見出し画像

黒と白と、ときどき朱(あか)~第15話~プロって…、美容師って…

 どっと疲れが押し寄せてきた。全てが終わった。骨になり壺に納められたおばちゃんを思い出して、本当にもう会えないんだ…と理解した。理解はしたけど、認めたくはない。また目元がじんわりしてきて視界がボヤけていく。そして、すぐに容量をオーバーして、一筋…また一筋…と頬が濡れていく。

―――いつまで涙は出続けるんだろう…。

 だいぶ泣いたはずなのに、まだ枯れない。泣き過ぎて鼻をすすり過ぎて、鼻の奥から目全体にかけて熱を帯びジンジンしていた。頭もボーっとする。瞼も重く開けているのが辛かった。


 寒くて目が覚めた。真っ暗だった。いつの間にか眠ってしまったらしい。時計の針は23時を示していた。

 明日から仕事だという現実を思い出し、初めて美容師という仕事を恨んだ。どんなに辛く悲しいことがあってもお客様の前では笑顔でいないといけない。美容業界は有給なんてないから、休みたいと思っても休めない。なんといっても自分の代わりがいないのが嬉しいことでもあるが、一番辛い。こういう業界特有の「指名」というしくみがあるから、私の代わりに私のお客様をカットするということができない。もちろん中には「他の人でも良いわよ」と言ってくれる人もいる。しかし、みんながみんなそうではない。こんなに辛く悲しいのに、まだ消化しきれていないのに、仕事に行かなければいけないことが、笑いたくもないのに笑顔でいなければいけないことが、本当に辛かった。

 ほのかにお線香の残り香がした。そういえばスーツのままだ。告別式から帰ってきたままの格好で、布団の上に横になっていたらしい。寝づらかったが、今更着替えたりシャワーを浴びる気にもなれず、そのまま布団と毛布をかぶって横になった。


 翌朝起きて鏡を覗くと、そこには瞼が腫れ上がって目が開いていない知らない顔があった。腫れは目だけでは収まらず、顔全体に及んでいた。

―――泣くだけで人の顔ってこんなに変わるんだ…。まだ、悲しみに浸っていたい。まだ、泣きたい。まだ、おばちゃんのことを想っていたい。おばちゃんとの想い出に浸っていたい…。

―――いやいや、プロなんだから、そんな泣き言は言ってたらダメだ。

―――こんな時でさえ、本当に許されないのだろうか?

 いろんな私の声が聞こえてくる。笑いたくもないのに笑わなければいけない仕事のことを憂鬱に思いながら、シャワーを浴びた。

 涙が止まったのを確認して、メイクを開始した。腫れている瞼のアイメイクがやりづらい。二重が一重になっているし、いつもアイシャドーをのせている範囲がどこまでなのか判断できない。というか、まったく別人の目になっていたから、どうメイクしたものか分からない。それに、少しでも瞼に触れるだけで痛かった。


 マンションを出ると、真冬の澄み切った朝の空気は冷たく、ボーっとしていた頭が少しだけ動くようになった。

―――どんな顔して行けばいんだろう?普段通りにって…どうしてたっけ?

 職場に入っても「おはようございます」とだけ言って、それ以外は話す気になれなかった。周りも気を遣ってくれているのか、挨拶以外話しかけてこない。朝礼でも必要最低限の業務連絡だけ、言葉を発した。「ぢゃあ、今日も一日よろしくお願いします」と言ってみんな席を立ち上がる。それに気後れするかのように、私もゆっくりと腰を上げて、朝の掃除や準備に取りかかった。

 開店時間10時のちょっと前、1組目のお客様が入ってきた。

―――ヤバい…。スイッチが入らない…。あれ、笑顔ってどうしてたっけ…?

 バックルームに下がった。まだ、表には立てない。早くスイッチを切り替えないとと思えば思うほど、一旦おばちゃんのことは忘れて笑顔!笑顔!と思えば思うほど、無理やり作った笑顔が歪んでいく…。そして、下瞼がじんわり濡れてきた。

―――ヤバい…。涙目になったらお客様に怪訝に思われる。

 メイクが取れないよう涙を拭い、上を向いた。涙が止まったのを確認して、前を向き、何度も何度も深呼吸を繰り返した。

「中村さん、○○さんが来ました。」

「はい…。」

 瞼を閉じてゆっくりをスイッチをONにした。


 仕事中は想い出さないようにしてるのに、独りになるとふと想い出してしまう。お客さんと接しているときは何とか平静を装えたし、世間話をすれば気も紛れるけど、カラー剤の調合をしたり、シャンプーするときは、見られない安心感からか、込み上げてくるものを抑えられなかった。

 私が書道をしていることを知ってる人が多く、その話になることもしばしばあったので、その度に想い出され苦しかった。


 思い返せば、おばちゃんが美容院に来てくれるスパンも長くなっていた。最初は1~2ヶ月に1回は来てくれていたのに、直近の来店日からは3ヶ月以上も空いていた。昔はカットとカラーを同日にやっていたのに、長時間は疲れるからと別日にするようになり、長く一緒に居たくてゆっくり施術したかったけど、急いで仕上げることもあった。

