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「隔離の島」 ル・クレジオ

中地義和 訳  ちくま文庫

「黄金探索者」、「回帰」(邦題「はじまりの時」)とともに、モーリシャス島で作家の祖先を探る三部作の第2編。モーリシャスものには、ほかに「ロドリゲス島への旅」(「黄金探索者」と並行して書かれた)、「雨季」(「春、その他の季節」に収録)や「飢えのリトルネロ」などがある。

原題は「40」という意味、これは中世に伝染病の患者を約40日検疫隔離したということから来ている。
(2021 01/30)

「終わりなき旅人」

「隔離の島」最初の章「終わりなき旅人」(この作品は全4章なのだが、レオン(ここの語り手(もレオンという名前)の祖父ジャックの弟で失踪した)の話の第3章が作品の大部分を占める)

 ぼくの探している男は名前をもたない。影よりも、何かの形跡よりも亡霊よりも希薄な存在だ。その男はひとつの震えのようなもの。願望のようなものとして、ぼくのなかにある。ぼくをよりよく飛翔させるための想像力の飛躍、心の弾みのような存在として。それにぼくは明日、世界の反対側の果てに向かう飛行機に乗る。そこは時のもう一方の先端だ。
(p41)

ジャックが子供の頃、とある安バーで見たランボーと、それから今語り手がモーリシャスへ向かうという、二つのパリ脱出が、寄り添うかのように密接に書かれていく。そこにジャックとレオン(祖父の弟)の話が絡み合って。

名前をもたない男を探す語り手は、「黄金探索者」の旅を語り直す「ロドリゲス島への旅」の作者のようなのか。複数の声を、その交差を探す。

(2021 01/31)

「毒を盛る男」

第二部「毒を盛る男」。1891年5月、語り手の祖父とその妻、そして祖父の弟、彼ら三人でマルセイユからモーリシャス行きの船の旅。その途中でアデンに寄港する。

 世界中から切り離された筏に乗っている感覚だ。レオン自身にも理解できない神秘のように、彼のまなざしのなかに、海のなか、あまりに強烈な光のなか、砂漠の熱気のなかに輝いているのは、おそらくはそれだ。もう到着したも同然に思える。いわば入口に立っているような、自分の土地を見つける直前に最後の敷居を今まさに跨いでいるように思える。
(p50)

見つける直前に「最後の」敷居を跨ぐ…というのは普通に感じる通りでは逆のような。入る直前に既にその光の中にいた、この後、もう一回「敷居」という言葉が出てきていたような。

 病人の名は発せられただろうか。ジャックはその名を耳にすらしただろうか。それにたとえ聞いたにしても、血の気が失せて疲弊した、苦痛に硬直したその肉体に、二十年近くも前にパリの古い界隈の酒場にある晩入ってきた男を、拳を振り上げて一同を威嚇したあの猛り狂った若者、その定まらぬ眼が九歳の少年の眼と合った若者を認めただろうか。
(p54)

その病人の名はランボー。この作品のテーマの一つはランボーから発せられる、何らかの光の受け継ぎ方。レオンには、当人が意識しているのか否かは別として…
(2021 02/20)

海の音と灯台照明室

アデンからザンジバルを経て、モーリシャス島、ジャックとレオンの父祖の地…のはずがプラト島(英語ではフラットだが、名前とは正反対の旧火山の島)で一旦隔離措置に。乗客に伝染病患者が出たための措置。一旦、がいつになるのか。プラト島は。西岸の湾に港と移民の村、東岸に隔離対象の西洋人の隔離村。

 それにしても、ここほど広大で神秘的に見える場所をぼくは知らない。島の境界は海岸ではなく、囚人めいたぼくらには、それは水平線の向こうにあって夢の世界とつながっているみたいだ。
(p79)

夢の世界は狂気の世界。この文章はレオンの行く末を暗示?

