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「汚穢と禁忌」 メアリ・ダグラス

塚本利明 訳  ちくま学芸文庫  筑摩書房

リスク分析と禁忌の研究

まずは謝辞から

 エヴァンズ=プリチャードは、中央政府機関が存在しないような組織を-従って権力の重圧や政治的機能の緊張が政治集団の全構造に拡散しているような組織を-政治的視点から分析し得ることを発見した。こういった意味で、レヴィ=ストロースが構造言語学の影響によってその方法を親族関係や神話に応用する以前においても、人類学界には構造的研究といったものが漠然と存在したのである。
(p8-9)


続いて、「ラウトリッジ・クラシックス版への序」から(2002年)。

 従来、未開人の宗教に関する研究はタブーを異様かつ不合理なものとしてきた。だが不浄という概念は、現代の西欧文化とそれ以外の文化、すなわち宇宙の重大なカテゴリー(分類原理)を危うくする行為をタブーとするさまざまな文化との、架橋になる。
(p13)


人間社会の特徴は「分類」することだ、とダグラスは考えているようだ。

 私の立論の中心は、合理的行動は必然的に分類作業を伴い、かつ、分類という営みは人類普遍の特性だというものである。
(p22)


リスク分析とタブーの分析は似ている。ダグラスは政策アナリストアーロン・ウィルダフスキーと共著でこの問題の著書を書いた。
(2022 12/16)

 汚穢の考察とは、秩序の無秩序に対する関係の考察を意味し、存在の非存在に対する関係、形式の無形式に対する関係、生の死に対する関係等々の考察を意味するであろう。
(p40)


「緒言」より。この本、語り口が(ちょっとステレオタイプ的にもなるけど)実際的、経験的なものを重視するイギリス的で、エヴァンズ=プリチャードの人類学を自動車のフレームレスシャーシ構造に例えたり、タブーの説明でホウレンソウを子供に食べさせる親が出てきたり、とそこにも惹かれてしまう。あとは、この辺り、先々月読んだバーガーの「聖なる天蓋」(特に冒頭)との比較もしてみたい。具体的にどこをというのはこれから…あまりこの2冊の比較は、人類学と社会学で分かれていてされていないような気もするので…
(2022 12/18)

第1章「祭祀における不浄」

 聖性の両価性は心理的次元のものであるばかりでなく(この次元で聖性は人を惹きつけるかさもなければ反撥させる)、価値的次元のものでもある。聖なるものは「聖」であるのと同時に「汚れた」ものでもあるのだ。
(p45)


ここでの論旨は、聖と穢れは一般世俗とは分かち、聖と穢れはお互い行き来する、ということ。ここではエリアーデの言葉を。一見意外に思うが、考えてみると、脅威なるものは聖でもあり穢れでもある。現代社会は聖の方はスピリチュアルとかいって大切にするが、穢れは衛生政策に押し付けて忘れ去っている社会と言えるだろう。アンバランスであり、聖側の濃度?も薄くなってきているのでは。

今日はもう一箇所。

 ダーウィンは、新しい有機体が出現し得る条件に関心を持っていた。彼は適所生存と、進化の図式を再構成する鍵になるような器官の宿存とに興味を示していた。しかしタイラーは不適者がわずかに生存し続けていることに、つまりはほとんど消滅してしまった文化の遺物に関心を抱いたのであって、これは彼独特のことである。
(p56-57)


エドワード・バーネット・タイラー(1832-1917)、ダーウィンの「種の起源」の少しあとでこの考えを示す。これも考えてみれば、ほんの僅かでも継続していれば、繁栄している上の種族がバランス崩せば、その継続されてきたものが変異の鍵になることもあるだろう。
(2022 12/19)

第1章続きは学術史概観のような章。メアリ・ダグラスが一番批判しまだその影響が残っていると論じるのは、「金枝篇」のフレーザー。呪術-宗教-科学という発展段階で分離し、原始呪術が倫理とは全く無関係という誤った解釈を広めたからだという。

第2章「世俗における汚穢」


第2章になると俄然(?)面白くなってくる。ユダヤやイスラムでは豚肉を食べないとか、ハヴイク・ブラーマンの穢れの実例とか…そういう、様々な禁忌は、医学的唯物論(一見奇妙な禁忌であっても、そこには必ず現代衛生学的根拠がある…ウィリアム・ジェームズの造語らしい)でもなければ、全く無根拠でもなく、そこには原始-現代、未開-文明関係ない一つの軸が存在するという。それは何か。