―――きっと必死に隠し耐えていたんだろう。周りには絶対気を遣わせない人だったから。本当は来るのも辛かっただろうに、私のために来てくれていたんだ。なんで気づいてあげられなかったんだろう…。気づいていれば、来てもらわなくてもやってあげられる方法はいくらでもあった。気づいていれば、年明けの挨拶にも行ったのに…。

 近くでいつでも行けるからと、年明けは忙しいからと、言い訳を並べて挨拶に行ってなかった。悔やまれて悔やまれて仕方がない。

 一人では悲しみを抱えきれずにいた。これまでにもたくさん大変なこと辛いことはあったけど、毎回乗り越えてこれた。しかし、この悲しみの乗り越え方が分からない。消化の方法が分からない。初めて、心の底から誰かに頼りたい、その人の胸の中で泣きたいと思った。思ったけど、それができる人はいなかった。


 おばちゃんが亡くなって1ヶ月ほど経った頃だろうか。ふと、東京の美容院に勤めていた頃に公私共に仲良くしてくれていた先輩を思い出した。

―――この人なら、泣き声聞かれてもいいや。

 メールしてみると、すぐに返信が来た。

<電話できますか?>
<どうした?何かあった?21:00以降なら明日でも明後日でもいいよ。>
<ぢゃあ、明日電話します。>


 翌日の夜20時50分頃、携帯を握りしめ画面を見つめていると、まだ話してもいないのに電話をする前から泣けてきた。シーンとしたワンルームの部屋に自分の泣き声だけが響いた。

 画面の時刻が「21:03」となっていた。先輩の電話番号を表示させ発信ボタンをプッシュする。先輩はすぐに出てくれた。

「もしもし?」

しかし私は、ようやく話を聞いてもらえる安堵と、おばちゃんが亡くなった悲しさとで涙が溢れてきて、しばらく言葉を発することができずにいた。それでも先輩はじっと待ってくれている。

「どうしたの?」

「…松木さぁ~ん(泣)」

「どうした!?中村」

「習字のおばちゃんが亡くなったんです。小さい頃から教えてくれていた先生で、大好きで、自分の子供のように可愛がってくれていて、私もすごく慕っていて、大好きで大切な人で…。」

 何から話していいのか、でも聞いて欲しいことは山ほどあって、頭の中で言葉が大渋滞を起こしていた。

「すみません…こんな話して…。」

「ううん。全然いいけど。」

 先輩からしたらいい迷惑だろう。知っている人の話ならまだしも、知らない人でしかもその人が亡くなったって泣いているときたら、困惑するのは当たり前だ。

「すっごく大好きで、親よりも親のように大好きで。でも結婚してないから子供いなくて、だから本当は、私が結婚したら結婚式に呼びたかったし、子供が産まれたら『ほら初孫だよ!』って言って抱いて欲しかったし。でも、叶えること出来なくて…。結局、新年の挨拶も行けてなくて。だから、めちゃくちゃ後悔してて…。私が美容師になるって話したとき、書道の道に進まないことをすごく悲しそうにしてたから、思わず『大丈夫!美容師になっても、おばちゃんと同じように全部師範取るまでは習字続けるから!』って約束したのに。今も頑張ってるけど、結局生きている間に約束果たせなかったし…。」

「そっか…。病気で?」

「うん、肺が真っ白だったって。亡くなる3日前まで習字教えてたらしんですけど、風邪をこじらせて体調が悪化して救急車で運ばれて、そのまま…。肺炎だったって。たぶん、我慢してたんだと思います。」

「そっか…。急だったんだ…。」

「はい…。私も仕事中に電話もらって駆けつけたんですけど。そしたら、私の知らないおばちゃんの親戚の人たちが『あんた本の子やろ?姉さんみんなに自慢しちょったよ』って。私、書道の本を自費出版したんですけど、それを周りに自慢して回ってたって。私のことを我が子のように思ってたって聞いて…。本当に孫を産んであげられなくて…。」

「んー、でも本出したなんてすごいぢゃない。先生も喜んでたと思うよ?」

「うん…それだけが救いです。なんか…、美容師してて、どんなに辛いことや大変なことがあっても、たくさんあったけど、なんとか乗り越えてこれたけど。今回、初めて一人で抱えきれなくて、誰かに話聞いて欲しくて、それで電話しちゃいました…。大人になって初めて、声をあげて泣きました。(笑)」

 まだ涙は出ていたが、話を聞いてもらううちに、少しずつ笑えるようになっていた。


 その日の夜、おばちゃんと同居していた妹さんが夢に出てきた。私と妹さんが一緒に居るところに津波が襲ってくる夢。身近な人が亡くなった直後は、亡くなった人の周りの人がよく夢に出てくるらしい。しかし、肝心な一番会いたいおばちゃんは、まだ一度も夢に出てきてくれなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?