見出し画像

「ダロウェイ夫人」 ヴァージニア・ウルフ

丹治愛 訳  集英社文庫

1923年6月13日

今日から「ダロウェイ夫人」を読み始め。おおよそ同時期に出た「ユリシーズ」と同じく6月のある一日(それがタイトル)を精緻に書き込んだ小説。ただし、「ユリシーズ」が大戦前の一日なのに対し、こっちは大戦後…そこも読みどころの一つ。

 どれほど人生をながめ、つくりあげ、自分のまわりに築いてはとり壊し、一瞬一瞬また新たに創造しなおしているのかを。
(p13)

後半の「一瞬一瞬…」はこれまたほぼ同時期のプルーストも似たようなこと言っていたような。細胞レベルまで降りると自己同一性などあり得ない…とか。そういう感覚がこの大戦後のヨーロッパの共通感覚としてあるのだろう。

 ナイフのように物事のなかに切りこんでいくかと思うと、外からただ傍観していることもある。こうしてタクシーをながめていると、自分が外に、岸から遠く離れてひとりぼっちで沖にいるという、そんな感じにたえず襲われる。
(p20)

後の文の方になんか共感してこの部分を引用してみたけど、こうしてみると、前の文ってこの小説(あるいはウルフの作品全体?)の書き方にこそ当てはまるのではないかなあ。ダロウェイ夫人の意識に入りきったと思いきや、かなり遠くから見ているところもある。

まあ、今回はここまで…
(6月20日という説もある。)
(2012 11/21)

ダロウェイ夫人だろう…

まずは夫人の帰宅時の有名?な部分から。

 退きさがる尼僧のように、あるいは塔を探検する子どものように、彼女は階段をのぼり、窓辺に立ち止まり、それからバスルームにやってきた。
(p60)

もう最初の2つの比喩の対比だけでゾクゾクなのだが(笑)、この一見正反対に見えるような2つが実は根底で繋がっている、というのがポイント。

 わたしに欠けているのは浸透してゆくなにか中心的なもの。
(p61)

これも非常にウルフ的だが、前にここだけチラ読みした時に自分もそうだなあと感じたところ。

ここで、ちょっと前のロンドンの描写から思ったこと。セプティマス夫妻のところで、あるいは他で、町の他の人々の意識の流れに入り込み、そこからセプティマス夫妻などの主要登場人物を読み手にわからせる、という手法が面白かった…

さて、この小説の構想時はセプティマスではなくダロウェイ夫人自身を自殺か死なせるつもりだった、という。それが残っているのかはともかく、夫人が何か(死)を見つめているのは確か。p62のところなどは一面そういう例ではないだろうか。また、p75の共感の部分も印象的だけど、それも感じる…こういうのが寄り集まって、ダロウェイ夫人像ってのが出来上がる…のだろう…

だろう…
(2012 11/22)

塔と脱出

今朝やっと100ページ超え。今回は昔の恋人ピーターとの再会から、ピーターのその後。再会の場面ではお互いともなんかの軍勢の比喩で意識が描かれていた。そしてピーターが出ていく時に、クラリッサ(ダロウェイ夫人)の塔のイメージの再確認と、それと対比させるようなピーターの子供のような脱出イメージ…それは街で出会った女性の追跡劇まで気分が続く…

その中で、ピーターはふとクラリッサの死を想像してしまう。ここにも、もともとはクラリッサを自殺させる構想の名残?が…

あと、ピーターが思う、ほとんどが想像上のイメージで人は生きているのではないか、というところ。

 誰もが自分自身をつくりだし、女をつくりだし、素晴らしい楽しみやそれ以上のなにかを 創造しているわけだ。奇妙だが、それは事実なんだ。そしてこうした想像の産物はけっして他人と共有なんかできないーしょせん、それは砕け散る。
(p101)

ピーターだけでなく、これから展開されるセプティマスの幻想や、クラリッサの価値観もそうだろう。砕け散るのがこの作品の主題。波みたいなものだ。人が背負いこんでいるこうしたもろもろのものは・・・
(2012 11/24)

列車のなかで眠りこけることについて

今日は169ページまで。例の6月13日のちょうど半分、正午のビックベンの鐘が鳴り響いたところだけど、文量はまだ半分以上残っている。今月中に読み終えようと思っていたけど、無理か?

