「汚穢と禁忌」 メアリ・ダグラス
塚本利明 訳 ちくま学芸文庫 筑摩書房
リスク分析と禁忌の研究
まずは謝辞から
続いて、「ラウトリッジ・クラシックス版への序」から(2002年)。
人間社会の特徴は「分類」することだ、とダグラスは考えているようだ。
リスク分析とタブーの分析は似ている。ダグラスは政策アナリストアーロン・ウィルダフスキーと共著でこの問題の著書を書いた。
(2022 12/16)
「緒言」より。この本、語り口が(ちょっとステレオタイプ的にもなるけど)実際的、経験的なものを重視するイギリス的で、エヴァンズ=プリチャードの人類学を自動車のフレームレスシャーシ構造に例えたり、タブーの説明でホウレンソウを子供に食べさせる親が出てきたり、とそこにも惹かれてしまう。あとは、この辺り、先々月読んだバーガーの「聖なる天蓋」(特に冒頭)との比較もしてみたい。具体的にどこをというのはこれから…あまりこの2冊の比較は、人類学と社会学で分かれていてされていないような気もするので…
(2022 12/18)
第1章「祭祀における不浄」
ここでの論旨は、聖と穢れは一般世俗とは分かち、聖と穢れはお互い行き来する、ということ。ここではエリアーデの言葉を。一見意外に思うが、考えてみると、脅威なるものは聖でもあり穢れでもある。現代社会は聖の方はスピリチュアルとかいって大切にするが、穢れは衛生政策に押し付けて忘れ去っている社会と言えるだろう。アンバランスであり、聖側の濃度?も薄くなってきているのでは。
今日はもう一箇所。
エドワード・バーネット・タイラー(1832-1917)、ダーウィンの「種の起源」の少しあとでこの考えを示す。これも考えてみれば、ほんの僅かでも継続していれば、繁栄している上の種族がバランス崩せば、その継続されてきたものが変異の鍵になることもあるだろう。
(2022 12/19)
第1章続きは学術史概観のような章。メアリ・ダグラスが一番批判しまだその影響が残っていると論じるのは、「金枝篇」のフレーザー。呪術-宗教-科学という発展段階で分離し、原始呪術が倫理とは全く無関係という誤った解釈を広めたからだという。
第2章「世俗における汚穢」
第2章になると俄然(?)面白くなってくる。ユダヤやイスラムでは豚肉を食べないとか、ハヴイク・ブラーマンの穢れの実例とか…そういう、様々な禁忌は、医学的唯物論(一見奇妙な禁忌であっても、そこには必ず現代衛生学的根拠がある…ウィリアム・ジェームズの造語らしい)でもなければ、全く無根拠でもなく、そこには原始-現代、未開-文明関係ない一つの軸が存在するという。それは何か。
靴は本来別に汚いものではないが、食卓の上に置くことは汚く禁忌とされる。それは空間秩序を侵犯するものだから…という理論。
エンプソンが詩について、エーレンツヴァイクは芸術作品について、こうした曖昧なまた領域侵犯したものに昂揚と魅力の源泉を言及している。
(しかし…エンプソン! ここで出てくるとは…「曖昧の七つの型」読まなきゃ…)
もう一つ、サルトルが例にあげている、液体でも固体でもない蜂蜜が身体を侵しつつ流れていく事例(p108)、これもこれでご飯3杯くらいいける(笑)
…とにかく、ここからは、こうした汚れと認知された対象に対して、どのように対処していくのか、が論じられていく(のかな)。
(2022 12/20)
第3章「レビ記における「汚らわしいもの」」
聖書のレビ記と申命記にある、食べることができる獣と禁じられた獣。これまでの解釈では象徴的な意味とか、近隣の民族の要素を取り入れたなどあったが、ここでは聖なるもの(隔離するという語源説もあるらしい)は、雑種ではなく完全なもので、かつ元々家畜化されていたものの追認という要素もあるという。儀式や戦争に蒐集された時、何かやりかけの仕事(収穫とか結婚とか)がある場合は、それを片付けさせるために一回帰した、というのも「聖なるものは完全なるもの」という考えに含まれる。
(でも、この部分の反論とその応答は、本の冒頭にあるはずだ…)
(2022 12/21)
第4章「呪術と奇跡」
儀式的な言語という概念がオースティンにあったけれど、それはこうした儀式的用法が(命名とか)予想以上に重要である、ということの証明になるかもしれない。
あとリーンハートのディンカ族の研究で出てくる〈スピアマスター〉の生埋めというのがとても気になる。スピリチュアルマスター? ここでスピアマスターは同胞のため、生埋めになることによって、平凡な死から免れ死に勝利する。ディンカ族もスピアマスターが死なないと思っているわけではない。ただ儀式を通してそれを隠し、彼らの分類構造を守るのだ…と書いていても、スピアマスターとか生埋めの方法とか全くわからないから、ここはできればリーンハートの研究自体を要調査。
(実はこの本最後にもう一度取り上げられている)
ここでは、モースが呪術を贋金に喩えていることを紹介し、実はそれは「贋」ではなく、本物の金銭なのだ、とダグラスは述べている。
第4章まとめ。
原始的呪術は、現代の精神分析の理論をまるで先取りしたかのような戦略を取る。精神分析に対し、19世紀末から20世紀初頭の社会情勢があって、そこに合致したからこそ症例が生まれ精神分析も生まれたとも言われる。しかし、未開社会のこうした事例は、それもやはり現代社会との接触で新たに生まれたものなのか、それとも原始的状況は現代よりももっと根源的に心的危険と隣り合わせでそちらに精神分析はより合うのか、それともどの時代にもある普遍的な状況なのか。