この後、語り手(この小説の本体とも言える「隔離」では、今までのレオン((作者ル・クレジオと重なる)ではなく、彼の祖父の弟レオン)には、様々な音が聞こえてくる。

 地面にはたえず振動が聞こえていたが、それが何なのかわからなかった。ときに緩慢で重厚な、ときに耳をつんざくような鋭い音だった。
(p81)

次の音は、プラト島ではなく、レオンの父が死んで間もない頃の寄宿舎の思い出。

 開いたドアの向こう側から、冷たい風が渦を巻きながら吹きこんできて、風の音、海の音、それに軋るような鳥の声が聞こえた。
(p84)

プラト島の描写に戻るが、次は音ではない。島の南端の灯台の照明室。

 なぜだかわからないが、この夕べ以来、ぼくには照明室を修理し、灯台にふたたび明かりを灯すことを夢見ている。もしかしたら、隔離所の奥からその明かりが見たいだけ、雲の覆いに照り映えるその微光を感知したいだけなのかもしれない。
(p86)
 夜になると、湾の反対側の賎民の村にいたるまで、家々の奥にランプがともる。歌か、祈りか、それとも子守歌か-音楽めいたざわめきが聞こえる。
(p88)

現実の歌ではなく、レオンの中で理想化されたもの?

 最初の朝、呼び子の音はぼくらに突き刺さる感じがした。鋭い音、凍てついた容赦のない音、鳴り響いて臓腑のなかまでに侵入し、鳥肌を立たせる音だ。
(p90)

ここまでの疑問等。

これらの箇所の「音」はレオンの狂気を示しているのか?(狂気というのが正確かどうかも)

現場監督は何を「監督」しているのか? プランテーション(畑、滑石拾い? 防波堤修復)

インド系移民の村にある賎民の存在。カースト下部?

メトカルフという乗客仲間の植物学者のノート抜粋。今のところ植物学のメモだけなのだが、この後変わっていくのか? 作品上どういう効果があるのか?
(2021 03/05)

語りの重層性

 ジャックはぼくから遠ざかり、すでに浜にいる。熱された岩を縫って斜面をふたたび下っていく途中、パリサッド湾の全体を包むような喧騒が聞こえる。それは人々がこぞって立てる不安と怒りの叫びだ。大きくなってはしぼみ、また始まるといった調子で、人の口から口へと伝わって浜辺のいたるところに伝播する。男も女も発する、ときに重々しく、ときに甲高い叫びだ。こんな声は一度も聞いたことがない。身体中に戦慄が走る。それはまたひとつの歌、音楽、怒りの叫び、そして嘆きでもあるからだ。
(p135-136)

島民の暴動直前の様子。これまたレオンが聞く音。

 「どうしたいの。どういうつもりなの」
ゆっくりとした、明確な物言いであるが、気取ったところはない。
質問に驚く。
「どうしたくもないさ。君を待っていたんだ」
彼女の目が輝く。まじめな口調でいう。
「それじゃ、こんなふうに毎日わたしを待っているの」
シュルヤは砂に腰を下ろしてラグーンを見つめる。
(p150)

現在形で畳みかけることもあって、語り手が語っている気がしない。文章化しているのは、自作の連作絵画を素早く仕上げながら誰かに(おそらく自分に)説明しているかのような後世の語り手、レオンの孫のレオンであろう。語り手の問題は解説で取り上げられるテーマであるが、語りの重層性を見せるのも作品の重要テーマであろう。

メモ

1、「性悪者ヴェラン」は本当に性悪者なのか?名付けたのは誰か?

2、ここまで読んできて、ル・クレジオは自分の好みには合わないかとも? 理解できない境地なのか。前にちょっとだけ読んだ「地上の見知らぬ少年」ではそこまで感じなかったけれど。
まあ、そういう距離ある作家の方が得るものは大きいのかも?あるいは作家がメキシコ行く前の「調書」とか「洪水」とか見てみる?

