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「大森荘蔵セレクション」 大森荘蔵

飯田隆・丹治信春・野家啓一・野矢茂樹 編  平凡社ライブラリー  平凡社

読みかけの棚から
読みかけポイント:第1部のみ(第2部は読み直そう)


「夢まぼろし」

第2部の「決定論の論理と、自由」と、第1部(前に読んだかと思うけど)「夢まぼろし」を読んだ。
あとがき代りの4者対談の中に、大森氏は学生にものを徹底的に考えさせることには貢献したが、自分の思想の後継者はついに作り出せなかったということが書かれていたが、実際読んでみると確かにそんな気がする。
前者は決定論はトートロジーが故に正しい。そこに自由を議論する余地が出てくる、という大雑把なまとめ。後者は夢やまぼろしと通常なものの違いは、夢まぼろしは触るなどの生活に影響しないという点にある、というもの。
(2018 01/23)

第1部続き(特に「真実の百面相」、「心の中」)

大森哲学の気軽な(に一見みえる)導入部の第1部(「流れとよどみ」から)を順に読みことに。最初のは仙台で読んだ気がするので、それ以降。

 真実とは貧しく偏頗なものではなく豊かな百面相なのである。
(p29)

 人の真実の断片はどこか奥深くかくされているのではない。かくそうにもかくし場所がないのである。その真実の断片は否応なく表面にむきだしにさらされている。そしてそれらを集めて取りまとめれば百面相の真実ができあがるのである。人の真実は水深ゼロメートルにある。
(p31)


P29の貧しくのあとは「へんぱ」と読む。偏っている(自分?)こと。
この文が含まれている「真実の百面相」はうなずいてついてこれたが、次の「心の中」はちょっと違和感あり。ここら辺では大森氏は結構概念メタファーの考えを用いる(記憶が写真の、心が箱の、それぞれ概念メタファー)。
続いての「ロボットの申し分」とか「夢みられる脳」とかは、SFばりの構想力を見せて楽しい。
(2018 07/25)

「心の中」再び

久しぶりに「発掘」して、上で「違和感あり」と言ってた「心の中」をもう一度読んでみる…どこに違和感感じたのかな…

 だが(喜怒哀楽は)何かひっそり自分にとりこめるもの、外気から遮断して密閉できる領域、といった風なものが考えられている。心の中は外界に対しての「内部」なのである。しかし、これは錯覚ではあるまいか。喜怒哀楽は「内部」にではなく「外界」に、心の中にではなくて外気の中にあるのではないだろうか。
(p36)


確かに身体や脳の動きはその人個人のものであろう。しかし、その一連の反応が「喜怒哀楽」なのではなく、外界にある何かが身体に浸ってくる、その何かが「喜怒哀楽」である、という(だから、上記07/25に書いた箱が心のメタファーである、という考え方はこの大森氏からすれば間違ったもの)。今回は割と頷く箇所が多かった、最後の「数キロ先の研究室の模様替えを想像する」事例で、想像され模様替えされた部屋も数キロ離れたあの研究室である、と言い切るところでは、ちょっと待って、と言いたくもなるが…
(2024 01/01)

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