 汚れに関する我々の概念から病因研究と衛生学とを拾象することができれば、そこに残されるのは、汚物とは場違いのものであるという例の定義であろう。これはきわめて示唆に富んだ方法である。それは二つの条件を含意する。すなわち、一定の秩序ある諸関係と、その秩序の侵犯とである。
(p103)

 汚れとは、我々の正常な分類図式から拒否された剰余ともいうべき範疇のように思われる。
(p104)


靴は本来別に汚いものではないが、食卓の上に置くことは汚く禁忌とされる。それは空間秩序を侵犯するものだから…という理論。

 しかしながら、曖昧なるものに直面することは必ずしも不愉快な経験ではない。
(p107)

エンプソンが詩について、エーレンツヴァイクは芸術作品について、こうした曖昧なまた領域侵犯したものに昂揚と魅力の源泉を言及している。
(しかし…エンプソン! ここで出てくるとは…「曖昧の七つの型」読まなきゃ…)
もう一つ、サルトルが例にあげている、液体でも固体でもない蜂蜜が身体を侵しつつ流れていく事例(p108)、これもこれでご飯3杯くらいいける(笑)
…とにかく、ここからは、こうした汚れと認知された対象に対して、どのように対処していくのか、が論じられていく(のかな)。
(2022 12/20)

第3章「レビ記における「汚らわしいもの」」


聖書のレビ記と申命記にある、食べることができる獣と禁じられた獣。これまでの解釈では象徴的な意味とか、近隣の民族の要素を取り入れたなどあったが、ここでは聖なるもの(隔離するという語源説もあるらしい)は、雑種ではなく完全なもので、かつ元々家畜化されていたものの追認という要素もあるという。儀式や戦争に蒐集された時、何かやりかけの仕事(収穫とか結婚とか)がある場合は、それを片付けさせるために一回帰した、というのも「聖なるものは完全なるもの」という考えに含まれる。
(でも、この部分の反論とその応答は、本の冒頭にあるはずだ…)
(2022 12/21)

第4章「呪術と奇跡」

 社会的儀式は、もしそれがなかったら存在し得ないような一種の現実を創出するのである。思索にとって言葉が重要であるよりは社会にとって儀式が一層重要であるといっても、それはいいすぎではあるまい。
(p160)


儀式的な言語という概念がオースティンにあったけれど、それはこうした儀式的用法が(命名とか)予想以上に重要である、ということの証明になるかもしれない。
あとリーンハートのディンカ族の研究で出てくる〈スピアマスター〉の生埋めというのがとても気になる。スピリチュアルマスター? ここでスピアマスターは同胞のため、生埋めになることによって、平凡な死から免れ死に勝利する。ディンカ族もスピアマスターが死なないと思っているわけではない。ただ儀式を通してそれを隠し、彼らの分類構造を守るのだ…と書いていても、スピアマスターとか生埋めの方法とか全くわからないから、ここはできればリーンハートの研究自体を要調査。
(実はこの本最後にもう一度取り上げられている)

 金銭は、混乱と矛盾に満ちた活動ともいうべきものを表わす、固定した、外的な、認識可能な徴証であり、儀式とは、内的状態を可視的な外的徴証に変えるものだからである。
(p174)


ここでは、モースが呪術を贋金に喩えていることを紹介し、実はそれは「贋」ではなく、本物の金銭なのだ、とダグラスは述べている。
第4章まとめ。

 不合理なアリババではなくて権威あるフロイトの姿こそが、原始的儀式執行者を理解する原型なのである。
(p180)


原始的呪術は、現代の精神分析の理論をまるで先取りしたかのような戦略を取る。精神分析に対し、19世紀末から20世紀初頭の社会情勢があって、そこに合致したからこそ症例が生まれ精神分析も生まれたとも言われる。しかし、未開社会のこうした事例は、それもやはり現代社会との接触で新たに生まれたものなのか、それとも原始的状況は現代よりももっと根源的に心的危険と隣り合わせでそちらに精神分析はより合うのか、それともどの時代にもある普遍的な状況なのか。

 原始的呪術は無意味であるどころか、まさに人生に意味を与えるものであるのだ。このことは積極的儀式にばかりではなく、消極的儀式にもあてはまる。つまりさまざまな禁止令は、宇宙の輪郭と理想的社会秩序とを描き出すものにほかならないのである。
(p180-181)


