FULL CONFESSION(全告白) 7 SNSと石丸伸二
GEN TAKAHASHI
2024/7/2
基本的に映画作家・GEN TAKAHASHIの作文。
第7回 SNSと石丸伸二
来たる七夕=7月7日は、2024年東京都知事選挙の投開票日である。
私は期日前投票が始まった初日の6月21日、新宿区役所第一分庁舎で、立候補者・石丸伸二に投票した。親しいスタッフや俳優たちにも投票を呼び掛けて「投票しました!」と報告をくれた人もいる。
ただし、私は石丸陣営でも後援会でもなければ、信者でもないし、カンパもしていない。
そもそも私は「晴れた日に傘を貸して利息を取る」という商売をやっている銀行員が大嫌いで、富士銀行(現・みずほ銀行)の融資課長だった私の戸籍上の父親も大嫌いで葬式にさえ出なかった。『半沢直樹』など見るわけもないし、銀行が私を助けたことなど1度もない。
だから、石丸伸二がメガバンク出身と聞いただけで、私は彼のことを好意的に見ていなかった。いまでも信じているわけではない(だいたい知らない人間だし)。
だがそんな私でさえ、この都知事選では、石丸伸二が当選するべきだと考えている。
そう言いたい理由は、いま盛り上がりを見せている「石丸旋風」が、大ヒット映画の興行の盛り上がり方とまったく同じだからだ。映画人の視座からは、石丸当選(ヒット)の可能性は大いにあると思えるのである。
どういうことか?
すでに知られるとおり、石丸は政党の組織票を一切持たないと自称している。彼の支援者もそう言っている。
反石丸派は「裏には組織がいるのだ」と噂しているようだが、仮にそうだとするなら、組織票同士の対決になるだけなのだから、それがズルいという話にならんだろうよ。
しかし、この「石丸旋風」をヒット映画の観客動員に置換してみると、大変おもしろいのである。
言うまでもなく、ヒットする映画の観客というのは組織票として映画館に押し寄せるのではない。
個人個人が映画の予告編を観て、その映画をおもしろそうだと期待して、自分でチケットを買って劇場に行き、見ず知らずの数百人と一緒に同じ映画を観る。そして、映画に感動すれば家族や友達や会社の同僚らに「観た方がいいよ!」と薦める。
実は、映画がヒットする最大の要因は、人から人への口コミの評判に尽きるのであって、メディアに利した大量宣伝をしたからといってヒットするとは限らないのである。
こうした映画興行の特性と、今回の「石丸旋風」の吹きあがり方は、まるきり同じなのである。
種類を問わず「ヒット商品」(いまは「バズる商品」とでもいうのか?)が売れる市場原理と同じで、売れるものというのは、そもそも上意下達の組織動員で売れるものではない。どこまでも、個人間で広がっていく「リゾーム型」の評判がヒットを生むのである。
長らく戦後日本の政党政治の世界では、こうした「ヒット=当選」の原理を無視して、組織票だけで党利を回してきた。
だがそれは、単に議席数がわかっているからに過ぎない。選挙のたびに「ここの選挙区では何千票とれたら当選だ」とわかっているから、その数を組織票で埋めれば良いという考え方で、これは市場原理ではなく、擬制家族内で収入を分け合っているのと同じだ。ここでいう「収入」とは、政界の場合は国民が収めた税金のことだ。
組織票で当選するというのは、いわば「買い占め」を、本当に商品が売れたと勘違いするようなものだ。
他方、経済の専門家でもある石丸伸二は、「ものが売れる仕組み」を従前から知っていた。
だから、多くの「反石丸政治屋」らは、身内で分け合っていた利得を、経済と市場原理に精通した専門家である石丸に取り上げられることを恐れて、必死になって石丸つぶしに奔走しているというわけだ。
皮肉なことに、石丸に危機感を抱く政治屋のコバンザメとして食っている守旧派マスコミによる「石丸矮小化」に向けた偏向報道も、映画興行の特性に似ている。
たとえば、現在ではテレビ局が映画製作をすることが普通になっている。そうなると当然ながら、これを製作・配給するテレビ局以外の局では、その映画の情報を原則的には扱わない。
「今週の映画興収ベストテン」というような番組では、データを改ざんして報道するわけにもいかないから順位の紹介はするものの、他局が作った映画を特集したりはしない。
