#6 ありのままに見る、受け入れる。そこには何があるだろう?
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テーブルに、カップがひとつ置かれている。
あなたはそのカップを「白くて小さい」と思った。
でも、向かい側の人は「黒くて大きい」と言った。
それは「違い」であって「間違い」じゃない。
反対側の色はわからないし、大きさの感じ方も人それぞれだから。
物の見方も考え方も、人の数だけ多様にある。
同じテーブルに並べてみれば、世界は途端にクリアになる。
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自己紹介:yamamoto hayata 山本 隼汰
共創サークル『不協和音』と、このメディア『対岸』のオーナー。
自己紹介:尾森 明実
「英語を自分の仕事にしたい」との想いがあり、10代の頃から通訳を志す。通訳、英語学習トレーナーなどを経て、現在は企業のマネジメント層や経営陣を対象にコーチングを行っている。
(連絡先:https://www.becomeyourownleader.com/)
コーチ:尾森 明実さん
“できない自分”を受け入れるのが、実りある学びの第一歩
何かを学ぶプロセスにおいて、人はたくさんのギャップに直面する。
「思ったような結果が出ない」「想像以上にうまくいかない」
そこには、現状と理想という隔たれた2つの状態が生まれる。
——そのギャップを直視する姿勢が、成果の分かれ道。
山本さん:以前は通訳や英語学習のトレーナーをされてたんですよね。やっぱり、英語に興味や関心があるんですか?
尾森さん:昔はそうでしたね。でも最近は、本当に興味関心があるのは英語そのものじゃないんだな、と自分で腹落ちしてきた感じです。
山本さん:じゃ、何に興味が向いてるの?
尾森さん:人が何かを学ぼうとする時の「学ぶ姿勢」かな。学習と言うと教材やメソッドに目が行きがちですが、どんなに良いサービスやコンテンツがあっても、学習する人の「学ぶ姿勢」によって成果は大きく変化します。私が携わりたいのは、まさにその部分なんです。
山本さん:たとえば、「英語を話せるようになりたい」と思うAさんとBさんがいるとして、彼らは同じレベルで、同じサービスを使って学習したのに、結果的にレベルの差が生じた。それは、AさんとBさんの「学ぶ姿勢」の違いが原因だった、みたいなこと?
尾森さん:その通りです。英語学習で言えば、ホームワークを添削してフィードバックする時に、トレーナーは「良かった点」と「改善点」の両方を提示します。この結果を真正面から受け入れ、学習の糧にしていく態度と行動。これが「学ぶ姿勢」です。
多くの場合、学習者は“イケてない自分の姿”を突きつけられます。中には、その事実に対して斜に構える方がいます。「自分がこんなにできないはずがない」「あなたの言う通りに学習して、本当に実力が伸びるの?」と。この姿勢そのものが学習の成果を伸ばす阻害要因になってしまうんです。
山本さん:確かに、一人ひとりの姿勢の差が如実に表れるポイントかも。でも、それは学習者の自己責任だから、と割り切ることもできよね。だけど、尾森さんはそうしなかった。だからコーチングの領域に移られて、学ぶ姿勢を持てるように導く仕事を選ばれたんですよね。どうしてそちら側に興味が生まれたんだと思いますか?
尾森さん:私自身が、もっと早い段階で「学ぶ姿勢」を学びたかったから、かな。学習で成果を出すには「学ぶ姿勢」がとても大切なのに、「『学ぶ姿勢』を学ぶ機会や場」ってあまりないですよね? 私はそこにこそ関わってみたいなと思ったんです。
山本さん:なるほど。「学ぶ姿勢」を学ぶ…か。それって「違い」を受け入れるヒントにもなるような気がしますね。
隔たりに橋を架けてわかりあう。コミュニケーションは共同作業
学ぶ姿勢という切り口の角度を変えて、コミュニケーションにおける「違い」を考える。
ふたりはそんなアプローチを始めてみることにした。
山本さん:自分とは異なる価値観を持つ人とのコミュニケーションにおいても似たことが言えそうです。例えば、自分の意図と相手の受け取り方にズレが生じた時とか。価値観が違えば受け取り方も違うのは仕方ないけど、その「違い」をまっすぐに受け入れて、埋めていこうとする努力が大切だよね。
尾森さん:まさにそうですね。コミュニケーションで言うなら、自分の意図と相手の受け取り方が違っていた時に「隼汰さんはそんな受け取り方をするのか」と、まずは認識する。その次に「じゃあどうすれば伝わるかな?」と考えるか「私のことをわかってはくれないんだね」と考えるかが、思考の分岐点だと思います。
山本さん:なるほど。後者は「あなたはそう考えるんだね。私は、私の考えを変える気はないけど」って拒んでる感じがする。
尾森さん:うん。対岸にいる感じかな。その岸辺を離れるつもりはなくて、自分の解釈の枠組みを広げるようなしなやかさを持てていない感じ。
山本さん:隔たりがあるとわかっても、渡ろうとはしないわけだ。
尾森さん:渡ろうとしないし、橋を架けようともしない。橋を架ける発想自体がない人もいるでしょうね。
本当は、橋を架ければわかりあえるし、橋の架け方だってひとつじゃないのに。いろいろな方法を考えて「違い」を埋めようとするのが、コミュニケーションの本質なんだと思います。
山本さん:うんうん。お互いに補正するというか、歩み寄るというか。コミュニケーションって共同作業ですよね。
理由を問うだけが手段じゃない。好奇心が意外な扉を開いてくれる
山本さん:尾森さんは、異なる価値観の人と歩み寄るために大切なことって何だと思いますか?