消極的儀式、すなわち禁忌もまた儀式なのだ。儀式は言語という形式…権威を持った…で与えられる。
(読んだのは22日、23日)
(2022 12/24)

第5章「未開人の世界」

 私はできるかぎり明確に、未開文化と〈トリックスター〉神話における初期の挿話との類似を強調しておきたい。私はまた、原始的世界観の特徴たる非=分化という領域をも明らかにしようと思う。私はさらに、原始的世界観は主観的かつ人格的であり、そこにおいてはさまざまな存在様式が混同され、人間存在の限界が知られていないという印象についても詳しく論じようとおもう。
(p199)


未開社会の、現代社会の分化された思惟に対する、思惟の特徴は…

 (1) 人間は(生者・死者を問わず)他の人間の存在(または力)を直接に強めたり弱めたりすることができる。
 (2) 人間の生命力は、力をもった低次の存在(動物、植物または鉱物)に直接の影響を与えることができる。
 (3) 理性的存在(精霊、死者および生者)は、低次の力を媒介物として自己の生命的影響力を伝達することによって、他の者に間接の作用を及ぼすことができる。
(p202)


下位分類として、人間誰しも宇宙と等しく関われるとするものと、ある特定の個人のみが関われるという分類、そして、運命決定論的な全ての人間の運命が他の人々の運命と綯い交ぜされているもの(例:ホメロス的世界観)と、柔軟的で複合的人格を持つ個人を調整して関わるもの(例:西アフリカの事例)がある。

p208の終わりから始まるアザンデ族の毒薬の事例は特に興味深い。もちろん彼らは、毒薬が人であるとは思っていない。が、毒薬に神託を下すには、声高に毒薬に語りかけ質問し、なおかつその質問に対し毒薬が返答をする、としているのだ。ダグラスはこれを現代社会の街頭アンケートに捕まった人々と同じとしているのが楽しい。

 この種の信仰は子供たちが環境を思い通りにしようとする不器用な努力に驚くほど酷似していることになるのである。クラインの説を採ろうとピアジェの説によろうと、発達心理学の問題は同じことになる。すなわち、それは内部と外部の混同であり、物と人間との、自己と環境との、徴証と手段との、言葉と行為との混同である。こういった混同は、たぶん、人間が幼児の混沌たる未分化な経験から知的・道徳的成熟にいたる際の必然的かつ普遍的段階なのであろう。
 そこで、すでにくり返し述べたことをここで再びくり返すことが必要になる。つまり、人間と事象とをこのようなやり方で結びつけるのは未開文化の特徴をなすものではあるが、それは分化作用の欠如に由来するわけではないのである。これらの信仰は、必ずしも未開社会の構成員個人の思惟を表現するものですらないのだ。彼等のひとりひとりが宇宙観についてきわめて異なった見解をもっていることさえ十分あり得るだろう。
(p214-215)


未開社会の人々が、発達段階の幼児の段階でストップし、そこから抜け出せないので、このような思惟になる、というわけではない。彼らは個人では成人の思惟に到達成熟しつつ、その上で社会秩序を成立させるための方法として、幼児的段階の思惟に親和性を持つのだ。この後に続くファンシナの論文にあるという、ブショング族の三人の思索家という記述はそれを証明する(この論文読みたいのだが、訳されてはいないらしい)。

 しかしながら未開人の宇宙観は、外国産の鱗翅類を正確にピンでとめて展示するような具合にはいかない。そんなことをすれば未開文化の本質を歪曲することは避けられないのである。
(p219)


未開社会それぞれの技術的、社会的な状況、そして社会的制度に、これらの思惟・信仰は従属しているものであり、現代社会はそれらの状況・制度が発達した結果、もう一方も変容した、と考えるべきなのだろうか。
(2022 12/25)

第6章「権力と危険」

 こういった信仰の中には、混沌たる領域に対する二重の働きかけがある。つまり、第一に、人間が危険を冒して無秩序の領域に入りこむ。第二に、それによって社会の限界を超えようとする危険な試みを行うのである。このような近づき難い領域から帰還した人々は、理性と社会との支配内に留まった人々には得られない一つの能力を獲得するのである
(p228-229)


若島たちが集落外れの仮設小屋に寄せ集められ、そこで成人の儀式を待つ。このような人類学ではよく見られる事象も、この文章の一例。若者は子供でも無ければ大人でもないという境界的立場にある。

