見出し画像

“協調性”は育つのか?【サドベリー教育を考える】


背景

サドベリースクールを作る夢を人に語ると、
「確かに素晴らしい学校だけれど…。
協調性が育つのか、ちょっと心配じゃない?
と言われることがある。

「はて?」と思う。

サドベリー教育の実践者による書籍を読んだり、
サドベリースクールに見学に行き、
生徒やスタッフの方とお話しをする中で、
協調性こそ、サドベリー教育に期待できる重要な恩恵の一つである
と私は理解している。

おそらく、彼らが思う「協調性」と、
私が思う「協調性」とに違いがあると思うのだが...
それを上手く伝えられず、非常にもどかしい思いをする。

今後、サドベリースクールを作っていく中で、
この手の質問を多く受けることが予想されるので、
私なりの意見を、まとめておこうと思う。

(サドベリースクールを考えている学生の方や、
子供のためにどんな教育環境を選ぶべきか悩んでいる親御さんにとっても
何かしらの判断材料となれば嬉しいものの、
まだ私にサドベリースクールの実践経験があるわけではないので、
より実情に沿った情報を得たい場合には、
直接サドベリースクールの方に伺うことをオススメします)

周りが青なら、自分も青

「サドベリースクールでは協調性は育つのか?」
と懸念を持つ人の話をよく聞いていると、
「みんなと同じ行動が取れないのでは」
「先生や学校(上司や会社)が言うことに、従わなくなるのでは」
と言った話が出てくる。

つまり、ここでの”協調性”は、
・周囲の大多数の人間がしていること
・教師や学校(上司や会社)からの期待・指示
自分を合わせるという意味合いで
用いられているようである。

「みんながやっているから、やる」
「先生/上司が言っているから、やる」
「学校/会社でそう決まっているから、やる」

と言うように、自分の意思決定において、
自分の意志や考えよりも、
大多数の人間がしている・言っていること、
教師や上司が言っていること、
を優先する思考や態度を指している、とも言える。

ここまで深掘ってみると、ここで言う"協調"は、
“同調”と言った方が適切に思える。

【同調】
他と調子を合わせること。他人の主張に自分の意見を一致させること。
(広辞苑より)

ちなみに、協調の定義は以下のようになる。

【協調】
利害の対立する者同士がおだやかに相互間の問題を解決しようとすること。(広辞苑より)

自分を相手に合わせる時、
自分の意思や考え・要望は常に脇に置かれるため、
利害の対立はそもそも起こらない。

先生や大多数の生徒が”青色”ならば、自分も青色になる。
それが、「サドベリー教育って、協調性は大丈夫なの?」
の懸念の背景にある"協調性”のイメージのようだ。


あなたは青で、私は黄色

サドベリースクールの目的は、私の言葉で言うなら
「自分が生きたい人生を自ら創り出して生きていく力を育む」
ことであって、
「教師や学校・大多数の意見に従って生きる力を育む」
ことではない。

サドベリースクールは、
「自分がやりたいことを、やりたいように、やりたい時にする」
ことができるよう、最大限の環境設計が行われている場である。

そのため、「やりなさいと言われたこと・みんながやっていることを、
決められた方法で、決められた時間に行う」機会は、
確かに一般的な学校に比べたら格段に少ないだろう。

その意味で、
「サドベリースクールでは”同調性”が鍛えられないのでは?」
という懸念は、理解できる。
(果たして、同調性は、わざわざ鍛える必要のあるものだろうか?
これも、別の記事で取り上げるべきテーマかもしれない)

一方、私は、サドベリースクールの上記のような環境だからこそ、
育まれる協調性があると考えている。

それは、上記で述べたような同調性ではなく、
私の言葉で言うならば、
「異なる人間同士が、とある目的のもと、
それぞれの持ち物(意見・能力等)を持ち寄って協働する力」である。

各自が、自分独自の色を持っていることを前提としている。
あなたは青で、私は黄色。だから、"緑"が新しく生まれる。
そう言う世界である。

ここからが、美味しいところなのだが...
とても長くなりそうなので、
別の記事に改めて書くことにします。

読んでくださった方、
ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?