尾森さん:コーチングでもお伝えしていますが「あえて『なぜ?』を考えない」ですね。
山本さん:おもしろそう。どういうこと?
尾森さん:例を出してみましょうか。Cさんは課長で、直属の部下のDさんが同じミスを繰り返すのを改善したい、と思っています。そもそも、なぜ同じミスを繰り返すのか理解できない、と。
この時、私は「『なぜ?』で考えないようにしてみましょう」と提案します。確かに「なぜ?」という発想が有効なケースは多い。でも、「なぜ?」は、ひとつの原因を追求したくなるような考え方なんです。「1つの原因」だけに思考を狭めていってしまう。でも、日々の生活で起こることの原因って、必ずしもひとつだけじゃないでしょう?
山本さん:たとえば、相手の置かれた立場とか、どんな思考プロセスをたどるか、考え方の傾向や価値観などの影響もありそうですよね。
尾森さん:まさしく。ですから、問いを立てるときに「なぜ」から「何」に転換するんです。つまり「Dさんはこのミスをした時、何を考えていたんでしょうね?」と問いかけてみる。これだけでも、思考の幅が少し広がります。同時に、周辺情報に好奇心を持ってみるスイッチが入ることもあります。原因や理由に向かう視点ではなくなると「だったら、何がそうさせたんだろう?」と想像することになりますから。
山本さん:なるほどなぁ…。確かに「なぜ?」って詰問とか尋問みたいに響くこともありますよね。でも「何」で考えたら、「違い」もファクターのひとつとして受け入れやすくなるのかもしれない。
尾森さん:そうですね。「なぜ」や原因究明はビジネスシーンでは定番のキーワードですが、必ずしも問題解決の発想だけが正解ではない、と思っています。「違い」を理解して、受け入れていこうとするならね。その時に必要なのは、自分自身の思考と行動。そして、思考と行動を動かすのは好奇心。問題解決するための質問では、なかなか好奇心を発動できないんです。
山本さん:問題解決って言っても、解決したのは一時的だった…という可能性もあるし。
尾森さん:その通りです。先ほどの例で言えば、課長のCさんは「なぜ?」でなく「何」で考えた結果、ミスを繰り返す部下に対して「確かにあの場面で、しかもDさんの年齢だったら、ああいう行動になるのかもしれない」と思えるようになる。ミスという問題ではなく、Dさんを取り巻く状況に目を向けることで、じゃあどうすればいいだろう?と思考が一歩前に進むはずです。
誰かの立場で物事を見る。
なんて簡単なことだろうと、思うかもしれない。
だけど、わかっているようで、気づかぬうちに視野は狭まってしまいがち。
そんな時は、好奇心に耳を傾けてみてもいい。
見えなくてわかりあえないなら、見える場所に置いてみよう
山本さん:僕は、これまでいろんな方と対談をしてみて、「違い」を認識する・受け入れる・理解して活用する…という段階があるんだなと思うようになりました。それは誰にでもできることじゃないし、難しいと感じる人も多いでしょうね。最初の一歩は「違い」に気づいて、表明することなのかな、と思っています。
尾森さん:「表明する」って、とても良い表現ですね。私はよく「テーブルに載せましょう」と言います。自分の思考や感情を率直に伝えることですね。目につくところに出して並べる、というイメージ。思考や感情は、オモテに出さないと他者にはわかりません。でもテーブルに載せて並べてみれば、とりあえず見えるようにはなる。
山本さん:うん。どんな違いがいくつあるのか、明らかになりますね。
尾森さん:そうですね。たとえば、違いを表明したテーブルの上に、カップがひとつあるとします。私はそのカップを「白くて小さい」と思っている。だけど、相手は「黒くて大きい」と思うかもしれません。
尾森さん:ここに違いが生じるのは、なぜでしょう。それは、同じ物でも人によって受け取り方が違うし、さらに言えば、どこから見るかによって物の姿自体が全然違っている可能性があるからです。カップは、表明した「違い」の象徴。自分と相手は同じものを全然違うように見ているかもしれないけど、テーブルに並べてみれば、違っている事実がわかるし、おぼろげながらも全体像が見えるようになる。そのうえで「じゃあ、この『違い』をどうしようか?」と、次の段階に踏み出していけますよね。
山本さん:なるほど。テーブルに載せちゃうと隠せないから、ありのままが見えるようになるし、直視して観察できるようにもなりますね。
テーブルに並べたものとは、一定の距離がある。
だから、内に抱え込むより、自分のことも客観的に見られるようになる。
何が見えていて、何が見えていないのかを知る、最適な方法かもしれない。
推測や思い込みで、すれ違いの連鎖を生まないために
山本さん:違いって、実は推測というか、思い込みからかたちづくられているケースも少なくないと思うんです。それと、推測なのに事実のように扱って、相手に対して勝手に思い込みをつくりあげていることもある。テーブルに載せる、自分の思考や感情を表明すると、不要な推測ができなくなります。その結果、違いが解消されたり、理解して受け入れるた素地が整ったりもするんだなと思いました。
尾森さん:見えている一面だけで判断したことが、事実とは限らないですからね。たとえば、私の夫はクリスチャンなんですけど、教会に行くのは好きじゃないらしいんです。
山本さん:え、なぜですか?