 危険は過渡期的状態の中に存在する。その唯一の理由は、過渡期的状態とは一つの状態でも次の状態でもなく、明確に定義し得ないものだということなのである。ある状態から別の状態に移らなければならない人は、自らが危険に脅かされているばかりでなく、他の人々にも危険を与える。
(p231)


こうした例のもう一つとして、胎児(胎内から外界への移行期)が挙げられている。妊婦とは無関係なこの力のため、ここにもさまざまな禁忌が成立している。あとはイギリス(というかヨーロッパ全般)におけるユダヤ人もこうした境界上の集団として指摘されている。

 人間の行動によって解放され得る霊的能力はおおよそ二種類に分類し得るだろう-それは内的なるものと外的なるものとである。前者は行為する主体の精神に宿るもので、邪眼、妖術、幻視や予言の能力等である。後者は行為する主体が意識的に行使しなければならない外的象徴、すなわち、呪文、祝福、禁厭、祭文および祈願等々である。これらのもつ能力を作用させるためには、霊的能力を解放する行為が必要とされる。
(p236)


前者は妖術、後者は邪術。前者は社会構造の境界上にいる人物が意識せず発し、後者は社会構造の権威者が意識して行う。これをこの後例外事象を見ていくことによって考えていく、という流れ。

 ある意味では、植民地における人類学はすべてコップの中のものである。
 植民地の平和という人工的条件のために、かかる成功=偏向型の能力に内在する闘争と叛逆との可能性は隠蔽されてしまったのかもしれない。人類学は政治的分析においてしばしば弱点をさらけ出している。人類学者は時に政治体系の分析のかわりに、騒乱もなく力の均衡についての真剣な評価もまったくない空疎な組織のレポートを提出するのである。
(p262)

 要するに、個々の人間に霊的能力があるとする信仰は、社会構造の支配的形式に対して中立的であることもそれから自由であることも決してないのである。
(p264)

人類学と政治という観点もこれを機にもう少し考えてみたい。
(2022 12/26)

第7章「体系の外縁における境界」


この章は、主に排泄物を利用した邪術から、一部の心理学者・精神分析学者が、未開文化は小児の発達段階と等しい段階にある、という見方をしている。それをダグラスはここで批判している。第5章で既に触れられている話題だが、ここで詳しく論じられている。
これまでは割と人類学としては、心理学に近づいているような印象を自分は持っていたが、また違うところも多々あるようだ。確かにp272-273のペッテルハイムの文章見ると、自分でもかなり違和感を感じる。「体系の外縁における境界」というのは、ここでは排泄物を指しているようだ。

 さまざまな儀礼が肉体のさまざまな開口部に関する不安を表現するとき、この不安に対応する社会学的意味は、少数集団の政治的・文化的統一性を護ろうとする配慮だということなのである。
(p288-289)


(2022 12/27)

第8章「体系の内部における境界」

 しかしながら汚穢の領域を理解するには、個人が自らに対して是認する行動と他者に対して是認する行動との中間にある区域に-つまり個人が原理的問題として認めるものと、彼がその原理に反して今この場で自己のために激しく希求するものとの間にある領域、あるいは彼が巨視的な立場において認めるものと微視的な立場に立って認めるものとの間にある領域に-どうしても立ち入らなければならない。右に述べたすべてのものの中にこそ、矛盾を生む余地があるからである。
(p300-301)


道徳律と汚穢の領域は大きくは重なるが、また個々の領域をも持っている。
道徳律の領域は、現実には曖昧で常に揺れ動く。これは例えば近親相姦の禁忌の場合では、実際にその相手がどのくらい自分に近いのか、禁じている親等内に含まれるのか否かわからないことも多い。この場合行為者の意思を酌量して道徳では判断されることも多い。
ところが、汚穢の場合は厳格にその領域が決まっていて、当人の意思や社会状況を全く考慮に入れず自動的に決定する。この二つの経路は、社会を程々に秩序立てて運営していくために保持されなければならない、違う役割の似た機能を持つ経路である。
(2022 12/28)

第8章続き。
同害復讐法(ハンムラビ法典の「目には目を」のような)について。

 ある個人が攻撃され、傷を受け、悪を蒙ると、彼はあしきものの力に曝されていると感ずる。不幸の脅威が彼に迫っているのだ。自らに自信を与え、平静と完全とを回復するためには、このようにして解放された悪しきものの力をおし止め、中和させなければならない。ところでそういった成果は、彼を悩ませる行為がそれと同一でしかも正反対の志向性をもった行為によって抹消されなければ、獲得することができないだろう。
(p312)


