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精神的去勢という考え方

氷河期世代を生きてきて、想う。
管理社会は、精神的去勢ではないのかと。
どの歴史を振り返っても、旧体制を覆し作り上げた体制はまた旧体制の悪となり、また覆される。団塊の世代もそういう轍の一つというわけだ。

わたしは幼稚園の頃から女の子にくくられることに疑問を持っていた。それは、他者からのラベリングが嫌だったんじゃないのか。

男性でも女性でもそれぞれ、男性性を持ち、女性性を持つ、と認められる今の考え方をわたしは歓迎している。本来、人はそうあるものだ。それをわざわざ言わなければならないとしたら、これまでの社会に欠陥があったと言わざるを得ない。

地方都市の出身だった団塊世代の両親は性役割をなんの疑問もなく受け入れていた。そのような地方だったということだろう。女性という役割に疑問を持ち始めたわたしに母は畏怖し、小学校で女子校に入れた。わたしが母を恨んでいるとすれば、この選択だ。男女で教育を分ける必要は一体どこにある?せいぜい、保健くらいだろう。男女共にいたら現実を知り、社会に出たときに対応力があったかもしれないが、わたしは精神的去勢をされていた。女の子は結婚して子どもを産むことができれば幸せだと、父もその概念を植え付けた。男は女よりも力が強いのだから、押さえつけて当然だ、殺す権利まである、と。もしかしたら自分を助けていたかもしれないわたしの中の男性性は、体の性別の現実で折られた。上の世代の女性は教育の段階から、あらかじめ精神的去勢をされてきたと言っていい。独立独歩への気力を奪われてきた。

いまは、女性が結婚しても男性と二馬力で働く家庭は多く、女性の働きやすさが求められている。女性の男気に頼っている家庭運営が主流で、逆に男性は女性に頼る。女性の働きやすさを推進されて喜んでる男性ってどのくらいいる?他人事に遠ざけているのが一般的ではないだろうか。女性も仕方なく、男性も仕方なく受け入れざるを得ない。そんなことになるなら、別に結婚しなくてもいいよね。今の変わらぬ日常が続いていく。男性の精神的去勢が進んでいると感じる。

そもそも管理しているAIに男性も女性もないでしょう?それらが管理する世界は雄々しさ女々しさを感じさせない。良きにつけ悪しきにつけ、中性的になっていく。そこに現代の、生物としての歪みがあるような気がする。

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