想である。詩はそれ以来他の文学ジャンルに例を見ないほど、雄弁な空虚、投影に養分を与える空白と結びついている。幻肢と同じく「…」はまるで単語と融合したかのように、失われた完全性を主張する。もしサッフォーの詩が無疵であったら、かつて派手な色に彩られていたという古代の彫刻作品と同様に私たちは違和感を覚えるだろう。
(p127)


「幻肢」という喩えがとりあえず響く。無疵ではなく、空白が多い断片詩だから、かえってそこから詩情がくすぐられる。あと、この短編の段落の大半に、「私たちは知っている」か「私たちは知らない」どちらかがついている。ここは、作者から読者への語りかけというか目配せでレベルが周りと違うのだが、通常はダッシュでこういう語句は挟むのだが、それが併記させられている。これはダッシュ自体も素材として使われているためでもあるが、独特なリズムと印象を与える。
(2023 03/23)

「フォン・ベーア家の城」

(昨夜読んだ分)
ベーレンホフという村の、たぶん著者自身の記憶の物語。城というか元伯爵のフォン・ベーア家の館が焼き払われた跡。それと幼いほとんど四歳「伸ばした指四本、ほとんど片手全部」(p146)の少女が初めて知った「死」。

 嫌なもの。温めたミルクの表面にできる皮、村の池の薄い氷の層。裏庭にいる一ダースもの黒光りするナメクジ。
(p148)


ナメクジは勘弁…どうやら少女は液体上部の薄い膜状のものに「死」を見ているようだ。何かの原風景があるのだろうか。この頃生まれた(死産だった?)弟の記憶なのか。
どうやらこの時、好奇心なのか何かはわからないけれど、少女は空いた窓から四メートル下へ飛び降りた、らしい。

 私のジャンプがどれほど面倒をかけたか、後になって両親はよく話をしたものだ。けれども運が良かったとか奇跡だという話はしなかった。あの時代、あの国に奇跡は存在しなかったからだ。
(p150)


当時は東ドイツ。こういう表現に、幼い視線に寄っていた読者は、はっとする。

 それはなぞなぞだった。けれど私はその問いすら、問題の意味すら理解してなかった。問いは開いた窓。答えも開いた窓。四メートルの高さからのジャンプ。
(p151)


開いた窓から飛び降りること…始まりの窓と終わりの窓。そして、石の壁だけ残した城の残骸。
果たして、今の自分は「問題の意味」を理解している、と言えるだろうか。
(2023 04/01)

「マニの七経典」

(例によって、昨日の分)
「カスピトラ」を彷彿とさせるような、古代の格調を持つ作品。一方同じ古代でも「サッフォー」の章とは異なる。まあその中間の「カスピトラ」寄りといってもいいだろう。
作者はどうして二元論的構想が出てくるのか、いろいろ考えている。

 初めに活動ありき、それだけは間違いない、偉大な永久機関の回転ありき。それが-ひとたび始動するや-エネルギーを保存し、河川を増水させて海に注がせ、その水を空へ上昇させ、大きな循環へ、四季の入れ替わりへ、対概念の反復へと導いた。そうした対概念は歴史の始まりから並んで登場し、天と地、母と父、兄と姉、夫婦神、犬猿の仲の二体の怪物等を演じてきた。原初の荒涼とした空虚の方が、呪いのように人類の上にのしかかる不毛な対立の法則よりもまだ豊かに見える。
(p158)


ここだけ読むと、作者はマニの二元論に反対しているのか、と思ってしまうけど、どちらの側に立つということはせず、現代のベルリンの博物館での、マニ教徒に関する記述の破片の文字解読まで寄り添って書かれていく。
(2023 04/04)

「グライフスヴァルト港」

(これも昨夜)
失われたものは、カスパー・ダヴィッド•フリードリヒの港の絵。ミュンヘンで企画展の際に他の絵とともにすべて焼失。
一方、短編の方は、「フォン・ベーア家の城」と同じような作者の視点。定期的にこの手の短編出てくる。ここではこの港町に注ぐ川に沿って歩いて下る散策記。3週間ごと区切って歩いているので、螺旋のように段階が変わっていく愉しみもある。最後に作者が生まれた病院というのも出てくる。