しかも、映画興行会社の仕組みを一般人は知らないから、こうした偏向報道は「表」だけ見ていてもわからない。
最近公開された東映映画『帰ってきた あぶない刑事』(すでに観客動員100万人突破の大ヒット)は、同作テレビドラマを東映が作って日本テレビが放送していたから、映画版も製作は東映と日本テレビがやっている。
ところが、東映は、日本テレビの競合となるテレビ朝日と、持分法適用関連会社(互いが大株主同士)という資本関係でもあるのだ。
だから『あぶない刑事』は、製作で名を連ねる日本テレビで宣伝されるのは当然だが、ニュースとしてはテレビ朝日でも扱うのである。でも完全に競合他社であるフジテレビやTBSが「あぶデカ」を取り上げることはない。
また、私自身の経験からいうなら、映画といっても東映、東宝のような大企業が製作・配給するものと、インディペンデント(独立プロダクション)として製作・配給する私の映画では、メディアの扱い方が最初から天地の差となる。
理由は、映画の出演俳優の知名度や作品評にかかわらず、まず企業製作の映画は「PA費」として計上された豊富な資金でメディアの宣伝枠を買える一方、私のような映画屋は、そんなカネはないからだ。私は、どこまでも映画評だけで勝負しなければならない。
そうすると、テレビも雑誌も、よほどの空きがない(ネタがない)限りはあらかじめ宣伝枠の常連取引先でもある大手映画会社の作品紹介の方を優先する。このような映画興行の「裏」は当事者にしかわからない。
インディーズ系映画の初上映を国際映画祭で行うことが多いのは、特に国外の映画祭で注目されれば、日本のメディアが取り上げることになりやすいという理由からだ。
カンヌやベネチアなどの有名な国際映画祭でも、映画を出品するのに必要な最低限の費用は数万円で済み、巨額の宣伝費がなくても、国際的な市場で映画を売るチャンスになるというわけだ。
同じように、政治の世界でも組織票がどのように動いているかは、インターネット時代になるまでは、ほとんどバレずにやってこれた。
しかし、SNSによる市場分析力で圧倒的な存在感をみせるようになった石丸伸二が登場したことで「政治業界」は焦り始めた。石丸とその支援者たちの活動から、政権与党の、いろいろな「裏」がめくれてしまったからだ。
こうなると、与党陣営は、石丸をテレビと新聞で扱わないように手を回すしかないし、守旧派で食ってきたメディア自身が「石丸を当選させないように」願い、なるだけ「下げて」扱うしか打つ手がなくなる。
いまでもアホなメディアらが「小池トップ、石丸猛追」などとアホな宣伝をしているが、本当に余裕があるなら、それこそ民法キー局で「石丸特集」が放送されているはずだ。なぜなら、本来、テレビ局は視聴率を稼いで提供スポンサーから、いっぱいカネを貰いたいからである。
いまこそ「石丸伸二」ほど視聴率を取れる番組はないはずなのに、王道メディアの民法キー局でそれをやっていないという事実が、メディアの「裏」でなにが起きているかを雄弁に物語っている。
テレビ(放送事業)は、すべて総務省傘下にあるから、政権がテレビ番組の構成を動かすことなど朝飯前にやっているに決まってるのだが、そのこと自体、国民の多くがいまだに知らない。
しかし、インターネットとSNSが、そういったテレビの「裏」を明らかにしたのと同じように、石丸伸二は政界の「裏」を可視化させることで一躍、時の人となった。
さて、映画興行というものも、正しく予想された例などない。日本映画界だけではなく、ハリウッドでも、欧州映画界でも同じだ。
いまでは映画史に残る大ヒットを記録した名作映画の数々も、製作当時は映画企業の「経営のプロ」たちに「こんなものが売れるわけねえだろ!」と罵倒されていた。
今回の都知事選で、彗星の如く登場した立候補者・石丸伸二という人物に人々が熱気と共に寄せる声援と期待は、もはや「若きスター・石丸伸二」に対してだろう。舞台が政界である点で、主権者の税金を原資とするものの、それは映画製作者(都民)と俳優(石丸)によるショーと言うことが出来るし、実際にそうなのだ。
私がすでに彼に投票したことは前述したが、私とて、石丸の政策の詳細には興味がない。私は石丸信者でもなく、ポピュリズムに乗ったわけでもない。