3、p149で初めて?出てくる「フェニックス・ルブリカウダ」という熱帯鳥。下のp186の文の「彼ら」というのもそれ。というように重要なモティーフである鳥。だけど、この部分の注によると正しい学名は「ファエトン・ルブリカウダ」といって、作品第4部で現代レオンがこの鳥について言及する時(p557)では正しい学名で言われるという。

 皆が寝入るのを待っている間、自分の心臓の鼓動を聴いていた。それは隔離所の建物全体に、床にまで反響するようで、時の経過を画する規則的な振動と区別が付かなくなるように思えた。
(p164)

ジャックとヴェラン、それにインド人作業監督との取り決めで、乗客隔離所とインド人村相互の行き来、及び夜間外出を禁止することになった。語り手レオンはその夜、早速破ってインド人村のシュルヤの家まで行こうとする。

「規則的な振動」とは何か、時計は止まっているというので、それではない。この段落最後にある「時を計る別の尺度」潮の満ち引きもろもろだろうか。

シュルヤには会えたが咎められ、前にこのプラト島近くにあるガブリエル島へ隔離された重病人ニコラとトゥルノワ氏、それにインド人女性二人の遺体を燃やしていた、と教えられる。レオンはガブリエル島へ泳いで渡り、それを確かめようとする。

 呼び子のように切れ目のない彼らの甲高い鳴き声、旋回しながら発する鳴き声は、彼らの不安をぼくの内部に侵入させる。それでめまいに囚われる。
(p186)

交わることのない個体の感情が交差流入する時、人間は新たな局面に(狂気とは安易に言わないでおこう)立たされる。
(2021 03/06)

プラト島とインドの交差

 しかも、父の死後ずいぶん経ってからも、まだ生きているように、父のことを現在形で語った。
(p191)

ここはシュザンヌのこと。シュザンヌが現在形で過去を語るように、語り手も現在形で語る。プラト島にいるレオンは現在直面しているから現在形で語るはず…いや、こういった語りは現実に直面している時はできないはず。要は語り直している誰かがいるはずだ…ということは、シュザンヌの語りは?

 それは自分の一生よりも大きな時間があり、自分の視線よりも広大な存在がある、という印象である。
(p197)

ハイダリー号のインド系移民共同墓地、1856年、カルカッタから移送された何千人ものインド系移民が、目的地直前で流行病発生のためここで降ろされた。3か月後、船が来た時には数人しか生存していなかった…

人の一生より大きな時間を持つものだったら、ずっと現在形でもいいのかな。ここでの「存在」は「神」とかではなく、人間記憶の共同生態系のような、そういうもののような気がする。少なくとも、作家(ル・クレジオに限らず?)はそこで書く。

 ここは世界の外ともいえる場所だ。ガブリエル島の燠の痕のような、にがい、呪われた場所ではなく、踊るような波に包まれた、とても優しく平穏な場所だ。
(p212)

この文章付近では、もうレオンはパリサッド村のドム族(ロマの祖先のような人々)に溶け込んでいる。狂気とこれまで思って読んでいたのが、平和な結末になりそうな…しかしまだ小説は半分以上残されている。

ガブリエル島が病状の進んだ者達が運ばれる「死の島」であるならば、パリサッド村は生を象徴する。そういう対照構造。

p207から始まるいくつかの断章は、ページの段組も変えて、シュルヤの母アナンタ(どうやらカーンプルという街でセポイの反乱時壊滅したイギリス人の生き残った娘らしい)と彼女を拾ったギリバラが、ドム族の筏に乗ってヤムナー川を下る…そして最終的にはモーリシャスに着く…話。

 「これからどこへ行くの」
 「わからないわ」とギルバラは言った。
 「わたしたちはベナレスに行く」
 「この川が運んでくれる一番遠くへ行くわ」とギルバラは言った。
  リルは笑いだした。
 「それならあんたは海まで行く。川が運んでくれる一番遠い場所は海だよ」
(p224)

そして、折角シュルヤと予定調和的?になったのに、隔離所に戻って来たら、植物学者ジョン・メトカルフがガブリエル島へ運ばれていく。レオンは兄との対話の中で、モーリシャス島の「長老」たちに復讐しようと絶望的に思う。
(2021 03/07)

