左利き差別
わたしは左利きだ。常として、コーヒーを出されたら必ず、右手に取手を向けてお出しされる。必ずだ。
なんのことはない、いつものことだ、と思いながら、最近良く行くネパールナンカレー店に行き、ホットチャイを頼んだら、はじめから左に取手を向けて出されたのだ。
思考に稲妻が走ったような衝撃を受けた。ネパール人に左利きが多いのか!?まさか、そんな話は知らない。まさか、食事風景をずっと見られていた!?気分はスナイパーに狙われる獲物だ。
なんてことはない話だ。ただの思いやりの話。なのに、こんなに気がついてもらえることが稀であることが悲しくなった。日本人は右利きであって当たり前という頭で、利用客の食事風景を見ているのだろう。
最近、障害者手帳を取得した。等級は3級だった。しげしげと眺めて、気がついた。障害者と、手帳の名前にも差別がある。配慮を求めるヘルプマークも、知らない人から見れば、手帳と同じ識別マークだ。正直、わたしも通勤していたときは怪訝に思っていた。
自らを障害者などと卑下する必要はない。なにか悪いことをしただろうか?症状であって、人に迷惑をかけないようにしていればいいだけの話だ。みんな、そうだ。
双極症になって、そんなに双極症が深刻な病かと思うほど、疎外感を食らった。療養は1年以上。自宅療養中だ。鬱に入れば絶望もする。しかし、諦めることはない。自分を諦めなければ、負けはない。結局のところ、周りの差別に従うことが負けだと思う。
こんなに些細な、左利きひとつとっても日本人の視野狭窄が見て取れる。別に、配慮をされなくても気にはならない。しかし、配慮をされれば嬉しい。誰だって、悲しみに暮れているときに肩をたたいてハンカチを差し出されれば、嬉しくもなるだろう。職場の人達は精神疾患を怪物のように恐れ過ぎだ。
かように、悪気のないところに差別はある。街を歩けば、過剰な差別について気をつけていると話す人はいる。自分たちの価値観には、壁を作りうる思想が紛れており、その可能性に気がついて、優しく尊重することができれば暮らしやすくなる。きっとそれは、影のように誰ひとり逃れられない考えだ。受け入れられなくても、尊重することはできるはずだ。
わたしも虐げられた記憶から過剰に反応してしまうのを、少しずつでも穏やかに、否定するのも意思表示として柔らかくできるようになりたいものだ。
いってしまえば、ネパール人だって日本人とは容姿が違い、外国人差別にさらされることもあるだろう。それでもこうしてもてなしてくれて、犯罪など起こす者とは違う生活を堅持している人たちはたくさんいる。差別はどこにでも、人の数だけ転がっている。
温かい歓待を受けて、逆説的に日本人の差別意識に気づいてしまったというお話でした。
ナンカレー、初夏に入ると美味しくて何度も食べたくなりますよね。美味しかったです。ごちそうさまでした。
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