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2011年 父の死の後の動揺と後悔について


【後悔。そして自己嫌悪】


わたしの顔や体質は、とても父親に似ているのだが
それが嫌で嫌で仕方がなかった

わたしが、美大に行きたいな、みたいなことを言った時
きびしく反対された。
あんなものは、何の役にも立たず、自分もまわりも不幸にすると

父の父、つまり祖父は早死にしたので、わたしは会ったことなかったのだけれど
日芸出身で、おそろしく趣味人で、アツく、troublesomeな人だったらしいのである
ゆえに?父は、芸術というあやしい分野が好きではなかった。

いっぽう、とても真面目な父は、ちゃんと自分をまっとうしていた。
自分がある部署のトップになった時、最初にやったことは、自分の給料を下げること
人員整理やらしなければならなかったので、
それで胃をやられたり、何度も手術していた、基本的に弱い人だった、
なぜか、だからといって自分をいたわりはしなかったけれど。

プロについてゴルフを習っていた頃、
どなたかにいいゴルフクラブのセットを贈られた時は
わざわざ返送していた(お役所系の人だったので
もらっちゃいけないお歳暮は、ちゃんとそうやっていたし
旅館に誘われたり、接待の席でも、自分のぶんはちゃんと自腹で払っていた。

必要以上に真面目な仕事人間
めったに笑ったり、冗談を言ったりすることもなく
テレビはいつもNHK、子どもは好きなテレビを見られるのは一週間に二時間だけ。
おこずかいは決まっていたけれど、本代に上限はなかった。
欲しい本と値段を申告すればいくらでも買ってもらえた。

べつに裕福だったわけでは全く全然ない。
父の父が会社をつぶしたらしく、父は苦労して
もっといい大学に受かっても、奨学金をもらえる大学に通い
それで少し学歴コンプレックスがあったようだ。
子どもは優秀に育てたかったみたいだけど
逆に遊び人にしか育たなかったね・・・・・・・・・・・・・。

なかなか打ちとけにくかった父
二番目のお母さんに育てられ、その母をとても大切にして、
まだ生きている、生母には会わないと決めていた。
そのせいもあったのだろうと、今なら思う。
手放しで子どもを誉めたり、愛情をあらわにすることなど<絶対に>なかった。


本好きだった父の影響は大きい。
近年、わたしが父からもらった本には、「え?」と思うような、くだけたものもあった。

でも、わたしは父が苦手だったし、父もわたしが苦手だったと思う。
おなじくらい短気で、傷つきやすく、自己表現や、甘えることが苦手だったから
わたしが父に対して優しくなれたのは、ここ数年のことだ。
母親とはわりとフランクだけれども・・・

父は偏食で、いつも子どもより一品多く、まったく別のメニューのごはんを食べたり
言葉少なで、「別の人」的なイメージがあったし

馬鹿だったなあと思う、もっと甘えればよかった。
父は、頼られるのをよしとしていた人だったから
それが分かっていたから、わたしはますます甘えベタになっていった。
わたしは父が怖かったし、苦手だったのだ。

それでも、思い出すと、子どもの頃、みんなが持っているような
ディズニーっぽい、バレリーナがくるくる回るようなオルゴールが欲しくて
誕生日にオルゴールが欲しいと言うと、
父は、三越で、木彫りの薔薇の模様の、大人が持つような宝石入れを買ってくれた。

それは当時のわたしが欲しいものとはかけ離れていたので
のちに、チープな、くるくる回る人形付きのオルゴールを買い直してもらった。

別の時に、人形が欲しいと言ったら、皮の靴を履いて立派なドレスを着た
デカいブリュのレプリカ人形(とてもクラシックな・・・子どものオモチャではない・・・)を買ってくれた
子ども心に、その人形はまったく可愛くなく、むしろ恐かった。
それも、子どもが欲しがるチープな人形を、後日買い直してもらった・・・


父の愛情は、ちょっとズレていて、それが、わたしが向田邦子の作品にぐっとくる理由かもしれない。

でも、今回、父が倒れた時、ふらふらしながらわたしがお見舞いに買ったのは
三越でシャネルの香水、ブリザーブドフラワーなど・・・
病院臭いのが嫌いで、あんまりお風呂にも入れないだろうし…と
やっぱり、じぶんの趣味を押しつけてしまっていた。
やや、気負って、実際に欲しいものとズレたものを贈ろう、と思いこむ。