ただ、私流にいえば「古い役者ばかりの映画はいらない」から、期待の新星・石丸伸二に票を投じたのである。
守旧派利権を死守せんがためにSNSにあふれかえる「アンチ石丸」は、どこがバックについているだとか、共産主義者だとかいう、ごたくを並べているようだが、仮に今回の選挙で石丸が都知事になっても、ダメだったら、有権者は4年後に石丸を落とせばいい(投票しなければいい)だけだ。
そのたった4年のことを焦りまくって、石丸落選に向けてスクラムを組んでいるようなメディアと、利権政治与党のアタフタぶりは、滑稽を通り越して、哀れみさえ禁じ得ない。
なぜ守旧派の連中が焦るのか?この点にこそ、今回の「石丸旋風」に隠されたカギがある。
これは、金銭としての利権が失われることへの焦り以上に、これまでの自分を支えてきた「邪悪な自我」が崩壊してしまうことへの、政治屋たちの恐怖心そのものが表出した結果の現象であろう。
つまり、実利的な損失よりも、自分という存在が喪失される恐怖が、反石丸派を形成しているのだ。
タチの悪いことに、その中には政治屋でも企業でもない、普通の人たちも混ざっているのだが、彼らは具体的に失う利得がないのに、単に「一見さんお断り」という感覚で、慣例を破る人間を忌み嫌うだけなのである。
私が生まれた新宿の政治家でいえば、現職の新宿区長・吉住健一も同様に、焦りと恐怖から、SNSであからさまな「都知事のポチ」ぶりを発揮している。それで区民と国民から叩かれまくっているのだが、吉住本人は、そのことをまったく恥とも失言とも思っていないのか、あくまで小池都政の忠臣であることを公表している。
よく言われる話だが「政治家を志しながら、利権の味を覚えて政治屋に成り下がる」のか、はじめから政治屋という税金暮らしのおいしい商売をやりたくて「政治家を演じて政界に潜り込む」のか、いずれにしても、現在の日本の政界には、ほぼその両者しかいないと言っても過言ではない。
だから、石丸伸二は、本人の優秀さは言うまでもなく、本来の政治家のあるべき姿を見せているだけで、スターとして注目され、期待される存在となっているというのが、映画監督としての私見である。
だいたい、8年間にわたって、公金から何百億円もの出演料を取ったも同然の「年老いた主演女優」など、もう誰も見たくはなかろう。
※ 7月7日 追記
そして都知事選投開票日の20時ほぼ同時に「小池百合子3期目当選確定」の一報が全国に流れた。へえ、東京都民は、まだ「年老いた主演女優」を見たいのかと呆れ果てた。
しかし、この状況に対して「国士」が現れないことの方が、日本の重大な問題だろう。
そもそも「20時」になって初めて開票、集計されて、初めて当落がわかるはずの「選挙の結果」が、開票開始と同時に確定するなどという出来事が公正であるはずがないことを、誰も疑わないことが、日本人の精神の死を象徴している。
開票時間と同時に当落が決定する仕組みが「組織票」だからという話になっているが、投票者が記名する瞬間を、小池陣営側が視認しているわけではない。
つまり、投票所入場券とその対象者を受け付けた事実までは第三者的に証明できるが、投票用紙それ自体に書かれた候補者の名前がすべて発表された得票数の数だけあるという証明は、現在の選挙システムでは不可能なのである(政治家に聞いたところ、この解釈は間違いではないことがわかった)。
だから、いまの選挙システムは、いわば「性善説」に基づいただけのもので、決して公正な仕組みになっていない。不正選挙が不可能なのではなく、不正が可能だが性善説から公正だと思い込んでいるだけだ。
悪いことをするやつら=犯罪者は、最初からルールを破るのだから、根拠がない性善説など簡単に無視するに決まっている。
事実、過去には某地方選挙で、ある候補者の投票箱を丸ごと捨てたという事件もある。その「国家版」があり得ないなどと誰が言えるのだろう。
要するに「権力者による不正選挙」か「都民=国民の思考停止」のどちらか、またはその両方によって、「官製犯罪」と評論しても良い、この都知事選を招来したのである。
もっとも、私の友人の政治家は「小池が3期目といっても、たぶん4年持たない」と言っていたが。