語り手は既にパリサッド村側にいる時間の方が長くなってないか。

 それがどうしたことか、すべてが不滅になることが、あまりに現実的になることが、不意に怖くなった。まるで実際に境界線があって、それを越えるともう後戻りができないみたいだった。
(p291)

いつ越えるのか。

ちなみにモーリシャス本島、モカの街にあるクレオールハウス・ユーレカというのが、ル・クレジオの祖先の家(p605の写真)。その近くにはインド人移住・民族博物館というのもある。
(2021 03/08)

記憶の海嶺

 ショトの宝物は所有者に似て、奇妙でかつありふれた、時と死を物語るこの島の破片だった。
(p313)
 それに島の基底を揺るがすようなあの振動、玄武岩を横切ってここまで響いてきて、両脚で立ったぼくを震わせる波動がある。大洋の真ん中に突き出た、誕生の埋もれた火花を宿すこの島全体が、記憶であるかのようだった。
(p329-330)

第3部の始めの方にあった様々な音や振動は、ここにつながる。兄ジャックが語るモーリシャスの夕べの風景も、アナンタからシュルヤに伝わってきたカーンプルからヤムナー川を下ってきた旅路も、そうやってレオンに語りかけてくる。モーリシャスやプラト島は海嶺の上に生まれた、東と西の世界が溶け合い噴き出す場所。

 それなのだ、今ではよくわかる。ぼくのなかで震えおののいてるのは記憶だ。あのような他のもろもろの人生の思い出、荼毘に付された肉体の思い出が、島の地表にまで浮上してくるのだ。
(p330)

そして、様々な記憶が一人の語りとして混じり合う。しかし、「今」とはいつなのか。語られるこの場面ではなく、遠く隔たった時であるようにも思える。語りの構成をかたちづくるのに現代のレオンが幾ばくか力を与えているのだろう。
(2021 03/09)

語っているのは誰か、なにものなのか

インドでのギルバラ(タゴールの詩作品に出てくる名前らしい)とアナンタの旅路パートだけど、p363では、「失踪した大叔父レオンの伝説を祖母シュザンヌが話してくれた」とある。ということは、このパート書いてるのは(作者は置いといて)現代のレオン。
問題はどうやってシュザンヌがそれを知り得たか、ということなのだが、よく考えてみれば、インドパートだけでなく、プラト島のレオンパートもずっと隔離所にいるシュザンヌには知らないことだらけだと思う。もちろんほんとに書いてるのは作者ル・クレジオなのだけど、そこには書き手の作品の狙いが潜んでいるような気がする。共同記憶、集合語りという。
(2021 03/10)

プラト島からガブリエル島へ。シュザンヌを連れて行く。ジャックと語り手も同行。

 プラト島に目を凝らすと、過去そのものがまとった形のように思えてくる。まるで自分が別の人生のなかに紛れこみ、時間の外の観測所に位置しているみたいで、物の細部の一つひとつ、石の一つひとつ、茂みの一つひとつがよく見えて、何もかもがぼくの生きてきたことを証言してくれているようだ。
(p376)
 恐怖をはらみ、ぼくのなかの過去も未来も消し去り、記憶のない人間にする音だ。
(p382)

時間の外化、自分という人間の外化、それは極限状況になると知覚できる…
(2021 03/11)

隔離と追放

ガブリエル島。語り手を取り囲む外延の人の記述。

 ポタラがぼくらを探しにきた。ただ無言でテントの前に立った。顔の表情はこわばっていた。ジャックがいくら入るように合図しても、お椀に盛った米飯を与えようとしても、近寄ってはこなかった。こちらから近づくと逃げた。日差しを背に受けたシルエットはひょろ長く、延びた影のようだった。
(p425)

ポタラは、暴動が起こりかけた時に陵辱されたラザマーの弟。この一家はインドで「泥棒」民族と呼ばれていた集団の一家らしい。そして彼が来たのは、ラザマーが死んでしまったから。