消極的儀式、すなわち禁忌もまた儀式なのだ。儀式は言語という形式…権威を持った…で与えられる。
(読んだのは22日、23日)
(2022 12/24)
第5章「未開人の世界」
未開社会の、現代社会の分化された思惟に対する、思惟の特徴は…
下位分類として、人間誰しも宇宙と等しく関われるとするものと、ある特定の個人のみが関われるという分類、そして、運命決定論的な全ての人間の運命が他の人々の運命と綯い交ぜされているもの(例:ホメロス的世界観)と、柔軟的で複合的人格を持つ個人を調整して関わるもの(例:西アフリカの事例)がある。
p208の終わりから始まるアザンデ族の毒薬の事例は特に興味深い。もちろん彼らは、毒薬が人であるとは思っていない。が、毒薬に神託を下すには、声高に毒薬に語りかけ質問し、なおかつその質問に対し毒薬が返答をする、としているのだ。ダグラスはこれを現代社会の街頭アンケートに捕まった人々と同じとしているのが楽しい。
未開社会の人々が、発達段階の幼児の段階でストップし、そこから抜け出せないので、このような思惟になる、というわけではない。彼らは個人では成人の思惟に到達成熟しつつ、その上で社会秩序を成立させるための方法として、幼児的段階の思惟に親和性を持つのだ。この後に続くファンシナの論文にあるという、ブショング族の三人の思索家という記述はそれを証明する(この論文読みたいのだが、訳されてはいないらしい)。
未開社会それぞれの技術的、社会的な状況、そして社会的制度に、これらの思惟・信仰は従属しているものであり、現代社会はそれらの状況・制度が発達した結果、もう一方も変容した、と考えるべきなのだろうか。
(2022 12/25)
第6章「権力と危険」
若島たちが集落外れの仮設小屋に寄せ集められ、そこで成人の儀式を待つ。このような人類学ではよく見られる事象も、この文章の一例。若者は子供でも無ければ大人でもないという境界的立場にある。
こうした例のもう一つとして、胎児(胎内から外界への移行期)が挙げられている。妊婦とは無関係なこの力のため、ここにもさまざまな禁忌が成立している。あとはイギリス(というかヨーロッパ全般)におけるユダヤ人もこうした境界上の集団として指摘されている。
前者は妖術、後者は邪術。前者は社会構造の境界上にいる人物が意識せず発し、後者は社会構造の権威者が意識して行う。これをこの後例外事象を見ていくことによって考えていく、という流れ。
人類学と政治という観点もこれを機にもう少し考えてみたい。
(2022 12/26)
第7章「体系の外縁における境界」
この章は、主に排泄物を利用した邪術から、一部の心理学者・精神分析学者が、未開文化は小児の発達段階と等しい段階にある、という見方をしている。それをダグラスはここで批判している。第5章で既に触れられている話題だが、ここで詳しく論じられている。
これまでは割と人類学としては、心理学に近づいているような印象を自分は持っていたが、また違うところも多々あるようだ。確かにp272-273のペッテルハイムの文章見ると、自分でもかなり違和感を感じる。「体系の外縁における境界」というのは、ここでは排泄物を指しているようだ。
(2022 12/27)
第8章「体系の内部における境界」
道徳律と汚穢の領域は大きくは重なるが、また個々の領域をも持っている。
道徳律の領域は、現実には曖昧で常に揺れ動く。これは例えば近親相姦の禁忌の場合では、実際にその相手がどのくらい自分に近いのか、禁じている親等内に含まれるのか否かわからないことも多い。この場合行為者の意思を酌量して道徳では判断されることも多い。
ところが、汚穢の場合は厳格にその領域が決まっていて、当人の意思や社会状況を全く考慮に入れず自動的に決定する。この二つの経路は、社会を程々に秩序立てて運営していくために保持されなければならない、違う役割の似た機能を持つ経路である。
(2022 12/28)
第8章続き。
同害復讐法(ハンムラビ法典の「目には目を」のような)について。
レヴィ=ブリュール(「弓と竪琴」でも出てきた)の指摘。これは単なる表面的同一行為というだけでなく、内的精神においても自分の受けた傷と同じものを与えなければならないらしい。そうしないとまたその歪みから新たな矛盾が生じてしまう。
第9章「体系内における矛盾」
めんどくさい禁忌ばかりだが、この中から次に生まれる民族を選ばなくてはいけない、という状況になったらどれ選ぶ?
(2022 12/29)
第10章「体系の崩壊と再生」
サルトルが「存在と無」において、これら石塊を崇めている人々を批判しているとも言う。
この本冒頭の、生活に密着した秀逸な喩えが、結末近くにもまた現れる。
次はレレ族におけるセンザンコウの秘儀について。人間において双子以上が生まれるとそれは異例でありめでたき異例である。それと対応する動物が、センザンコウ。魚ではないのにウロコで覆われ、トカゲに似ているが乳で子供を育てる。そして、人間に対して多産であるはずの動物でありながら(人間の双子の例とは逆に)一匹しか子供を産まない。これは秘儀であり、日常の秩序を保つ禁忌に対するものとなる。
前にも出てきたディンカ族の〈スピアマスター〉…そう呼ばれる者が老人になると、彼は自己の死の時期と方法と場所を自ら選び、共同体の人々に依頼し、その目的は共同体を守るため。
ここまでしなくても、汚れの何物かを自分に引き受けることは、全ての人に訪れることであり、また機会であるだろう。
(2022 12/31)
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