尾森さん:子どもの頃の体験が、彼にとってあまり好ましいものではなかったらしく、成長した今でも影響を残しているようですね。
でも、それって彼が言わないとわからない事実。だから、肌が白くてブロンドヘアの夫が「私はクリスチャンです」って言ったら、“なんとなく”毎週教会に通う敬虔な信仰者だと思ってしまう人がいるかもしれない。
もちろん、教会が好きかどうかと、敬虔な信者かどうかは別次元の話なんだけど、ある一面から推測できてしまうことで、無意識にバイアスをかけてしまうリスクがあるとは思うんです。
山本さん:必ずしも悪意があるわけじゃなくても「きっとこうなんだろうな」って推測することで、気づかないうちに認識の「違い」を生む可能性があるってことですね。推測をベースにギャップを積み上げていってしまうというかね。
尾森さん:そう。人は、自分が見たいように物事を見ようとするんですよね。その見方自体は、一人ひとりの価値観や個性とも関連するもので、違っていても悪いものではない。ただ、推測から事実と異なる見方をしてしまうのはよくないですよね。あとは、隼汰さんが言った通り、推測って思い込みを生みやすいから、他の人は自分と違う見方をするんだって気づけず、自分の見方を押しつけてしまうことも、あるかもしれない。
山本さん:「私は『違い』を受け入れません」って拒むのとは真逆だけど、「私の見方を受け入れてよ」って押しつけるのもよくないよね。特に、一見すると客観的に理由を説明しているようでいて、実は主張を押し込んでいることってあると思う。
尾森さん:確かに、主張も扱い方が大切なものだと思います。「違い」って「多様性」に近しいと思うんだけど、多様性を理解するには相手の意見を聴き、受け入れるのが大事だ…という発想は市民権を得つつあります。でも、もう一つ大事なのは、適切に主張すること。アサーション(assertion)と言いますが、相手に挑むわけではなく、論破するでもなく、率直に、適切に考えや感情を表現できることも、大切なスキルですね。
山本さん:感情的になっちゃダメってこと?
尾森さん:自分が今どんな感情を抱いているのか認知するのは大切だけど、その感情に任せた伝え方をするのはよくない、ということかな。それが、挑まない、論破しないってこと。主張っていう単語は強いニュアンスがあるけど、相手を押したり、切りつけたりするものではないんです。
山本さん:なるほど。自分の考えや感じたことを率直に、ありのままに、強くも弱くもせずに伝えるのが大事なんですね。
尾森さん:そんな姿勢で人とコミュニケーションができれば、対岸にいても橋を架けてわかりあえるようになるし、お互いが持っている違いをポジティブに受け入れていけるようになると私は思います。
山本さん:なるほど。「違い」だと思っていたものも、見方を変えれば変わるかもしれない。多様な見方があると認知してみることで、目に映る世界が変わり、わかりあえる可能性が広がるのかもしれませんね。本日はありがとうございました。
見えたこと、感じたことを、ありのままに。
たったそれだけで、「違い」はたちまち姿を変えることがある。
実は、違っていなかった。そんな気づきもあるだろう。
多様な見方を尊重しながら、率直に寄り添い合わせる。
そこに浮かび上がる「違い」は、きっと、少しいとおしい。
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メディア『対岸』では、”違いって、おもしろい”をコンセプトとし、魅力的な個人との対話を通して、その人にとっての違いや、違いの楽しみ方を記事にして発信していきます。
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