読書記録「いつもの言葉を哲学する」

「いつもの言葉を哲学する」読了。

もともと「言葉」への興味が強い方で、更に心配性なので「ちゃんと意図が伝わるか」を結構気にしてしまう。仕事であれば必要なことが過不足なく伝わってほしいと思ってメールや電話をするし、友人や家族には伝えたいことの熱量や微妙なニュアンスをも正確に伝えられたらいいな、と思っている。だがそれは簡単なことではなく、新しい言葉は次々と出てくるし、同じ言葉でも受け手との距離感によっては与える印象も変わってくる。そしてどの言葉を使うかをよく考えているうちに疲れてしまって、言葉を使うつもりが言葉に振り回されている自分に気付く。
面倒くさい。だが、だからこそおもしろい。
そんな中で手に取ったこの「いつもの言葉を哲学する」。

本の内容は紹介文やレビューにある通り。話題になった本なのでレビューも豊富。
漢字・ひらがな・カタカナを使い分ける日本語特有の問題や、特定の言葉そのものにスポットを当ててあれこれ「哲学する」を実践する作者。表現も文体もわかりやすく、1節1節の分量もちょうどいいのでサクサク読み進められる。

個人的に面白いなと思ったのは「哲学対話」や「哲学カフェ」を通して作者があることに気付いた場面。
哲学対話や哲学カフェは、人を攻撃したり傷つけたりせず、一つのテーマについて数人で語り合う――そしてその際、人の発言を遮らず、発言内容の否定をしない――という場で、作者も一度そこに参加したらしい。だが作者はそこで物足りなさを感じてしまう。
なぜ物足りないのかといえば、議論が中途半端で解決を見ないまま終了になってしまったからだが、そもそも思考のアウトプットと傾聴を目的とした哲学カフェでは大学教員レベルだときっと物足りないのだろう。だが彼の気付きはそこではなく、「自分は話を聞いてもらう機会が多い」ということだった。講義なり取材なりで話をするときに、多少言い淀んだり言葉を選ぶことに時間を要しても、目の前の相手(学生や記者)はそこで話を遮ったりしないし、最後まで聞いてくれる。当然といえば当然だが、世の中の大半の人はそうはいかない。日頃から「自分の話を聞いてもらえていない」と感じている人は多くいて、だからこそ哲学カフェで「満たされる」ひとが多いのだ。言葉をじっくり選んでも、言い淀んでも遮られない、文句を言われない場。正直議論のテーマなどなんでもよく「話すこと/話を聴いてもらうこと」が大切なのだ。
僕は日頃から人の話を聴くことが多いのだけれど、話を聴いていると「ほかに話せる人がいない」「聞いてくれる人がいない」という人が結構いる。それって実は、社会的動物である人間としての危機なんじゃないかと思う。
ネットリテラシーの問題はここ数年でかなりよく耳にするようになったが、匿名で過激なことを呟くことで発散している人は、リアルな日常生活で誰かに「話を聴いてもらう」ということが不十分な人なんじゃないかと思ってしまう。それはつまり聞いてくれる人がいないということであり、寂しさゆえの遠吠えのように感じてしまうのだ。

話がそれてしまった。いずれにしても誰かに何かを伝えたいとき、仕草や態度はもちろんだが、やはり僕らは言葉に頼らざるを得ない。
言葉を使って思考を行い、言葉を使って相手に伝える。思考から伝達の過程で、僕らはより適切な言葉を選ぶ、吟味することを怠ってはいけない。そして相手に言い淀むことを恐れさせない余裕も欲しいなと思った。それは生ける文化遺産としての日本語を守るためでもあるのだから。

2023.1.21


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