この不器用さと、思いこみが、DNAなんだろう。


ほんとうは分かっていたのに、なんでもっと優しくしなかったんだろう。

わたしがまつ乃家で芸者をしていると言った時、別に恥ずかしいことではないから
言ったのだけれど
父はたぶん困惑していたし、あえてそれを話題にすることもなかった。
(十代で芸者をやるとか言っていたら、たぶん激怒や勘当とかだったと思うけど…
パリコレに行った時も、その時のことも、報告はしたけど、
それに関して、まるっきり、会話はなかった。
ちゃんとふつうに可愛く結婚して子供を産んで欲しい、それが父の望みなのは分かっていたけど。


ほんとうにごめんなさい。と思うけれど、

もう遅い、もう遅いよ

芸者としてギャラをもらったからといって、父と同じくらいの年の人の
興味ない話に愛想よく相槌うったりして

父には、そんなに愛想よくなったりしたことって、なかったかもしれない。
それとは比較にならないほどのものを、わたしは父から貰っていたのに。
大学三年になるまで、わたしはバイトもしたことがなかった・・・

震災の後、今を大切にしなきゃ、
父を喜ばせようと、気仙沼のフカヒレを贈る準備やら
うちに遊びに来てよ~とか、言っていた矢先に父が倒れ、
いろんなこと、実現できないままになってしまった。
すべてわたしが後手後手だったから。

もっと分かり合いたかった
一度でも、背中を優しくアロママッサージとかしてあげればよかった。


今回、きつかったのは

もう、五年も前に、父が遺書ノートを残していたこと。

お墓はいらず、散骨で、密葬で、延命処置はしないで、など
とても事務的でちゃんとした内容なのだけれど

それが、「ママへのラブレター」というタイトルで
中に、ママに会えて幸せだった、生まれ変わってもまたママと会いたい、
その時には秘密の合図をして知らせてね、と
ママと知り合ったばかりの時の、デートOKの秘密の合図のこととか書かれていて
わたしも知らないような、お互いのあだ名が書かれたりしていて


えっ?パパって、こんなお茶目な人だったの???と、びっくりするような内容・・・・
こんなお茶目な性格を、どうして、ずっと隠していたのか・・・


今なら、わたし、いろいろできるのに
ほんとうだよ
やろうとしていた矢先なのに

もうあなたと話せないのがひたすら悲しい。

あなたの欠点が、そのまま、自分に跳ね返って
こんなに多くの欠点を共有できる相手はいないから
だからこそ、腹を割っていろいろ話せたかもしれないのに。

あなたは、無口で仏頂面ではあっても、
誰かの悪口や愚痴を垂れ流すことはしなかった。
そんな記憶は一度もない。


わたしがあなたに手をあげられたのはたった一度だけ、
親の前で汚い言葉づかいをしたときだけだった。(馬鹿、とか、馬鹿野郎とか、そんなものだったけれど・・・

今、わたしはあなたのすべてを赦し、肯定します。そして誇りに思う。
わたしとは真逆のお仕事人間、固い人だったけれど
深く話せば、きっと、笑いながら楽しく打ちとけ合える接点があったはず。

わたしが高校生の頃、すこし編み物にトライして、その時に、
父のセーターか、もっと簡単なベスト?作ったら、五万円くれるって言ってたことがあった。
わたしはそれでも、編み物の単調さに耐えきれず、投げ出してしまった。
お金で釣られてる的な悔しさも、一パーセントくらいあったかも。
なんで、作れてもいないのに、そんな金額を口にしたんだか・・・


今なら、練れて、わたし、いろんなことできたのに
いろんなことしたかった
させて欲しかったんだ、それが分かるかな・・・・


しかしあなたは、読み解くにはちょっと難しい読み物でもあった
いつでも、少し壁があった。
それが性格というものだろうけれど。

考えると、どんどん、つらいです。
これは、なにか、避けられない宿題なのだと思う。




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