「森の百科事典」


(これは今夜)
スイスの山奥の谷の土地を購入し、知識を書いたプレートを森にたくさん括り付けて隠遁した男の視点。といっても隠者的な知識が語られるわけではなく、性的倒錯の話にいずれにしても入ってしまうような偏向?が見られる。

 あらゆる異常性の根は、正常性の中にある。あらゆる正常性が、一片の異常性を含んでいる。
(p204)


でもこうやって知識をまとめて「誰かが来る時のために」待っている(この語りはその誰かに向けて語られている)のだが、彼が亡くなったあとはほとんど廃棄処分にされた、というのもそれはそれで哀しい、自分の末路も似たようなもの…
(2023 04/06)

「東ドイツ共和国宮殿」


宮殿にディスコまであったこと。アスベストセメントで作られて(当時既に禁止されていた)統一後取り壊された。建物の製鉄鋼は一部はブルジュ・ハリファへ、一部は自動車産業のモーター製造へ。物語は共和国宮殿の跡地で不倫している?夫とその妻。自分が気になったのは、それを妻のところへ話しにいくリッペという人物。
著者シャランスキーは9歳の時、東ドイツの崩壊を体験した。かなり微妙な時期。

「キナウの月面図」


有毒なキノコの研究などしていた侯爵領地管理人のキナウという人物が、月面の研究に入っていく。

 植物学という学問の木を細い枝の先まで究めたい、上りつめたいと願う者は、この世のすべてを覆う天空の巨大な現象にも手を伸ばさねばならぬのだ。
(p231)

 なぜなら近き物は遠き物だからであり-そして高次の真実はあらゆる被造物の中でももっとも目立たぬ物ともっとも遠きにある物において啓示されるからである
(p232)


p233の最後辺りで、どうやってかはわからない(一応19世紀の人という設定)が、月に移住し全てのもののアーカイブを管轄することになる…

 私が思うに、月に捧げられた作品の中には、つねに自分の軸のまわりを回転する利己的な惑星地球の歴史がさながら夢の織物のごとく写し取られているというだけでも、これはすでにもっとも価値ある試みと見なしてよかった。
(p237)


歴史-反歴史。月に写し取られた歴史はたぶん反転した歴史。

解説と緒言

 シャランスキーの「目録」はそれをもっとふくらませて、一つ一つの物たちにまつわる物語世界を紡ぎ出している。たとえ不可能であっても、知るべきことがすべて書かれた本を作りたいと願う著者の、これは一つの夢の本だ。
(p246)


これは解説から。物語を書き、著者も読者も何事かを追体験する。それが失われたものに対する姿勢であるのだろう。

あと一つ、「緒言」が残っている。「緒言」だから始めに読むべきなのかもしれないけれど、この本に関しては各話の要素が回想的に味わえる、という点で最後に持ってきた今回の読み方もいいかもしれない。

 しかしながら疑う余地なく、年代順に並べる方法、収蔵品が新たに加わるたびに連続した番号をふる方法は、どの保管員も知っての通り、その救いがたい首尾一貫性ゆえに、あらゆる組織体の原理の中でもっとも独創性を欠いている。秩序はただの見せかけにすぎないからである。
(p20)


「どの保管員」とか「救いがたい首尾一貫性」とかくすぐりが効いている…これ読んだ昨夜(というか今日未明)どこに惹かれたのか…順番だと思っていても抜け落ちる物は確実にあるということか。

 書くことで取り戻せるものは何もないが、すべてを体験可能にすることはできる。
(p25)


(2023 04/09)

おまけ


ショクーフェ・アーザル「スモモの木の啓示」から。
第9章にある、民兵(パスィージ)に最後のつがいの雌トラとお腹にいた子トラを殺されたマーザンダラーントラというのは、「失われたいくつかの物の目録」のカスピトラのことではないか…
と思って、「目録」見直したら、最初の学名の箇所に「マーザンダラーントラ」って明記してあった…
(2023 04/29)

関連書籍


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?