 列車のなかで眠りこけている人が列車が揺れるごとにぶつかってくるのに似て、彼女のことが何度もよみがえってくるのだ。
(p138ー139)

この辺りずっとピーターが昔のクラリッサやサリー(クラリッサの当時の同性愛相手でもある)などとの想い出が続くのだが、その中のこの一節。列車で寝ている人がぶつかってくること、その頻度、その寝ている人がその度に半ば寝ぼけてみる意識の流れ、そしてぶつかってこられた人もそれが奇縁でその度何かを思い出す、のだとしたら。そしてこういうリズムがこの人間社会または自然全体である程度似ていたとすれば、などと空想はこういう文を前にして広がる。

この後は比重はセプティマスに移っていく。彼は感じやすいことで悩んでいるわけではなく、何も感じられなくなって悩んでいるという。大戦で友人?のエヴァンスが死んだ時も何も感じなかったというし、妻にも何の愛情も感じられないまま結婚したという。先述のピーターとは反対だが、先のリズムは似ている、のか?
(2012 11/25)

ブラドショーの問題

セプティマス夫妻が精神科医のブラドショーのところへ行く場面。ここはウルフ自身の体験も含めて、ブラドショーらの「均衡」「改宗」という精神を批判している。一番の被害者とされるブラドショー夫人のところ、またフーコーを先駆けているような狂気の隔離など…でも、それだけでいいのかな、という気もする。ブラドショーの考え方を批判している…のは確かだけど、それで終わりにできない、と自分は今思う。文学やってる人と精神医学やってる人が(例えそれが同一人物だとしても)別々の多数見解で納得してしまってはならないと思う。均衡は確かに重要だけど、それは唯一決まりきった均衡状態ではない、というような気がする…

一つ気になったのは、レイツィア(イタリア人の妻の方)が「ブラドショーはいい人じゃない」と思っているところ。それも最初の記述は誰がそれを思っているかぼかした上で…レイツィアはセプティマスの自殺衝動?に困り果てていたはずではなかったか…

あとは13時半の時報とともにプルードンの昼食会(といっても、呼ばれたのは二人だけで、なんか別の動機があるみたい)に話は移る。で、ここで気になったのは時刻がビックベンなりナントカ商会なりの時計で示されているところ。あたかも時刻などは単なる決まりごとでしかありませんよ、これ読んでいる未来の読者の世界にはそんな決まりごとなどないかもしれませんね…と言っているような気さえする。

 実際、まさにこれこそが至高の神秘なのだーこちらにひとつの部屋があり、向こうにもうひとつの部屋がある、ということが。ほんとうに宗教はその謎を解いたのかしら? あるいは恋愛が?
(p228)

午前中来訪したピーター、そしてここで登場する娘エリザベスの家庭教師であるキルマン。この二人を恋愛側と宗教側に配置したクラリッサの意識。一方のクラリッサの「部屋」は個人と表現してもよい。確かウルフの作品に「部屋」がついたものなかったでしたっけ。
その前には蜘蛛の糸の比喩のシーンがあった。場面転換の繊細な妙味。
(2012 11/26)

喧騒の自覚

 この喧騒には自覚がない。人の運命や宿命にたいする認識もない。
(p246)

まあ、それはそうだろう…喧騒に自覚があったら、怖い…

 人間の忘れっぽさは心を傷つけ、忘恩は心をむしばむかもしれない。しかし、年々歳々絶えることなく流れ出すこの喧騒の声はいっさいをうけとる
(p246)

この「ダロウェイ夫人」の本当の主人公…というより、登場する様々な人々の裏側(というか人々を図とすれば地(その逆もまた真)というか)はこうした街の喧騒だったりするのかも。こう考えれば前に書いた時計と時刻の謎も少しわかる。時計の鐘も喧騒の一つなのだ。またこの文章の後に出てくる印象的な雲と光などの自然界もまた、その一部なのかも。

ウルフ自身はこうした喧騒に身を任せたのか。

浜辺の貝殻

続いて、セプティマスの自殺の場面…違った見方すれば追いつめられたうえでの事故死…

まずはそこに残された妻レイツィアの意識から。

 そして海は貝殻に虚ろな響きをひびかせながら、浜辺に横たえられたわたしになにごとかつぶやいてる。わたしの肉体は誰かの墓に撒かれた花のように浜辺一面にばらまかれている、そうわたしは感じる。
(p267)