レヴィ=ブリュール(「弓と竪琴」でも出てきた)の指摘。これは単なる表面的同一行為というだけでなく、内的精神においても自分の受けた傷と同じものを与えなければならないらしい。そうしないとまたその歪みから新たな矛盾が生じてしまう。

 このとき穢れと潔浄とを含む複雑な全体的観念は、社会構造の視点から見れば、一種の安全網のようなものに-つまりすべての社会構成員が高い綱の上で曲芸のようなことをしてもその生命を保護してくれる安全網のようなものに-なるのだ。
(p314)

第9章「体系内における矛盾」

 ところが、男性支配の原理が社会生活の秩序を創出するために適用されながら、それが別種の原理と-つまり女性の独立とか、弱い性として暴力から保護される女性固有の権利といった原理と-矛盾するような場合には、性の汚穢がいちじるしく目立つ形で出現してくるのだ。
(p324)

 男性が威信を求めるための勝負で質草のように交換されるのだが、そういった男性の世界に女性はまったく関心を抱いていない。彼女たちは自己の身の上に起こったさまざまな機会を巧妙に利用するだけである。
(p340)


めんどくさい禁忌ばかりだが、この中から次に生まれる民族を選ばなくてはいけない、という状況になったらどれ選ぶ?
(2022 12/29)

第10章「体系の崩壊と再生」

 多くの犠牲をはらって追求する清浄を実際に獲得したとき、それが石塊のように冷たく生命のないものであることを見出すのは、人間が置かれた条件の一部なのである。
(p361)


サルトルが「存在と無」において、これら石塊を崇めている人々を批判しているとも言う。

 庭とはつづれ織のようなものではない。雑草をことごとく除去してしまえば地味は痩せてしまう。庭師は引き抜いた雑草を土に戻すことによってともかくも豊穣性を保たねばならない。ある種の宗教が異例なるものないしは忌むべきものを特別に扱い、それらをして善きものを生むための能力たらしめるのは、雑草を鋤き返し芝を刈って堆肥を造るのと同じことなのである。
(p365)


この本冒頭の、生活に密着した秀逸な喩えが、結末近くにもまた現れる。
次はレレ族におけるセンザンコウの秘儀について。人間において双子以上が生まれるとそれは異例でありめでたき異例である。それと対応する動物が、センザンコウ。魚ではないのにウロコで覆われ、トカゲに似ているが乳で子供を育てる。そして、人間に対して多産であるはずの動物でありながら(人間の双子の例とは逆に)一匹しか子供を産まない。これは秘儀であり、日常の秩序を保つ禁忌に対するものとなる。

 この祭式の秘儀によって、彼等は自己の経験を形成してきた分類原理に内在する、恣意的でしかも伝統的な本質といったものを多少なりとも認識するのだ。
(p378)

 時として奇妙な変種あるいは個体が出現すると、人間はそれに対してなんらかの回避反応を示す。異例な行動に対するこういう反応そのものが、一切のものは世界を支配する原理に正しく一致するはずだ、という期待を表しているのである。けれども人間が人間としての経験を重ねるうちに、自分自身がそれほど正確に宇宙原理に一致していないことを知るようになる。罰、道徳的圧力、接触や食事を禁ずる規制厳格な祭式の枠組、こういったものはすべて、人間を他の存在と一致させる作用を多少とも果しているのである。しかし、その一致が自発的なものでないかぎり、達成された調和は不完全であるだろう。ここで再び我々は、原始的実存主義者ともいうべき人々-すなわち必然性の連鎖から逃れるためには自ら選びとる以外の道がないとする人々-を認め得るのだ。死の象徴あるいは死そのものを進んで受け容れるとき、善きものを生む偉大な能力が解放されるだろうという実存的思考は、まさに、我々が今まで見てきたすべてのものと一致するのである。
(p393-394)


前にも出てきたディンカ族の〈スピアマスター〉…そう呼ばれる者が老人になると、彼は自己の死の時期と方法と場所を自ら選び、共同体の人々に依頼し、その目的は共同体を守るため。
ここまでしなくても、汚れの何物かを自分に引き受けることは、全ての人に訪れることであり、また機会であるだろう。
(2022 12/31)

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