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黒と白と、ときどき朱(あか)~第9話~初めておばちゃんが感情を出した日

 美容師はずっと前からの夢だった。記憶が正しければ、明確になりたいと思い始めたのは小学5年生の頃からだったと思う。けど、それよりもずっと前から、自分の髪が切られているのを鏡越しに見ているのが大好きだった。

 友達の両親が営んでる床屋さんがあって、小学生の頃はいつもそこに切りに行っていた。そして毎回「1㎝だけ切って下さい」って言って、いつもオカッパに切ってもらった。友達からもよく「髪キレイやね!絶対、将来シャンプーのCM出れるじ!」って言われていたし、自分で言うのもなんだけど、キレイな髪が自慢で、キレイに伸ばしたくて、こまめに切っていた。

 美容院ぢゃなくて床屋さんだったから、カットが終わるとムースみたいな泡を首の後ろにつけてカミソリでキレイに剃ってくれる。その泡がすごくくすぐったくて、でもすごく気持ち良くって、だからされてる間は背中の後ろに両手を入れて耐えた。とても幸せな時間だった。カットしてもらって帰る時も、いつもよりサラサラしてる髪が気持ち良くて、その髪から床屋さん特有の良い香りがしてくるのが好きで、わざと自転車を立ちこぎして、余計に髪が風になびくように飛ばして帰ったりもした。いつも二ヤニヤしながら帰っていた。

―――その頃からかな…。美容師になりたいと思うようになったのは。


 高校3年生の11月。第1志望だった福岡の美容学校から合格通知が届いた。もちろん、おばちゃんにも報告しに行った。当然のごとく喜んでくれると思っていた。

「あら…、書道の道には進まんちゃ…。大学行って書道続けたりせんちゃね…。」

 初めてだった。おばちゃんが自分の感情を出してきたのは。いつも自分のことは二の次で他人優先のおばちゃんの、感情を初めて見た。


 私は小学生の頃からの夢で、ずっと美容師になりたいと思っていた。おばちゃんもそのことは知っていたし、だから、美容学校の体験入学に行ってきたこと、福岡の美容学校に決めたこと、推薦受験で面接を受けたこと、何かある度にいつも報告していた。その度にいつも「すごいね!良かったね!」って言ってくれた。だから、私が美容師になることを喜んでくれていると思っていた。なのに…。

 書道が嫌いなわけではない。むしろ墨の香りがする中で、集中して書いている時間は好きだった。けど、それを仕事にする発想がなかったし、なりたいと思ったのは美容師の方が先だった。習字は高校卒業と同時に辞めるつもりだったし、おばちゃんもそのつもりでいるものと思っていた。これまでの年上の友達だって、みんな中学・高校の卒業と同時に習字は辞めていたから。

 合格通知を受け取ったことで、進学校特有の朝課外・夕課外から解放され、ずっと続けてきた習字にも終止符をうち、やっとこれからは好きな美容に没頭できると思っていた。思っていたのに…。


「でも、墨友は続けるよ!おばちゃんと同じで、4つとも師範取るまでは続けるから!」

―――言ってしまった…。

 大人になってまで習字を続ける人は少ないし、続ける義務もない。習字を辞めて美容師になることも悪いことではない。ないけど、あのおばちゃんの悲しそうな顔を見たら、習字を辞めて美容の道に進むのが申し訳なくなってしまった。

 言ってしまった後に、学校の勉強と両立できるのか、そして社会人になったときに仕事と両立できるのか、不安になってきた。けど、言ってしまった。


 美容学校に行き始めると、やっぱり約束してしまったことを後悔した。周りはみな志高い人たちばかりで、授業とは別に朝練・夕練は当たり前。さらにずっとやりたかったアルバイトを始めると、習字の練習をする暇なんてなかった。いや、本当はあったんだ。けど、その時間を見て見ぬふりをして後回しにしていた。

 東京の美容院に就職してからも、仕事の日は朝7時に出勤し、朝練と営業前の準備をしてから仕事が始まり、営業後も片付けと練習をして終電で帰る日々が続いた。休日も1週間分溜め込んだ家事や洗濯をし、モデルハントや練習に明け暮れ、お客さんからその日でないとダメなんだと言われれば、その時間だけ出勤し仕事をする日もあった。

 それでも、なんとか毎月の提出課題を書く時間を捻出し、4年かけて2つ目の師範を、さらにそこから3年かけて3つ目の師範を取得することができた。そして、最後4つ目の師範まであと3つ昇段すればというところまできた矢先に…。

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