同じ段落内で、今度は語り手達と同じ船に乗ってきた植物学者メトカルフ夫妻、夫のジョンはこのガブリエル島で亡くなり、妻のサラは一線を越えてしまっている。

 途中でサラ・メトカルフを見かけた。茂みの陰に隠れるようにして、ぼくらが通るのを見ていた。こちらから話しかけようとすると藪のなかに逃げ、恐怖に駆られた動物のような鋭い奇声を上げた。
(p426)

影とか動物とか、人間社会から外れてしまった人々。サラの場合は恐怖からの狂気、ポタラの場合は、民族(というか集団)に刷り込まれた記憶が、こうした人間を怖がる本能を抱かせたのだろう。語り手達はその瀬戸際に立ち止まっている。

 ぼくらにはもう親戚はない。あるいは親戚などいたためしがないのかもしれない。それは孤独のなか、ル・ベール寄宿舎の寒い共同寝室で、ひもじさを紛らわすためにぼくが育んでいた夢にすぎなかった。
(p454-455)

ジャックとレオン、兄弟の齟齬が、船がやってきたという情報によって改めて浮上する。シュルヤはもうジャックとシュザンヌと知り合ってはいるのだが。レオンはジャックに、モーリシャスに戻っても父を追放した伯父「長老」は相手にしてくれない、と言う。それはジャックも気づいていたことなのだが。レオンは夢見る人間で、ジャックは現実的、という図式が揺らいでいく。

孤独と夢。夢を見られる人は幸いである。見られなくなった時、何物かから追放された感覚を持つ。
(2021 03/13)

置き去りにされた者の声、そして匂いと震動

p469でのインドパート(といってもプラト島に来た時の話)は誰が語っているのか、「なおもアナンタのことを知りたい」と言っているのは誰か、そしてここで巻頭のプラト島地図の由来が出てくる。これはコービーという地理学者が製作した地図。政府お抱え学者なので、この地図にある様々な施設は机上の地図上だけのものだったかもしれない、という(だから、そう考えるのは誰か?)

7月7日。7月1日以来日付表記が戻ってくる。この日、迎えの船が来る。ジャックやレオン、シュルヤ、それにミュリアマーとポタラはガブリエル島を離れるが、サラ・メトカルフを探しにもう一度戻る。そこでレオンはジョンの手帳を見つける。ジョンの植物学者パートの回収。サラはシュルヤが連れてきた。

 小屋や貯水槽からぼくらを追う視線があるような気がする。それはただ、信号機のまわりを旋回する鳥のけわしい眼なのかもしれない。ラグーンに押し寄せる海水のざわめきのなか、置き去りにされた者たちの全員が今も生きているかのように、あのはるかな振動が、あの息吹が聞こえる。
(p491)

視線と振動。威嚇されているのか、逃げるのを咎めているのか。

作家ル・クレジオは置き去りにされた者の声を聞こうとしている。物理的にではなく、精神的にガブリエル島に踏み止まる、作家というのはそういう存在であるのだろう。だから、現代のレオンは、そしてル・クレジオは語り手レオンに寄り添うのだろう。

 スクーナーの煙が風に散って、ぼくらのほうに戻ってくる。突然、鼻をつく機械の臭い、石炭や、熱せられた油の臭いがする。こんな匂いがあることを知らなかった。動物のように空気の臭いをくんくんと嗅ぎ、舌で味をみる。今や機械の振動音が、海一面に満ちてぼくの足下を走る重い振動となった。ぼくの動悸を激しくするとどろきだ。
(p493)

嗅覚と味覚、そして聴覚。振動がまた戻ってくる。「臭い」の言及の中で一つだけ「匂い」となっているのはなぜか。原書でも違う単語なのか。

振動はいかなる時に語り手に現れるのか。ここでのように不安にさせる、急がせる時、だけではなかったと思う。まだ自分の中で捉えられていないところ。この小説で一番気にしているところなのに。