一面にばらまかれている、というのはこの小説の一つのテーマ。少しあとのページで若きクラリッサが同じようなことを考えている…

さて、先のセプティマスの自殺の場面から、次は彼を運ぶ救急車のサイレンが聞こえてくる中のピーターの意識から。

 まるで自分があの感情の奔流によってどこかとても高い屋根のうえに吸いあげられ、肉体以外の部分だけが、貝殻の散らばった白い浜辺のように、裸のままとり残されたかのようだ。
(p270)

どうでしょうか?さっきのレイツィアの意識の文と結構似てると思う。少なくとも使用単語の選択に関しては。浜辺とか貝殻とか。意識は個人を越えて、各々のより深いところに入り込んでいくものなのか…
(2012 11/27)

世俗小説としての側面

ここでこの小説の世俗小説としての側面を…
この1923年って、90年近く前だけど、今の自分が想像するのに無理がない世界ではある。車もあるし鉄道もあるし電灯もある…これがも少し前(例えばユリシーズの1902年やゾラやプルーストの(作品の)時代)だと、車はそんなに一般的でなく馬車。プルーストには初めて自動車に乗るシーンがあるが…まあ言ってみれば、現時点での文化が出揃った感じ。あと、第一次世界大戦後というのもその心的共有感?に一役かっているのかも。世界的視野とそれから戦争への無力感。自分達の力ではどうにもできなくなった社会・政治の動き…

物語的には、これからクラリッサのパーティーが始まるところ。毎度の場面転換の巧さと、それから自己の海を泳ぐさまの比喩、それから夕暮れのロンドンを水没した街とした比喩。

窓の外には

「ダロウェイ夫人」の本体部分は読み終わって、あとは充実した解説だけ。今回はほとんど解説の先回り読みはしてないので、何が書いてあるのか、本当に楽しみ。

前の世俗的ないろいろなものに飛行機も付け加えといて下さい。それも何かの宣伝で飛ぶという…

 死は挑戦だ。人びとは中心に到達することの不可能を感じ、その中心が不思議に自分たちから逸れてゆき…
(p329)

中心云々というのは最初の方でクラリッサが何か言ってた。この小説は死がテーマ…というよりそれしか書いてないとも…シェイクスピアの「死を恐れるな」という言葉とともに。でも、クラリッサがこの日、本物の死に直面するのは、このパーティー内で話題になったセプティマスの自殺が最初。

 彼女は窓辺へ歩いていった。
ばかばかしい考えではあるけれど、あそこにはわたしの一部がある。
(p331)

いろんなところに自分という存在がある、というのがこの小説のもう一つのテーマなんだけど…窓辺か…セプティマスも窓辺から…

確か最初の構想ではダロウェイ夫人自身が死ぬ役割なはずでしたよね。それをセプティマスという副登場人物に置き換えたわけだけど。こうしてみると、この部分以降クラリッサが出てこないこともあり、本当にクラリッサはこの日を生き延びたのか、謎といえば謎に…

そして小説の最後もこんな謎の言葉に…

そこに彼女がいたのだった。
(p348)

(2012 11/28)

そこに彼女はいたのか

「ダロウェイ夫人」の解説も全部読み…終わってない…文庫版あとがきが残っている…

ま、それはともかく、瞬間瞬間をその中に身を投じて生きようという、この小説のもう一つの側面(それを代表するのがクラリッサでありピーターである)が、19世紀末に大きく現れたキリスト教世界観からの脱却の潮流とつながっている、というのはまず押さえておこう。セプティマスが大戦を思い出すように、クラリッサやピーターは1890年代の思い出に浸る…先の19世紀末の潮流を決定づけたのがダーウィンだったんだろうか。

ところで、訳者丹治氏は小説最後の文を文字通り?受け取って、ピーターの前にクラリッサが現れたとしている。まあ、ウルフ自身の序文でも最初は死ぬ予定だったけど…と書いているし、丹治氏はクラリッサが向こう側の建物にいるおばあさんの姿に生きようというメッセージを受け取った、としているのも魅力的だし…でも、そうではない可能性も(ウルフの構想はともかく)味わえるのではないか。自殺した姿、あるいはピーターが感じとったクラリッサのオーラだった…などなど。

ウルフの序文で、真実と虚構が複雑な絡まり方をしている云々とあった通り、小説内の真実と虚構もまた絡まりあっているのだろう…って、考えるのはどうか。
(2012 11/29)


作者・著者ページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?