 ぼくにはおなじみの震動、ガブリエル島で毎夜感じた振動だ。世界の表層のすぐ近く、火口の縁や、海に浮かぶ泡の房飾りの上にある、生き生きとして永遠の何ものかだ。そう、それは今夜、人々の身体のなかで震え、彼らを眠らせないでいる願望だ。
(p510)

また振動。ここでも一箇所だけ「震動」となっているのが気になる(解説p624を見ると、原語は「振動」「震動」とも同じらしい)。語り手レオンはアヴァ号の乗客で唯一プラト島に残り(残る決意を示したバルトリとの短いやり取りが印象的)、原始社会の理想郷が出現したかのような夜、レオンはあるいは作者ル・クレジオは人々の願望を読み取る。それは巣穴の奥の鳥たちの体内の願望の震えをも捉える。

 今までわからなかったが、プラト島でぼくらは死者に囲まれて暮らしてきた。口のなかは火葬の灰の味がして、灰は服にも髪にも付着している。それにあの未知のまなざしがある。光に混じってぼくらをたえず貫く、まぶたのないあのまなざし、水平線を見渡す鳥のまなざし、岩に吹きつける風のまなざし、風と海が語る言葉、大洋の向こう側の端で生まれた波の長いおののき、あの絶え間ない震動がある。
(p514)

そしてまなざし。まなざしは聴覚に移行する。ここでは「震動」だ。人間が関与しないと「震動」なのか。最初のまなざし、まぶたのないというそのまなざしというのがよくわからない、自然神、光の神のようなものか。
(2021 03/14)

欠落を修復する者

第3部最後、ジャック夫妻と同じ第1便には乗らなかったレオンとシュルヤは、翌日移民たちと第2便に乗ってモーリシャスへ。そこで「失踪」した、という。

第4部「アンナ」は、時系列的には第1部の続き。現代のレオンが、「長老」の孫娘アンナに会いにモーリシャスへ。ウーレカの屋敷やプラト・ガブリエル島へも行く。

アンナは修道院の外れの家に住んでいて、マエブールの街で野犬を殺すための毒入り肉団子を置く。これはエチオピアでのランボーと通底している。

 アンナがここに何をしにくるのか人は知っている。そのことで彼女を非難する者はいない。それはこの世界における彼女の役割だ。彼女がいなくなったら、代わりにそれをする者はいないだろう。彼女の役割は終わる。それだけだ。
(p546)

全ての人にはその人なりの他には変えられない何がしかの役割があり、それは死とともに呆気なく消える。アンナがレオンに渡した帳面には、娘の頃、シータという娘と仲良くなったことが描かれているが、このシータとは本当にレオン(第3部の)とシュルヤの子供なのだろうか。そして、今、アンナの家に時々現れ「死骸」とか罵っていく(でも、現代レオンがモーリシャスを去ったあと、倒れていたアンナを見つけたのもこの女)狂って悪臭がする女もまたシータなのか?

プラト・ガブリエル島での「震動」。これを捉えて言語化するのが作家の使命。

 それでも、彼らが今もここにいるような気がする。尖峰の周囲を旋回する鳥の視線に似た彼らの凝視を受けているように感じる。この島の岩の一つひとつ、茂みの一つひとつが、彼らの存在、彼らの声の記憶、彼らの身体の痕跡をとどめているように思われる。それは一個のおののき、緩慢で低い音を立てる震動のようなものだ。(p556)

この作品の最後はやはりランボーの最後の地、マルセイユの病院跡を訪れる場面。

解説から少し。

 夢想が探索の手段になるのだ。それはとりもなおさず、現実世界で失われたものを想像世界において取り返すこと、つまり修復を意味する。
(p620)

これはひょっとして「黄金探索者」との関わり合いをほのめかしているのかな。そして、この作品に多く現れた振動やまなざし、この世にいない何ものか、それらは次のモーリシャス物である「回帰」(「はじまりの時」)で六代にわたる叙事詩で作者によって掬い取られるだろう。というわけで、「隔離の島」読み終わり。
(2021 03/15)

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